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第1章 現在(3)
あかりの耳にすら入るほど、もうその噂が広まっているのか。それはこの座敷に入った途端に空気が変わった理由であり、近くの席の男達の態度がぎこちなかった理由だった。
そして、あかりに対する落胆を覚えた。あまり話したことはなかったものの、今日まで彼女に対して悪い印象はなかった。でも本当はひどく無神経な人間だったのだろうか。特別親しくもない相手に、こんなタイミングでこんな質問をしてくるなんて。
ちらりとあかりの顔を横目で見てみると、高志の表情をじっと窺っている。
「それで、何」
先を促す。どうしても少し声が冷たくなってしまう。
「あ、はい。あの、すみません、不愉快になりましたよね」
「……別に」
「本当にごめんなさい。しかも今から更に失礼な質問をしてしまうと思います……もし答えたくなければそう言ってください」
あかりはそこで再び言い淀んだ。さっきよりも更に長い時間、言い出せずに眉根を寄せて俯いている。
高志もやはり先程と同じように、急かさずに待った。待つというより、放置しておいたという方が正しいかもしれない。
あかりは結局言い出せなかったようで、「すみません、ちょっと待ってください」と言って離れていった。そして自分の荷物を持って戻ってきた。
「筆談でもいいですか」
メモとペンを取り出して、あかりがそう言う。
「何だよそれ」
「すみません……どうしても口では言いにくくて」
じゃあやめておけよ、と心の中で呟く。
再び横目で見てみると、あかりは文字を書くのにも躊躇いがあるようだった。やっと何かを書き出したが、ペンを持つ手が震えている。テーブルの上で書けばいいのに、こちらに見えないように自分の手元で書いている。何故か正座している。
「……お願いします」
ようやく書き終えて、裏返しにしたメモをテーブルに置く。もはや明らかに手が震えている。「無理なら構いませんので」と俯いて言った。
高志は一拍おいてからメモを手に取り、書かれた内容を読む。震えた字でこう書かれていた。
『うしろでしたことはありますか』
高志は少し呼吸を止めてから、数秒して深く息を吐いた。何となく、諦めと表現するのが一番しっくりくるような気分だった。あかりは正座して俯いたまま、膝の上でぎゅっと握った手を震わせていた。ただの興味本位というには悲壮感があった。
「……何かの罰ゲーム?」
静かにそう聞くと、あかりは眉根を寄せた表情で顔を上げ、首を横に振った。
「……いえ、私がお聞きしました。すみません」
「何でこんなこと知りたいんだ」
「失礼なのは承知しています。申し訳ありません」
深く頭を下げて、そして再び顔を上げた。
「藤代くんさえ良ければ、理由を説明させてもらえますか。その上でやっぱり答えたくないと思ったらそう言ってください」
その様子からは、単に興味本位という以上の理由があるように思われ、高志は少しだけあかりの話を聞いてみようという気になった。何かは分からないが、もし理由があってこのような話をしているとしたら、その方がいい気がした。単に無神経な人間だった訳ではなかったということだから。
「時間かかる?」
テーブルには、ちょうどデザートのシャーベットが配られるところだった。
「はい、できれば」
「じゃあ、ここ出た後で」
ありがとうございます、とあかりがまた頭を下げた。
それから、二人とも黙ったまま並んでシャーベットを食べた。
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