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16:自覚

ひぃぃんっ。 という奇怪な泣き声と共に語られた内容は、とてもシンプルだった。 お世話になった上司が辞める、だから悲しい。 しかし、それを聞いた太宰府はなんとも切ない気持になった。 「それは……悲しい、ですね。春日さん」 「ばい、はいっ。俺、もうふあんで、いつも頼りっぱだじだったので」 そう言ってまた手で顔を覆う春日に、太宰府は春日の背中を手でさすった。 大の大人がその程度の事で泣いている。それを前にして普段の太宰府なら軽く引いていたかもしれない。 しかし、今は逆だった。 「(春日さんに、ここまで想ってもらえるなんて……羨ましい人も居るな)」 太宰府には、春日の涙を流す“上司”が羨ましくて仕方がなかった。 それは相手が春日だという事もある。加えて、今の春日の陥っている状況が更にそうさせた。 自分は、部下から手を離された。 離させてしまった。 と。 「でも、春日さん。こういう事初めてじゃないですよね?移動も転勤も、退職も、俺達サラリーマンにはつきものです」 「…………」 「受け入れなければならないんです」 そう、太宰府は自分に言い聞かせるように言った。 よくある事だから。 所詮仕事上だけでの付き合いだから。 折り合いをつけて、受け入れていくしかない。 そう、思う事で甘木の所へ戻った時の対応を決めてしまおうかと思ったのだ。 引きとめる言葉を太宰府は持たないと。 奪った自分は何も言えないのだ、と。 そして、それ以上に。 「(もう、怖いんだ。怖いんだよ)」 育てる事が。奪う事が。 辞めたければ、辞めればいい。 逃げだせばいい。自分が奪ってしまったのだから、止めるすべはない。 そう、受け入れて流してしまおうと、太宰府していたのだ。 けれど。 「初めて、です」 「は……?」 初めて?いや、そんな筈はないだろう。 太宰府は自分の耳を疑った。自分と同じとしか、もしくは年上で、他者の異動や転勤、退職を経験していないなんて事はあり得ない。 仕事は回るものだ。どんなに小さなところでも、変化は付きものの筈だ。 「っ!」 そう、太宰府が思った時、太宰府はドキリとした。 それまで手で顔を覆っていた春日が、ハッキリと太宰府の目を見ていた。 揺れる瞳、濡れる瞳、逸らされない視線、不安に揺れる気持ち。 それらが、先程の甘木を彷彿とさせた。 どくり、どくり、と心臓が重く鳴り響く。 「異動も、転勤も、退職だって……太宰府さんの言うとおり、社会人なら、当たり前の事だって、わかってます。けど……!」 「春日、さん」 「“その人”が居なくなるのは、いつだって“初めて”の筈です!同じ人は居ないんです!いつも初めてでしょう!当たり前になんて、俺はできません!だって、一人だけなのに!」 「っ!」 「辞めて欲しくない!まだ、いろいろ教えて欲しい!まだ、聞きたい事だって山ほどあるのに!俺は、怖いです!怖いんです!」 そう、叫ぶように放たれた春日の言葉に、太宰府はドッドッドッと心臓が早く鳴るのを感じた。怖いです、怖いんです。そう、春日の口から吐き出すように漏れる言葉に。 そして。 「……俺も、怖いです」 「っだ、太宰府さん……?」 太宰府は静かに泣いていた。 春日のようにボロボロと後を絶たず流れるような涙ではなく。 一筋、たった一筋、その目から流れていた。 「太宰府さん……」 「春日さん、俺、また……逃げようとしてました」 「…………」 「自分可愛さに、また、手を離そうとしました」 太宰府はジッと自分を見上げてくる春日の目を見ながら、涙を流していた。 本人の意思だとか、よくある事だとか。 そう言う体裁で覆い隠そうとしていた。 人を育てるという事への責任から、逃れようとしていた。 もう、怖くて、逃げようとしていた。 ショックだった。 自分のせいで、自分がきっかけで辞めたいと思わせてしまった事が。 けれど、もっとショックだったのは「辞めないでほしい」という言葉さえ、上手く表現できない不器用な自分の無力さだった。 頑張っているのは知っている。 成長していないなんて言わせない。 自信がなくて、引っ込み思案で、ビールが苦手で、物事の判断が遅くて、でも言った事は守ろうと頑張っている。 そんな、頼りない平成生まれのゆとり世代の部下に太宰府だって辞めて欲しいなんて思った事はない。 せっかくここまで“成長”してくれたのだ。未来、できれば自分の目の届く所で“育てた甲斐”を見てみたい。 なのに。 『無理です』という言葉に腰が引けてしまった。 だから受け入れて流してしまいそうになった。 先に手を離したのは、向こうだから、と。 けれど、本当はまだ甘木だって手を離したりなんかしていない。 人間なんだから迷う筈だ。不安にだってなる。 新人なのだったら、尚の事。 「(また、俺から手を離す所だった)」 そう、春日が思った瞬間。 春日の頬に、暖かい“何か”が触れた。 「太宰府さん、泣かないで、ください」 「っ!」 「すみません、そうですよね。太宰府さんだって……同じですよね。すみません、俺ばっかり、みたいな事言って。だから、泣かないでください」 そう、何度も何度も触れるのは春日の暖かい手だった。 涙を拭うように触れるその手は、春日の人柄を表すようにほのかに暖かかった。 その瞬間、カッと太宰府の顔に一気に熱が集中する。 またしても、あのエレベーターの時のような胸の高鳴り。 それと同時に、ある想いも太宰府の中に蘇っていた。 「(連絡先を、今度こそ……!)」 そう、突然その想いだけが太宰府の脳内を満たした時。 コンコン。 二人の入る個室の扉が何者かによって叩かれた。 その時、太宰府はビクリと体を強張らせ(断じてやましい気持ちのせいではない)、春日も驚きでビクリと体をはねさせた。 そして、次の瞬間。 「おーい、春日。大丈夫かー?」 「太宰府さん……大丈夫ですか?」 互いに聞きなれた連れの声を扉の向こうから聞いた。 二人は一瞬互いに顔を見合わせると、しめし合わせたわけではないのに二人して同じ事を口走っていた。 「「だ、大丈夫です……!」」 それは、二人がトイレの個室に入った約20分後の事だった。

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