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Epilogue

 その館は、雪の衣装を纏っていた。  そこは懐かしく、そして、ちりっと妬かれるような痛みを感じずにはいられない場所だった。  初等部の頃、橘家所有のその別荘で、二組の家族は何度か一緒に夏を過ごした。しかし、中等部になってからは、楽団関連の仕事で都合がつかず、来ることができなかった。高等部に進級するのを機に楽団を抜け、その夏は冬馬、秋穂と三人で久しぶりにここで過ごすことになった。 (でも、もうここに、オレの居場所なんてなかった──)  詩雨のいない三度の夏の間に、ふたりだけの世界を築き上げてしまっていたのだ。表面は楽しんでいるように取り繕っていたが、その実すぐにでも帰りたい心境だった。 「詩雨くん、鍵開いてるよ」  物思いに耽っていると、兄の天音が声をかけてきた。  壱也を搬送して貰った先は、天音の友人の一族が営んでいる病院で、その友人もまた腕の良い医師(ドクター)だ。  秋穂のマンションに迎えに来た天音と一緒に、怪我の処置後しばらく経過を見守った。その間橘・石蕗両家の間で、話し合いが行われていた。  夜が明けてから、天音の運転でこの橘家の別荘へとやって来た。  処置中に一度、冬馬に電話を入れたが「この電話は現在──」という、虚しい電子音が聞こえるばかりだった。秋穂のスマホも同様だった。、冬馬も秋穂もスマホの電源を落としたのだろう。すべてを断ち切ろうとでもしたのか。  いやな予感がした。すぐに捜さなければならないような、そんな焦りを感じた。  冬馬のマンションやオフィスにも寄ったがふたりの姿はなく、病院に残っている彼の弟の優馬に連絡を入れた。  冬馬がよく独りで行く場所は、ふたりが夏を過ごしていた場所だ。何故か、そこしかないと思った。  詩雨は天音の運転で別荘に向かい、橘の本宅にスペアキーがあるからと別口で優馬も来ることになった。詩雨たちの方が先に目的地に到着した。館の傍に見慣れた車が駐車されており、やはり間違いないと思った。  天音が玄関の鍵が開いていることに気づいたのは、別に確信あってノブに触れたわけではない。詩雨が憂愁に浸っている間に、インターフォンを鳴らし、応答がないので、更にドアノブを回したら開いた、というだけのことだ。優馬の到着を待たず、ふたりは中に入った。  リビングの応接セットのところには、怪我の手当てをしたらしい痕跡があった。消毒液や痛み止め。真新しい包帯。そして、ゴミ箱には、血に汚れた包帯やガーゼが捨てられている。 (ケガ……ひどいのか?)  冬馬がいつも使っている一階の部屋に入る。上掛けが少し乱れた状態のベッドは、使われていたことを物語っていた。沈んだ気持ちで上掛けを剥いでみると、白いシーツは擦りつけられたような感じで赤く染まっている。 (冬馬の血?それとも……)  ここで行われた光景が一瞬浮かび、頭を振って追い払う。 「家の中にはいないみたいだよ」  開きっぱなしのドアのところから、天音に声をかけられる。天音はもう他を回って来たらしい。 「どうする?」 「オレ、ちょっと外を見てくる」 「そう?じゃあ、僕はここで優馬くんを待っているよ」  そう言うとリビングのソファに座って、スマホを弄り始めた。たぶん、天音にとって、冬馬も秋穂もどうでもいいのだろう。 (天音くんが大事なのは、オレだけだからな。オレがパニックってるから協力してるだけ)  詩雨は外に出た。 (あの場所には、どうやって行ったかな……)  よくふたりが寄り添うように過ごしていた沼のことを思い出した。辺りを見回すと、雪の上に二組の足跡があった。 (冬馬たちのものだろうか)  この辺りは、朝方まで雪が強く降っていたらしい。彼らが外に出たのはその後なのだろう。もしかしてそんなに経ってはいないんじゃないか、と考えながら足跡を辿っていった。  途中から所どころ、白い雪の上に小さな赤い花のような染みが見える。 (血……?)  ほどなくして、あの懐かしい場所に出た。  今は雪化粧をしている沼の畔。  しかし、詩雨の瞳に一瞬、映ったのは──緑に彩られた夏の風景──だった。  ふたりもこの風景を見たのだろうか。  水際に血に染まった包帯が落ちていた。  詩雨の頭の中で、ざわざわと何かが騒めく。 (二家族で来た最初の夏、水に入ろうとしたオレは、冬馬の母親にきつく叱られた)  ここは水もえらい冷やこいし、見た目よりずっと深いし。入ったらあきまへんえ、と。  そして、また、ノイズ。  今度は、電話越しの冬馬の声が聞こえる。 「もし、秋穂に会っていなかったら、俺は──」  その後の言葉を聞きたくなくて、詩雨は慌てて電話を切ったのだ。 「もし、秋穂に会っていなかったら、どうだって言うんだよ」  誰が聞いているわけでもないのに、ぽろっと口から零れる。 「オレを選んだっていうのか。そうだな、たぶん、そう言おうとしたんだな、おまえは」  白い頬に一筋涙が落ちる。 「もし……もしもってなんだよ。そんなのなんの意味もない。現実におまえは、オレを選ばなかったんだから」  まるでその中に冬馬がいるかのように、詩雨は暗い水に向かって言い放つ。 「最期にそんなこと言うなんて……。いや、最期だから言ったのか?冬馬、ほんとにおまえは天然タラシだよ。そんな言葉で、オレを縛りつけやがって」  泣き崩れそうになるのを、必死で耐えた。しかし、涙が流れるのだけは、止めることができない。 「しうぅー、どこぉー?優馬くん来たよー」  遠くで天音が呼んでいる声がする。  その時。  急に強い風が吹き、雪が舞い上がった。  しう。ごめん。  さよなら。  冬馬の声がしたような気がした。もちろん、錯覚だろう。耳許でごぉごぉいう風が、そう、聞こえただけ。 「さよなら、なんて、言わない」  ぽつんとそう漏らし、に背を向けた────。               Fin    

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