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第3章 8月-電話(1)

 決行の日は、夏休み明け最初の金曜日にした。  その日、高志は喉をせり上がってくる緊張感を抑え、努めて毎日のルーティンのとおりに動いた。  希美には、今日は会えないことを予め伝えていた。終業後すぐに会社を出て電車で帰宅する。外食する気になれず、帰る前にスーパーに寄る。まだ料理と呼べるものを作ることはできないが、肉の焼き方だけは母親に教えられていた。鶏肉と適当なサラダ、それからアルコールを購入する。  気付けば浅く速くなっている呼吸をその度に落ち着けながら、家に帰って着替え、それから買った肉を塩胡椒で焼く。殊更に時間をかけて丁寧にやった。まだ電話するには時間が早かった。湯を沸かしてインスタントの味噌汁を作る。買い置きのレトルトのご飯をレンジで温める。  両面に火が通って脂の出た鶏肉を皿に移し、サラダと一緒にローテーブルに運ぶ。胃の辺りに緊張からくる圧迫感があり、食欲はなかったが、機械的に口に運んだ。食べ終わるまで時間がかかるくらいでちょうど良かった。少し緊張が和らぐかと思い、チューハイの缶も開けた。  昨日までは待ちきれないと思っていたのに、いざ今日を迎えるとネガティブな想像がどんどん湧いて出てくる。もしすぐに切られたら。もし話したくないと言われたら。もし、もう自分が茂にとって何の興味も持てない存在となっていたら。  そしていつものように自分に言い聞かせる。悪い結果なら悪い結果で、それを明らかにして受け止めるしかない。期待だけをずるずる持ち続けるよりはいい。  そうやって、21時になるのをひたすら高志は待った。21時に電話しようと決めていた。家には帰っているであろう時間で、まだ寝ていないであろう時間。何もせずに待っていると驚くほど時間が進まなかったが、何かをしようと思っても手につかず、ただベッドの上で天井を見上げながら高志は待った。ぼんやりと大学時代の茂のことを思い出していた。そしてこの不安の先に良い結果が待っていることを信じようとした。  寝ころんだまま、左腕を上げる。目の前にある腕時計の短針は9を指している。ヘッドボードで充電していたスマホを手に取ると、やはり画面には「21:01」と表示されていた。高志は茂の新しい番号を呼び出した。  発信ボタンを押すのに、少しの思い切りが必要だった。数秒躊躇った後、どうにでもなれと思いながらタッチし、そのまま耳に当てる。機械的な短音が何度か続くのを聞いていたが、呼び出し音に切り替わった瞬間に、高志の体は勝手に起き上がっていた。鳴り続ける呼び出し音を聞く。出るだろうか。出ないだろうか。出るだろうか――  何度目かのコールで、相手が電話に出た。 『――もしもし』  茂の声だった。 「――」  その瞬間、頭が真っ白になる。しばらく声が出なかった。その長すぎる無言が茂に不信感を与える前に、高志は何とか言葉を絞り出した。 「……細谷」  呼び掛ける。後の言葉が続かない。生まれる沈黙がひどく長いもののように思え、また焦りを感じた。このままでは切られてしまう。早く何かもっと話さなければ。何か。 『……藤代?』  その瞬間、高志は息を呑む。  懐かしい声が、確かに今、自分の名を呼んだ。 「――」 『え? 藤代?』  電話口の向こうから、戸惑ったような、能天気なような、茂の声が聞こえる。高志は一つ深呼吸すると、その呼び掛けに答えた。 「……うん。俺」 『……』 「ごめん。いきなり電話して」 『いや……いいけど』 「今、少しだけ話してもいいか」 『え、うん』 「もし」  話したくなければ、このまま切ってくれ。用意していた言葉を、高志は飲み込む。たとえ本当は話したくないと思っていたとしても、茂がそうしないのは分かっていた。だから言う意味もなかった。

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