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第六話 トラウマ
「そういえば、おまえ学校は?」
「今日は午後からだから大丈夫」
「そうか」
互いに向き合ったまま会話をするも、蓮は謝らないといけないと口を動かす。けれど思うように声が出なく、自分が情けなくなる。会話だって途切れさせてしまって続かない。昔のように戻るだけだと思ってはいたが、子どもの頃とは違って俺がどんな奴か晴は知っている。そのまま昔に、なんては虫が良すぎる。
今更だろ。
あの時、散々泣いて。胸が痛くて、絶望して。世界なんかなくなればいいって喚 き散らした。そうして気づいた。ちっぽけな世界を呪ったところで傷が癒えるわけではないことを。だからこうして今の俺があるんだ。
けれど、二度目は耐えられるだろうか。一度目は耐え抜いて生きている。どうにか息をしている。今度はどうだろうか。今、手を振り払われたら。逃げられたら、叩かれたら。涙を流されたら。
きっとぽっくりと簡単に首が折れてしまう。
「わ、るかった」
蓮は目を逸らしながら謝る。爆弾を抱えた胸を押さえながら、はっきりと口に出した。
「もしかして昨日のこと言ってんの?」
ビクッと肩が揺れ、がくがくと震えているような気がした。声も潤いがなくなったのか、喋れない気がする。
蓮は代わりに、こくこくと頷いた。
「全然気にしてないけど」
それが日常なんだと言わんばかりのあっけらかんとした声だった。
蓮はようやくほっとする。これで不安要素は消えたと肩の力が抜け、糸が切れたかのように身体が緩くなった。けれどその気にも留めない態度に胸の痛みは継続中だった。これでいいはずなのに欲張るなと心で叫んでいても頭では昨日のキスで埋め尽くされる。
「なら、良かった」
自分の言葉に傷ついた心を無視することは慣れている。
蓮は服の袖を掴みながら顔を合わせないよう目を閉じて笑顔を取り繕 った。ここで豪快に笑っても変な奴だと思われる。いや、昨日の失態で十分晴からすれば変態だろう。
「兄さんって酔うとキス魔になるんだね。誰にでもそう?」
「は? いや、普段は滅多に酔わねぇよ」
「でも昨日の感じからしてずいぶん慣れてそうだったけど」
「そりゃ、まぁ…昨日みたいなことは初めてじゃねぇし」
「俺は何回目?」
「……なんだって?」
「だって相当遊んでたんでしょ?」
「遊んでねぇわ。良さそうな奴引っかけたぐらいで」
「それを遊んでるっていうんだけど」
「片手で数えるくらいしか家に連れ込んだことがねぇ奴を遊んでるとは言わねぇだろ」
「酔った勢いなのに?」
「だから普段は気をつけてるっつてんだろ」
「え~見境なく誰とでも誘うんだ。流石にそれはちょっと心配なんだけど?」
「人を発情した猿みたいに言うな。そんな誰ともでもいいわけねぇだろ」
しつこい質問責めにそれでも目を合わせられず答えていく。付き合った男が何人かいるけれど、おまえのこと忘れられず長続きしなかったなんて言えるわけがない。
そういえば、晴は俺のこと気持ち悪がってるはずなのによくこんな話できるな。
蓮はあの日拒否された顔とは正反対だと内心は戸惑っていた。
「なら、兄さんって俺のこと好きなんだ」
ドンっと背中を押され、突き落とされたようだった。そんな心臓の音に呼吸が荒くなる。
落とされて動けない自分。覆い被さってくる空虚な闇に悲鳴すら出ない。
怖くて、怖くて、反射的に否定する。
「ち、違う。その、おまえの顔が元カレに似ていた、から」
上ずった声で張ってしまう。いつだって本当に怖いのは、作り話ではなく、本当のことだ。
誰がどう聞いてもバレバレの嘘だ。動揺しているのが声の震えでわかる。
蓮は背中に冷や汗を流しながら唇を噛んだ。
もう一つの不安要素が当たった。昨日の記憶がない。それはつまり、晴の名前を呼んで、「すきだ」と言ってしまったのではないかということだった。普段抑え込んでいた理性が爆発して、暴走したんだ。晴に似ていたから。名前も聞かなかったし、勝手に呼んでいたに違いない。今度こそ俺は、この世界で生きられない。そう思った。
「そうなんだ」
柔らかい口調でそう言うと晴に手を握られた。
あれ、嘘に気づいていないのか。いや、そんなはずあるか。どんな鈍い奴だ。聞いてなかったことにしてくれたのだろうか。でもそれなら俺の想いも受け入れられないという答えなのか。
蓮は晴の意図がわからず、懊悩 する。
「なら、ここに住んでもいいよね?」
「……は?」
「ここに住まわせてって言ってるの」
「そんなの駄目に決まっているだろ!」
ついていけない展開に蓮は大声を出してしまった。
なんでそんな話になる。というかおまえがいると俺が我慢できなくなるだろ。
蓮はこれまで抑え込んでいた想いが溢れ出てくるのを止められない気がした。それでも夢のように望んでいた二人での生活は楽しそうだと想像してみる。想像して、一瞬にして破裂する。
両親の顔が出てきた。泣いている母。怒鳴り散らかして悲痛な顔をする父。このことが両親に知られたら、また俺は親不孝者になる。わかりきったことだけど、それでも批判の声はもうたくさんだ。
蓮は隠している弱った精神を守るため「俺のところはやめなさい」と断った。
「そういうと思ったよ」
晴は妙に落ち着いた声で言うとベッドの端に置いていたスマホを取りに行った。
すると目の前で写真を見せられる。
蓮は大きく目を見開き、そのスマホを奪おうとした。けれど、その手は虚しくも自分自身を握りしめていた。
「脅すつもりなんてなかったんだけどさ、これバレたらまた兄さん大変だよね」
ひどく、冷たい声だった。
晴は座ったままの俺を見下ろすように立ち上がった。突き刺すような目つきに、俺はなにを勘違いをしていたんだと目の前から色が失われた。
ベッドの上で足を組みながら座った晴は色んな写真を俺に見せてきた。
自分からキスしている写真。ベッドの上で上半身裸になって抱き合ってる姿。それが見事に自分の顔だけが写っているものばかりだった。ただ、だれがどう見ても相手は男だというのがわかる。写真もそうだが、なにより急変した晴に愕然 とした。あのかわいくて優しい晴はもう、どこにもいなかった。
「別に俺のこと好きじゃないんならいいじゃん」
それがとてつもなく寂しく聞こえて耳を塞ぎたかった。自分で否定したくせに、といちいち傷心する己をいつも殺したいと思っていた。けれど結局それに頼らないと生きていけない。自分は自分でしか慰められないと知っている弱い人間だから。
蓮は人を蔑むような弟の豹変 ぶりに恐怖を感じた。それと同時にそんな晴を邪 な気持ちで見ている自分がいた。けれど次の瞬間、それすらも崩れていった。
期待も、希望すらないんだと蓮の世界が崩壊する。
「少しくらい面倒見てくれてもいいんじゃない? 兄さんが出て行ってから父さんも母さんも大変だったんだから」
まるで罪状を言い放たれた罪人のようだと思った。そこには一切のぬくもりはなく、ただただ疲労感が漂 っていた。
ぽっくりと首が折れかける。
愛されるどころか、憎まれている。嫌われるよりまだ良い方だと問われればそうなんだろう。けれどマイナスもいいところだ。それ以上プラスになることはないと線を引かれているようなものだ。
復讐が、愛に変わるわけない。愛していた過去があるから、復讐するんだ。
蓮は色の映らない目で、晴を見上げた。晴はにっこりと笑うが、その貼りつけられたような笑いの仮面に確信を持つ。蓮はもうなんの会話をしているのか、わからなくなった。
「それにここ大学から近いからさ、ね、お願い」
もう影で俺を薄笑うような声にしか聞こえなかった。
蓮の頭に嫌な記憶が流れる。散々批判する声。誰と寝たとか。気持ち悪いとか。それって病気なんじゃないかとか。笑う、笑う、声。
おまえみたいなやつ、愛されるわけがない。
なら、もう、誰も構わないでくれ。ほっといてほしかった。なのに、よりによっておまえが土足に上り込むなんて。
「わかった」
自分でもやけにすっきりとした声が出た。もうどうでもいいと虚無感に陥 る。どうせここで断ったらその写真が出回りまた笑い者にされる。そしたらまた両親にも今度はバーにまで迷惑かけるかもしれない。
「ありがとう。助かった」
笑顔で答える晴の顔は真っ黒な霧がかかっていた。なにもかもそういう風に見えてきて、蓮は涙をこらえているうちに目頭が熱くなり、視界が淀む。
なにを期待していたんだろうか。最初からわかっていたことだというのに、受け入れられない自分がいた。晴が笑って許してくれる希望を持っていたからだ。ありもしない希望を。それで一体どうなった。余計に自分を傷つけただけだ。
期待したからいけないんだ。そうするとちゃんと自分が思ってたとおりに返ってくると思い込むから。だから、そんなものを持つべきじゃなかった。
最初から…最初から、こんな感情持つべきじゃなかったのに——。
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