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52.夏の終わりに(30)

 あの女は俺と別れる折、「仕事はする」と言っていたから、おおかた自分の美貌を活かして、キャバ嬢かガールズバーあたりで働くのかと思ったら、まさかの美人局か。  確かに未玲は美人だし、スタイルも抜群だった。大学に通っている間は、ちょっとした「ミスコン荒らし」をやって、各賞を総ナメにしたとも聞く。  ただ、とにかく性格が悪かった。俗に言うところのという部類なんだろうが、俺に言わせりゃ「生まれる前から性根が曲がっていた」と疑わざるをえないくらいのヒネっぷりだ。外面(そとづら)こそはいいものの、二人っきりになった途端、別人のごとく横柄になるんだから。 「ただいま」 「た、ただいまだよー」 「あら、あなたたち。ちょうど良かったわね。晩ご飯できてるから、お父さんを起こしてきてくれる?」  何も知らないお袋は、手を洗ってリビングへ戻って来た俺とミオをもてなすために、今晩も相当なごちそうを用意してくれたようだ。  特に、ミオが好みそうな魚介類のおかずがテーブルを彩り、いい匂いを漂わせている。 「うん、分かった。ミオはウサちゃんを連れて来るから、俺が起こしに行くよ。……でさ」 「ん? 何よ義弘、急に。そんな深刻そうな顔をして」 「ちょっと大事な話があるんだ。洗い物が終わったら、親父と一緒に聞いてくれるかな」 「大事な話? ミオちゃんに関係する内容の?」 「いや、その、何というか、元カノの事でね。さっき、同僚から電話があったんだ」  気まずさでうつむき加減になっている俺の話を聞き終えた途端、お袋の顔が憤怒に満ち溢れる、般若(はんにゃ)のような恐ろしい形相へと変わった。  般若とは、即ち女性の怒りと嫉妬で鬼と化した姿。能楽の世界では、般若へと至る前に泥眼(でいがん)という、怒りが頂点に達する前の……って、そんな事を思い出している場合じゃない!  鬼と化したお袋の顔を見せないよう、俺は背中に隠れているミオを後ろ手で押し出し、ウサちゃんのぬいぐるみが待っている寝室へ行くよう促した。 「今度はあんたに何したの! あの女は!!」  こ、こえぇー! 先にミオを遠ざけておいて良かった。あの「十万くれ事件」はもう数年前の話なのに、こうして怒声を張り上げて問い詰める程、お袋の心の中には、まだ憎悪の火ダネが(くすぶ)っていたんだ。  こりゃまた家族会議になるな。間違いなく。それは仕方ないとして、俺のせいでミオまでが参加する羽目になるのは、とんだだ。全くもって申し訳ない。  とにかくこの場は、一刻でも早くお袋の誤解を解き、怒りを(しず)めなければ。ウサちゃんを抱いて戻ってきたミオが、激昂したお袋の剣幕に押され、詰問にたじろぐ俺を見たら、間違いなくトラウマを刻み込まれてしまう。

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