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第九話 同居生活 下

 週末ライブを終えた蓮は久しぶりにバーへと寄った。今日は晴もどこかへ飲みに行ってくるらしく、家にいない。晴が家で待っていると早く帰ってこいという連絡がくる。それが嬉しいのか、蓮は素直にどこにも寄らず帰ってきていた。  我ながらそんな言葉ひとつで踊らされているのもどうかと思う。けれど主人に従う奴隷のように背くことなく、言うことを聞いてしまっている。だから今日は話せる相手がいて気が晴れそうだ。相談して気持ちの整理ができればいいけれど、そんなことができたら今頃こんなには悩んでいないだろう。  蓮は重苦しい空気を(かも)し出しながら注文する。 「最近新曲ないのね」  注文したお酒を持ってきたイクミに心配される。一口、二口それをゆっくり飲むと蓮は、常連の客に聞いたのかと周りを一暼(いちべつ)してから答えた。 「今ちょっと訳あって」  (にご)すように口を尖らした。 「あら、やだ。もしかして、彼氏でもできたの?」  明るい声でおめでとうと言われるが、げんなりした顔で答える。 「それよりも緊急事態だ」 「え、なにそれ、気になるんだけど」 「……前に話しただろ、年の離れた弟がいるって」 「えぇ、ってまさか今あんたの家にいるの?」 「そういうこと」 「それじゃ、新曲どころの話じゃないわね」  哀れみの目で見られて、さらに現実感が増す。  イクミには弟がいることを話していた。ただ実の弟を性的な目で見ているとはとても言えなかった。だから晴に対する恋愛感情は伏せて、拒絶されて疎遠になっていることを伝えた。まだ幼かった弟に酷なことをしたと重い影を落としながら。長男として家のことや家族のこともよくを考えるべきだった。けれど結局なにもかも弟に押しつけてきてしまったと懺悔(ざんげ)のように話した。  イクミは逆に出てきて良かったじゃないと励ましてくれた。そばにいて守れず、悪影響を与えられる方が大変だと慰められる。それに自分を偽ったままそこで一生過ごしていたら後悔していたと語られた。  だから晴が自分のところにきたことにイクミにもわからないといった様子だ。  なんだって俺のところに住むんだ。ちゃんとした理由が知りたい。はっきりしたい、と愚痴をこぼす。 「なにもできねぇ」 「でしょうね。なんであんたのところへ来たの?」  俺が一番聞きたい言葉を口に出すイクミに大きなため息を出す。 「大学が近いからって言われた。確かにそれは本当だったけど…」  聞いてすぐそのあとに調べた。家から三十分程度の所で近いといえば近いなと嘘はついていないことに納得した。しかしそれだけじゃないはずだ。今までの行動からして確信的なことだった。 「けど?」 「大方、俺を脅して揶揄って楽しむつもりなんだ」  どことなく自由に過ごせない鬱憤(うっぷん)がここで出てしまう。苦労して勉強している隣で俺は自由に好きなことをしている。それがいいたたまれなさを生み、俺を泥まみれの醜いアヒルのままにいさせる。そのことを責めることも嘆くこともできす、ただ罰を受けている。  ただ晴に少しでも俺から解放されて楽になってほしいという一心のために。 「あんたそれ大丈夫なの? なんかされたりしてないでしょうね? 例えば暴力とか」 「そういう物騒なことは大丈夫なんだけど、強制的に住んでる感じなんだよ。まぁ、料理上手いし、洗濯物も干してくれるし、ハルちゃんに嫌われてるくせに世話をちゃんとやってくれてるしそういう面では文句ないけど」 「…ん? それのどこが揶揄われてんの? あんたが世話されてるようにしか聞こえないんだけど」  イクミは本当にわからないといった顔をしており、今のが伝わらず困った。 「はぁ~? いかにも俺はあんたよりできますよってみせつけてんだろ。それに好きでもないのにやたら身体に触ってくるし、近いし、なに考えてるかわかんねぇ」 「そうかしら? 私には会えなかった分(じゃ)れてきているできた弟くんって感じにしか聞こえないんだけど」 「それはまじでありえねぇ。戯れてるんじゃなくて揶揄われてんだよ。俺が男を好きだから試して遊んでんの!」 「実の弟がそこまでする? 普通にあんたのこと好きだからでしょ」 「…するさ。弟は頭がいいからその方が屈辱的だってわかってんのさ。そうやってあいつ、俺に復讐しにきたんだ。…そうじゃなきゃ俺になんか会いにくるはずねぇんだから」  そう、会いにくるはずがないんだ。俺とあいつはあそこで決別している。理解、されなかった。その苦しみをいつまでも俺だけが引きずっていることはわかってる。間違っても、晴が俺を好きだということは態度からしてない。兄弟としての慈しみも皆無(かいむ)だろう。  自分で言って辛くて悲しくなり、目尻に涙がにじむ。 「う~ん…結論を出すのは早いんじゃない? そういうのは本人に直接聞いてみなきゃわからないじゃない。蓮ちゃんの悪い癖よ。そうやって自分でなにもかも考え込んじゃって本人に言わないところ」  私にこうして話せるようになったのも一年前ぐらいからじゃないのよ、と優しく怒ってくれた。  蓮は悲しそうに微笑すると冗談をイクミに飛ばした。 「俺よりあいつの見方なのか?」  涙声で弱音を吐き続ける。  冗談のつもりにしたかった。こんなさらけ出すつもりはなかった。  ついに涙が頬を伝い、一筋がこぼれるのを感じて蓮はテーブルに伏せてしまう。 「ばかね。あんたの見方よ。けど、確かめるなら本人を叩くのが一番よ。どんな答えが返ってきてもね」 「…それがやだ」  もう傷つくのは嫌だ。ずっとそう心が叫んでいる。もうそっとしておいてほしい。これ以上血を流したくはない。それと同時に晴とまだいたいと思っているどうしようもない恋情(れんじょう)に涙が止まらない。 「決めるのはあんたよ。ひどいこと言われたらここで私が慰めてあげる」 「それはもっとやだ」 「んだとこらぁ」   笑わそうとしたイクミの冗談にも乗らずもっと泣く演技をする。すると「イクミさん、フラれてやんの~」や「泣かせてる~」と穏やかな声が響き、蓮は少しづつ気持ちを安らげていった。    少しまだ帰るには早い気がしたが、目を冷やした方がいいと言われて大人しく家へと歩いていた。  見上げると満点の星空で、チカチカと一つの星が個性よく光る。輝かしい夜の光に少しでも晴の気持ちがわかるようになりますようにと願った。 「ただいま、ってもう帰ってきて寝てるよな」  玄関を開けながら、小さな声で呟く。眼だけ先に冷やそうと思ったが、汗もかいて気持ち悪い。シャワーを浴びて、嫌なこと全部洗い流そうと浴室へ向かった。  鏡を見れば目は少しぷくっと腫れていた。さっさと身体を洗い、汚れを落とす。  仰ぐように冷水を浴びる。今日は特に昼から今にかけて暑く、冷たい水が心地いい。  目の熱が少しでも引いた頃合いを見て、浴室を出てタオルとパンツ一枚で廊下を出た。 「ただいま」 「うわっ、びっくりした」  後ろから声を急にかけられ、タオルを落としそうになった。  てっきり寝ているかと思ったが、トイレだろうか。蓮は薄暗い中、晴を直視する。家にいたわりには寝間着って格好ではなかった。そういえば玄関に靴がなかった。 「おまえ今帰ってきたところなのか。ずいぶん遅いな」 「うん、まぁ…ちょっとね」  歯切れの悪い回答をしてきた晴。蓮はそれが飲み会ではなく女の気配だと感じ、得体の知れない悲しみが胸を痛めつけた。 「ふ、彼女か? おまえ頭いいし、大学でもさぞやモテるんだろうな」 「…もしそうだとして、兄さんに関係ないよね」  張り詰めた笑顔が怖く感じた。事実を突き付けられ、現実が首を絞めていく。蓮は息ができず、苦しむ。 「関係ないね、おまえがどこでなにをしようと」  言葉が刺さる。自分を傷つける言葉を自分で言って、自分で血を流させた。  心が破けて、雫が落ちていく。じわりと視界が歪み、蓮は顔を伏せる。また目が腫れてしまう。わかっていても止めることはできなかった。 「兄さんこそ、彼氏と喧嘩でもしたの? 目が腫れてるよ。もしかして別れ話?」 「それこそおまえには関係ないだろ!」   笑ったような声に耳を塞ぎたくて、大声を出しながら睨んだ。すると薄暗い廊下で、晴の顔がせつなく歪ませているようにみえた。  「関係ないか…俺はずっと……」  聞き取れないほどか細い声でなにかを呟いている。晴はため息をつきながら一度顔を下げたあと、怖いくらいの笑顔でこっちを見た。 「ところで兄さんさ、一人でするとき足りてるの?」 「なんの話だ。もうおまえとは今、話したくない」  話をするのをきっぱりと断る蓮。そのまま背を向けてと寝室へ歩こうとした。けれど止まってしまう。  晴に手を思いっきり握られたことによって阻止された。 「オナニー、満足にできてる?」 「は…?」 「できてないでしょ? 俺がここに来たから」 「なに言って」 「だって、リビングでしてたでしょ?」 「…いや、してねぇって」 「そうだったかな。俺の名前呼んでた気がしたけど」 「き、気のせいだ!」  蓮は高騰(こうとう)した声をあげて、ハッとする。 「まぁ、動画撮ってあるから後で確認すればいいか」 「どう、が?」 「確か、その日の昼飯はトマトとバジルの…」  一歩一歩近づいてくる。逃げるはずの足が動かず、影が大きくなってきた闇に呑まれる。 「ッ──」 「嘘つくと兄さんにはなんのメリットもないよ」  また一歩近づいてくる。  蓮は後退りすらできなくなり、固まる。バクバクと心臓が嫌な音を響かせる。 「……」 「俺も結構溜まってるんだよね。兄さん相手してよ」 「な、んで」 「いいでしょ? 男に慣れてるだろうし……それに、俺に触れられるの好きなんだから」  手が伸びてきた。そして呆気なく晴の腕の中に捕まってしまった。  頬に手をすり寄せながら流れるように鎖骨へと指先を当てる。脈を聞いて、確かめるような動きに本能が叫ぶ。  逃げろ、と。 「そ、れは」 「まぁ、抵抗してもするけどさ」 「や、やめて、くれ」 「(よろこ)んでるくせに。お兄ちゃん」 「ひっ」  耳元でそう囁かれて、腰に力が入らなくなった。その場に座り込んでしまうけれど、腕だけはしっかりと掴まれており、逃げられない。 「兄さんは昔の俺のこと好きみたいだけど、今の俺の方が絶対好きになるよ」  だって今の俺の方が満足させられるから──。  そう聞こえた声が遠のいていく。俺はずっとこれを待っていたんじゃないのか。  繋がれた手から、吸い取られていくかのように力が抜けていった。蕩けるほどの熱さに手も足もでない。同じ以上の鼓動を感じて夢見心地になる。  けれど心はずっと泣きっぱなしだった。  

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