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第七話 戸惑い 上

 あの日。一度家に帰って荷物をまとめてくると言いながら着替えた晴を見送ることもできず、蓮は座り込んだままでいた。 「昼はさっきも言ったけど大学だから、夜にはここに来るね」 「……あぁ」  気力のない返事を返す。それを聞いてから晴はなにごともなかったように淡々と出て行った。玄関の音を聞いたとたん、蓮は声も出せずただ涙を流していた。  昼になっても寝ることができず、蓮はベッドにもたれかかったまま呆然(ぼうぜん)とする。泣き疲れて寝るものだと思い込んでいた。どうやら眠ることさえも今の身体では怯えてしまっているようだ。また悪夢を見るんじゃないか。さっきの晴が夢に出てきて、俺を嘲笑(あざわら)うんじゃないか。  人の目という残酷さをこの身をもって体験してきた。それでも愛する人からの目はあたたかいものであってほしいと願うものだ。けれどその願いも好きだからという淡い情によって簡単に捨ててしまえる。  蓮は晴から向けられている憎しみを受け入れることした。間違っていない人生だとしても誰も傷つかないわけがない。自分の場合は家族を苦しめた。晴を傷つけた。だから罰を受け入れないといけない。晴があんな風になってしまったのは自分のせいだと責める。だから、自分のしてきたことで晴に恨まれても仕方がない。 (自分の気持ちを殺して、犠牲(ぎせい)になれば晴は少しでも気が楽になるだろうか。もしそうならそれでいい)  自分を痛めつけることで元に戻れるのだとすればそれで構わない。そんなことで晴を嫌いになるわけがない。なれるはずもない。けれどいっそ嫌いになれたらどんなに楽なことだろうか。  蓮は責任を感じ、晴がなにをしてきても抵抗せず応えようと決心した。すると、いつのまにか飼猫(かいねこ)がそばにいた。そんなことさえ気づかず、蓮は声に出して泣いていた。    しばらくしたら涙も枯れ、蓮は愛猫(あいびょう)に餌を与えてからシャワーを浴びに浴室へ向かった。  降り注ぐ冷たい水で頭と心に残っている甘い情を水と一緒に排水溝へ流す。なにもかも洗い流されればいいと蓮は、手元のボタンを押してシャワーの水圧を上げた。夏とはいえ、冷水に当たりすぎると風邪をひいてしまう。そんなこと考えていたら、蓮はくしゃみが止まらなくなった。それで自分がどれほど長い時間身体を冷やしていたのかを知った。  着替えてから晴に過ごしてもらう部屋をどうするか悩んでいた。  蓮の住んでいる場所は十四階建てのマンションの最上階にある。一フロア一住戸で築十年の綺麗なところだ。ベランダで夜景を見ながら酒を飲める。人気の少ないところなので、夜は気にせず外へ出られる。最上階のいいところは静かなところだ。自分の部屋には防音壁があるため、作曲もできる。こうしてプライバシーが守られている。  一応寝泊まり用に布団はあるものの、場所がない。二LDKだが、部屋は余すことなく使っている。自分の部屋でもいいが、それは晴が嫌がるだろう。それに自制がきかなくなって、自分がなにするかわかったもんじゃない。かといってリビングで寝てもらうわけにはいかない。まだ大学生であり子どもだ。設備には全く問題ないとしても、プライベート空間が必要だ。  蓮は悩みに悩んだ末、愛猫に与えた部屋を晴の部屋にすることに決めた。元々客間としてお泊り用の空き部屋を猫専用の部屋に変えたところだ。だからベッドもそのまま置いてあるのでちょうどいいだろう。猫用に置いてあるものもそんなに多くはない。数分で終わるだろうと蓮は肩を回した。  キャットタワーと爪とぎはリビングに置き、トイレやゲージは自分の部屋に移動させた。急に居場所を変えさせられて、怒っているかとついてくる猫を見た。けれど尻尾を擦りつけて、みゃあみゃあ鳴いている。 「おまえもしかして一緒の部屋になって嬉しいのか?」  猫は返事をしたかのように鳴いた。  部屋を好き勝手に移動できる愛猫はたまにベッドにいるときがあった。しかも大抵自分が落ち込んでいるとき、きまって起こしにきてくれる。それに猫も音楽が好きらしく、ハルちゃんもギターの上に乗って寝ているときがある。なんだかんだ嬉しいこともあるな、と蓮は晴の部屋になった場所を掃除した。    夜になると蓮はリビングでそわそわしながら待っていた。玄関のチャイムが鳴るとその音だけで心臓が駆け足になる。二、三度深呼吸してから玄関へと向かった。 「今日からよろしく、兄さん」 「荷物それだけでいいのか?」  リュックだけを背負ってきた弟の身軽さに嫌な予感がする。 「服とかは貸してもらうか買ってもらおうかと思って。あと他にも必要なものもね」 「…はあ…好きにしろ」 「でも兄さんとは背も体格も違うからサイズ合わないかもね」  皮肉(ひにく)のつもりだろが、ちっとも苛立つことはなく冷静に成長したんだなと考え深くなった。 「いくら渡せば足りる」 「え?」 「五万ぐらいか? もっとほしいならカードごと渡すが」 「いや…まぁおいおいでいいよ。それよりこれ」  晴から差し出された白い箱。にこにこと笑顔で渡され、なにかここに弱味でも入っていて脅すつもりなのかと変な妄想が始まる。蓮は恐る恐る受け取ると、どこか見覚えのあるデザインの箱で、ふわりと甘い香りがした。 「一応世話になるから買ってきた。それと今朝はちょっと言い過ぎたからお詫びも兼ねてね」 「もしかして隣に新しくできた有名のケーキ屋のやつか?」  蓮は答えを待ちきれず聞きながら勝手に開けてしまう。 「そうだけど、知ってたんだ」 「これ数量限定のじゃん! 食べたかったんだよな」 「…兄さん甘いものに相変わらず目がないんだね」 「ありがとう、晴」  蓮は嬉しそうに微笑んだ。  今朝のことを申し訳なく思って、お詫びに買ってきてくれた優しさに喜びが込み上げる。けれどなによりも甘いものが好きだという子どもみたいなところを覚えていてくれたことに、さっきまでの憂鬱(ゆううつ)さが吹き飛ぶほどはしゃいでしまった。 「まぁそれだけ兄さんの弱点は把握(はあく)済みってことだから」  だるま落としだった。スコーンと打たれ、落とされた積み木のように一気に気分が冷める。現実に引き戻され、蓮はぐっと唇を噛んだ。 「…ここの鍵、なくさないでくれよ」  蓮は玄関の靴箱の上にあるアンティークの鍵置きにあらかじめ乗せて置いたもう一つ予備を渡した。 「わかってるよ」  二人で廊下を歩きながら、蓮はリビングにケーキを置いた。 「それとおまえの部屋はそこ使え」  自分と反対側にある部屋に蓮は指を向けた。 「一応布団は出しておいた。気に入らないなら買ってくる」 「一緒には寝ないんだ?」  当然のように聞いてきたその問いに、意地の悪さを感じた。だからそのまま意地悪く返す。 「寝れないのはおまえの方だったりしてな。あいにく俺には先約がいるから」 「は?」 「ほら」  リビングに移動したキャットタワーの上で背伸びをしている愛猫を指す。ハルちゃんはじろりと晴を見るとそっぽを向いた。 「猫飼ってたんだ」 「あまり人に慣れてないから不用意に近づくと怪我するぞ」 「兄さんに懐いているならそのうち俺にも懐くでしょ」  どこから出てくるのかわからない自信に可笑しくなって笑った。 「あぁ期待しておくよ。俺ともう一人以外は全滅してるからな」 「誰、もう一人って」 「友達だよ」 「恋人じゃないの? けど残念だね、俺がいるから気軽に呼べなくなっちゃった」  恋人、という言葉に悲しくなる。好きな人とは添い遂げれなくて、目の前の愛する人からは貶されている。そんな気持ちになる自分に呆れて反論するのも面倒になった。 「はぁ…勝手に言ってろ」 「ふぅん。あ、そういえば連絡先教えてよ。なにかあったときに呼び出せるでしょ」 「基本それで会話できるしな」  遠回しに喋るつもりはないと言われているのだろうか。どうせ俺とは会話すらしたくないだろうしな。  蓮はスマホをポケットから取り出し、画面を開くと晴に奪われてしまう。 「本当に今のところ恋人らしき人はいないみたいだね」 「勝手に見るな」  とっさの反応で奪い返そうとするも簡単に避けられてしまい、倒れ込むように晴の胸元に吸い込まれた。身体が密着してしまった蓮はハッと過剰(かじょう)に避けて諦める。なにも見られても問題ないよなと自分に言い聞かせた。 「…兄さん友達少ないね」 「うるさい。できたならさっさと返せ」 「はいはい」  蓮は返されたスマホを隈なくチェックした。変なアプリや危ないものを入れられていないか見渡す。連絡先を入れた以外はなにもされていないようで、和やかな安心が顔の笑みとなってゆっくり浮かんだ。 「気になってたんだけど、ご飯とかどうしてるの? 兄さんちゃんと自炊してる?」  それは兄に聞くことではない気がするんだが、と蓮は開いた口が塞がらないでいた。 「兄さん?」 「してないわけないだろ。いい年した大人だぞ。けどまぁ、基本的朝は食べない。簡単なものしか作れないからおまえも好きにしたらいいよ」 「特に決まりごとなしってことね。俺の自由にしていいってことだ」 「あぁ」  蓮は晴にトイレと浴室の場所を教えながらそんな会話をしていた。  リビングに戻り夕食の準備をする。 「まだ食べてないんだろ」 「うん、兄さんは?」 「俺はそいつを食う」  蓮はケーキの箱を指して、晴が座っているテーブルの上に温めておいた料理を並べる。あらかじめ(はし)やコップなど食器を置いて正解だったと淡々とご飯をよそった。  蓮はケーキの箱を開けて皿に乗せた。季節限定の桃のロールケーキ。上には桃と生クリームと桃のクリームをミックスさせたホイップが波のように描かれている。さらにその上に一口サイズにカットされたみずみずしい桃が乗せられており、蓮の目を輝かせた。  このロールケーキが有名なのは、見た目と完熟桃を丸ごと使った直径十五センチもある贅沢(ぜいたく)なところだ。値段もそれなりに高い。けれどきっとこれ一回限り。住まわせてもらうぐらい安いものかもしれないな。 「ちゃんとご飯食べないと身体に悪いよ」 「もう食べたんだよ」 「ひどいな~嘘つくなんて。一緒に食べたくなくて先に食べたんでしょ」  晴の鋭い指摘でコップに注いでいたアイスコーヒーをこぼしそうになった。動揺さを隠すように一口飲んだあとに返事をする。 「今一緒に食べてるだろ」 「これからもだよ。一人で食事するのは美味しくないから」 「……わかった」  さっきまでと同じように話していたけれど、なんとなくその言葉だけは本音のように聞こえた。  晴は豚の生姜焼きを大きな口で頬張(ほおば)っている。炊きたてで艶のあるふっくらとしたお米を箸で口の中へ運んでいく。適当にレタスを千切って、切ったトマトときゅうりを混ぜたサラダ。小さいボウルにドレッシングをかけたが、口に合ったようですぐになくなっていく。豆腐とワカメが入った味噌汁にも手をつけてくれていた。もくもくと大きな口に箸を進めていく。その姿は昔と変わっておらず、作法が丁寧のわりにたくさんの量を食べる。 (よかった。やっぱり食べなくて正解だったな)  蓮はそんな晴を見てからケーキを口の中へ運んだ。濃い印象があるわりには口の中で柔らかく溶けて爽やかな甘さが広がる。美味しさのあまり、頬がとろけそうになる。ホークが進み、ぱくぱくと口の中に入れていく。 「やっぱり兄さんそういうの好きだと思ったんだよね」  いつのまにか食べ終わった晴が笑ってこっちを見ていた。緩む顔を見られていたことが恥ずかしくなり、むくれた顔をする。 「いいだろ別に」 「わかるよ。糖分は脳にいいからね」 「かわいいものとか甘いものが好きで悪かったな」 「そこまで言ってないけど」 「そういう風に聞こえるんだよ、かわいくねーな」 「かわいくない弟は好きじゃないって?」  ガタッと椅子が動く音がした。その刹那、ケーキをすくった腕を取られる。顔がだんだん近づいてくる。ケーキを無駄にしたくなく、振りほどくことができない。思わず、ぎゅっと目を瞑る。 「兄さんの好きそうな味だね」  と、上唇を舌で舐めとりながら腕を離した。ホークに乗っていた一口がなくなっている。  晴の仕草(しぐさ)に喉が鳴る。濡れた唇が艶を増して、勝手に脳内が煩悩(ぼんのう)だらけになる。 「あ、あげるなんていってない。勝手に食べるな」 「買ってきたの俺なのに」  顔が赤く染まってないか心配だったが、なんとか照れたのを隠そうとどんどん口にケーキを運んだ。蓮は別の意味で胃もたれしそうになった。  

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