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15:想定外の再会

ガチャリと。 背後から扉が開く音が聞こえた。 その瞬間、膝に顔を埋めていた春日の肩がビクリと震える。 誰かが春日の背後に立つ気配を感じた。    ○ 春日はトイレの手洗い場の前で蹲っていた。 宮野からの唐突の退職宣言に耐えきれず、春日は逃げ出してしまったのだ。 冷静になれと何度も自分に言い聞かせた。しかし、どうしても感情は、涙は、言う事を聞いてくれない。 『ひぃぃん』なんて言う、子供かとツッコミを入れたくなるような泣き声を店員に晒しながら、春日は逃げるようにお手洗いへと走った。 そして、個室にもどこにも使用者が居ない事が分かると、春日は我慢できずにその場にうずくまってしまった。 いつ、誰が入って来てもおかしくないトイレの入り口で何をしているんだと、春日自身思ったが、どうにも立ち上がる気力すらない。 『春日、俺、会社辞める事になった』 そう、宮野は言った。そこには揺るぎない意思の他に、もう多分上にも話は通してあるという事実も見え隠れしていた。 きっと、宮野の退職は揺るがない。決まっていた事なのだろう。 理由はわからない。聞きそびれた。 しかし、春日を襲う漠然とした不安は、急に春日を一人では立てなくなる程、彼を心細く、そして不安にさせた。 全ての仕事の指針だった。 いや、人生の先輩と言って言い程、宮野との出会いは春日の人生観をこの10カ月でゆるやかに変えた。 始めての職場、初めての社会人経験を、宮野の下で、宮野の背中を見て、宮野の言葉を聞いてやってきた。 いつか自分だって独り立ちして後輩なんかができたりるす未来があるとは思っていた。 しかし、そこには宮野が居るものだと信じて疑わなかった。 それに、こんなにすぐに独り立ちの時が来るなんて思いもしなかった。 すぐに、とはいっても1年近くはみっちり教えてもらったのだが。 それにしても、それだって。 唐突だ。 怖い、怖い、怖い、 「(怖い……怖いですよ。宮野さん)」 春日とて社会人だ。 上司の異動や転勤なんて部署の中でもないわけではなかった。 よくある事。 そう、頭では理解していた。 けれど、変化は突然訪れるなんて、そんなの本当の意味で春日はわかっちゃいなかった。 春日は老けてみられる。落ち着いてるね、なんて言われる。 けれど、春日だって普通の社会人1年目の若造だ。 経験した事がない事を、いくら頭で理解していても実感を持つ事はなかった。 今、その“よくある事”を春日は初めて自分の事として受け止めているのだ。 涙が止まらない。 不安と、恐怖で、止まらない。 そんな時だった。 扉の開く音を聞いたのは。 背後に、人の気配を感じたのは。 「っ!」 「っ大丈夫ですか!?」 その、どこか聞き覚えのある声に、春日は伏せていた顔を上げ、声のする方を振り返った。 すると、そこには……。 「っ!春日さんじゃないですか!?」 太宰府だった。 太宰府互譲。春日が12月25日、クリスマスの日に閉じ込められたエレベーターで一緒になった、若いイケメンの役職持ちの男。 春日は懐かしさと、引き続き襲ってくる不安に涙を流しながら口を開いた。 「……だ、だざふ、ざん……」 「ちょっ!どうしたんですか!?具合でも悪いんですか!?」 蹲りながらボロボロと涙を零す春日に、太宰府は先程まで自分が感じていた焦燥が一気に吹っ飛ぶのを感じると、慌てて春日に駆け寄った。 春日も春日で慌てる太宰府を前にブンブンと首を横に振った。 「ぢがうんでず。ずみまぜん……邪魔でずよね…。でも、ずみばぜん。まだちょっど、席には戻れそうにだいので。どうぞ、気にせず……」 「気にしますよ!どうしたんですか!?一体!……いや、それよりも。ここじゃ他の人が来た時に人目を引きますから……そうだ!立てますか?春日さん」 春日は太宰府にそっと手を取られると、顔を覗き込んでくる太宰府にコクリと頷いて、そろそろと立ち上がった。 その仕草に、太宰府は「あ、かわいい」と内心全く関係のない事が頭の片隅を掠めたのを感じた。この時、やはり太宰府は混乱していたのかもしれない。 連日連夜の仕事尽くし。 部下からの突然の退職宣言。 そして、予期せぬ喜ばしい再会。 疲れてよいのやら、悲しめばよいのやら、喜べばよいのやら。 そう、きっと彼は混乱していたのであった。 太宰府は取った春日の手をゆっくりと引き、背中をさすりながら。 まさかのトイレの一番奥の個室に春日を引きこんだ。 そして、共に個室に入り鍵を閉める。 他意はない。 誓って、太宰府には邪な他意など一切ない。 彼は、混乱していたのだ。 「座ってください。どうしたんですか?あんな所で、気分でも悪かったんですか?」 「……ぢがうんでず」 そして、連れ込まれた春日も混乱していた。 人手の足らない会社での激務。 上司からの退職宣言。 そして、予期せぬ驚きの再会。 疲れてよいのやら、悲しめばよいのやら、驚けばよいのやら。 そう、きっと彼も混乱していたのであった。 春日はトイレの個室に連れられ、あまつさえ狭い空間の中男二人が入り込み、鍵を閉められ。 そして自分は洋式の便座のフタを閉めた上に座らせられている。 が、春日も一切なにも変だと思わなかった。 確かに此処だと誰にも迷惑をかけなくて済む、程度に思っていた。 彼も、混乱していたのだ。 「太宰府ざん……今、俺、上司と飲みに……ぎでまじで」 「はい。それで?」 「俺の、面倒を、ずっど見てくれていた、上司で。でも、3月に辞めるって言われて……俺、俺……ひぃぃぃんっ」

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