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第十二話 迫る魔の手 上

   どっ、と背中にだけ、雨が降ったかのように大量の汗をかく。夏の暑さのせいで蒸れて、肌に(まと)わりつく。身体も心もベタベタと黒い泥を塗られたようで気持ちが悪い。  紙谷。週刊雑誌の記者で年は確か三十五歳。若い頃からスクープ記事を書いていて、そこそこ悪名高い。嘘と本当のようなデタラメを書くのを得意とする。また写真は独自のルートで入手していることから手がついたことはないらしい。このことからや背丈と格好からして死神とも呼ばれ、抜かりがなく手強い。撮られることを恐れている人が芸能界にいたくらいこいつは有名で、最悪な相手だ。  あいつらにとって俺たちの自由な時間というのは餌でしかなく、いつだって神経を擦り減らされる。中には言われようもない批判や罵倒(ばとう)を受け、自殺した人や海外へ逃げた人もいる。守ってきた安寧(あんねい)の居場所を掘り起こされ、奪われ、失う。これほど恐ろしいものはない。  人の弱みを嘘と過去で記事にする。民衆を手のひらで踊らせ、それにより優越な気分に浸る汚い仕事。でもそれを一番欲しがっているのは人だということだ。綺麗事ばかり言ってられない世界。頭の隅に置いてある事実を忘れそうになる。結局は他人の不幸を喜び、自分は不幸ではないのだと勘違いさせることで心を保っている。  そういう人の弱みにつけ込んで、満たして、攻撃させ、優位な立場にいるんだと思わせる。(きら)びやかな世界にいる人だって同じ人だというのに、それを忘れて傷つける。嫉妬心とは特にこうした取り返しのつかないことをしてしまう。心に余裕がなく、対抗心では収まりきれないときに感情が爆発する。  そうやって汚い手を使い、過去に俺を芸能界から去らせたきっかけを作った張本人。吐き気がしそうなほどこいつは嫌いだ。しかし、嫌う理由はそれだけじゃない。 「いつもライブ終わりはこの時間だったので、待ち伏せしてて良かったです」 「はっ、流石ストーカーしていただけのことはあるな。どうせ今日が初めてじゃねぇだろ」 「RENさんこそ、私のことよくご存知で」 「気色わりぃ。さっさと失せろ」 「いいんですか? 私録音とかしてるんですよ。相変わらず悪いお口ですね。まぁ、そういうところも素敵ですが」 「……」  抜かりのない行動に内心舌打ちをする。胃が重くなり、口の中で唾液が過剰に出る。だんだん苦しくなり、蓮は口元を手で覆った。 「あぁ、今日来たのはあなたを救おうと思って」 「なに?」 「インタビューですよ。知ってますか? 最近同性同士の結婚についての話題が増えたこと」 「…それがなんだ」 「いやね、同性愛に一番詳しくて知ってそうじゃないですか。あなたはそれをきっかけに辞めざるを得なかったわけですし」 「どの口が…っ」 「おっと今度は暴力ですか。怖いですね~中学の頃ちょっとヤンチャしてたっていう噂は本当のようですね」  少し動いた素振りをしただけだというのに、この男は決まり文句のように嗤って弱い人の皮を被る。正気を失いそうなほど目の前の男に嫌悪した。  どこまで調べてやがる。あのときはそんな過去のことまで言われていない。  蓮は喉になにか詰まっているかのように唾を飲み込めないでいた。ヒリヒリする喉をなんとか抑えるも、逃げたい気持ちでいっぱいいっぱいだった。  噂通り、中学の頃は荒れていた。自分の性について自覚を持ちはじめたからだ。夜に出歩いて、喧嘩をふっかけては言い争ったり、他校とも()め事をした。でもほんの一、二ヶ月間でヤンキーのような日常をやめた。  もともと歌うことが好きだった俺がそれに没頭するようになったのはその頃だった。無意味な粗暴(そぼう)さを繰り返すより、嫌なことを忘れられる趣味の方がよっぽど救われる気がしたからだ。  そうして高みまで上り詰めた。けれど、結局は足枷(あしかせ)となった。裏表のない心のままに動くという生き方を捨てられなかった。どうしても偽るのは嫌だった。好きなものは好きだと堂々と言える自分で在りたいと思うほどに。  ここまで狂わされるとは思ってもいなかったが。 「……」  目の前が暗くなっていく。今は夜だが、新宿の闇はいつだって光に満ちている。互いを主張し合うかのように、煌びやかで鮮明に人が生きている存在をアピールし続けている。  自分の立っているところがまるで裏側の世界のようで、影に呑み込まれそうになる。  立っているだけでも気分がだんだん悪くなった蓮をずっと見続けていた紙谷。瞬きすらしないで、うっすらと微笑んでいた。 「まぁ、今日は挨拶に来ただけなので。また来週も来ますね」  べったりとまるで血をつけられたような目線を浴びる。紙谷は見えなくなるまで目線を外さず去っていった。  蓮はしばらく放心状態になった。数分後、壁にもたれかかり、ずるずるとその場に座る。  立ち上がれそうにもなかった。腹の中に直接手を入れられたような感覚が抜けないでいる。吐きそうにも吐けなくて、項垂(うなだ)れる。 「……晴に、会いたい」  なぜだか、無性に抱きしめられたかった。お日様のようなあたたかさ。それでいて強いエネルギーを晴からは感じる。  例えるなら、そう、優しい夜明けの光だと思った。そばにいてほしい存在。  蓮は真上を向くと、曇りかかった空が目に映る。明日は天気が悪いと言っていたからだろうか。だんだん黒く闇が濃くなっていく。まるで今の心模様のようだった。 「今日はひどく抱いてほしい…」  そう思ったらいつのまにか足が動いて、いつもと違う道で家へと走っていた。    玄関を開ける前に乱れた呼吸を整える。二回ほど深く深呼吸をし、平常心を保つ。すぅ、はぁ…、繰り返す小さな喉の震えを無視して胸に手を当てる。大丈夫。大丈夫。なんてことはない。いつだって乗り越えてきた。初めてではないのだから、今度は上手く立ち回れるはずだ。  蓮はもう一度深く息を吸い込むとドアを開けた。けれど、発したはずの声は頭の中だけに響いていた。 「……」  はくはくと口を動かすも声が出なかった。 「…おかえり」 「……」 「兄さん?」  晴の顔をじっと見つめて、なにも言えなくなった蓮。それを晴が不思議そうに近づいて、顔を覗き込む。 「兄さん顔が真っ青だよ。体調悪いんじゃないの?」  今度は心配そうに焦っていた。そんなにひどい顔をしているだろうか。自分では見えない。それに今は体調なんてどうでも良かった。  はやく、ふれたい。ふれてほしい。 「今日は、抱かないのか」 「え?」 「あ…っ」  しまった。  蓮は慌てて口元に手を置いて、顔を隠した。まさか帰ってきた第一声がそれはないだろう。穴があったら入りたい。子供のようにおねだりするなんて。しかも、絶対変態だと思われた。いや、もう思われてるかもしれないけれど、まるで俺ばっかりがしたいだけの発情した猿じゃないか。 「ごめん…」  下手な言い訳をするより、謝った方が早いと考えた蓮はすぐに言葉にした。すると晴から意外な返事が返ってきた。 「抱いてやりたいけど、途中で吐かれても困るし。それに早くお風呂入って温かくした方がいい。兄さんが軽く思ってるほど顔色相当酷いんだよ?」  そっと頬に手が触れる。するりと大きくて熱い手が血の気のなくなった蓮の顔に灯火をつけた。じわじわと触れたところから肌が熱く感じる。ドクドクと脈を打つスピードが速くなったのを感じた。  晴の手は耳朶をふに、と指で柔らげると首筋へとぬくもりが広がっていく。  その手管だけで溶けちゃいそうだった。 「きもちいい…」  晴の手が心地よくて、ずっと触れていてほしいと思った。けれど、その手は離れてしまう。 「……早く休んで」  下に降りていった手が俺の腕を引っ張って風呂場へと連れていかれた。そして「おやすみ」と晴は一言そう言い残して自分の部屋へと戻っていった。  蓮はその後ろ姿に縋りたかったのに、身体が動いてはくれなかった。  翌日になって顔色は良くなったものの気分は変わらず沈んだままだった。  昼まで爆睡していた蓮は、パンを少し齧り、リビングで飼猫を愛でていた。気を紛らわせようとしたが、やはり昨日のことでモヤモヤしていた。 (あいつ、ライブ終わりの日にしか抱かないよな。なんでだ…?)  それでも週一にしているわけだが、最初ほど嫌ではない。晴に抱かれることを受け入れたのだと思う。心がなくとも、繋がっていられる喜びに浸っている自分がいた。なにより最近の晴は優しい。会話も一切しないわけじゃない。最初こそ互いに怒っていたが、謝りもせず業務的な挨拶から帰りの時間の共有。まるで社長秘書になったような感じで情報交換していた。  それに昨日の晴は俺を心配してくれていた。普段ならそんなことお構い無しに抱くのに、どういう心境だろうか。  蓮はソファーで横たわり、晴の変化に心を乱されていた。疑懼(ぎく)する資格はないとしても相手が好きな人でいる以上悩ましいことだった。 「ハルちゃん、今日あいつ抱くと思うか?」  横で寝ている飼猫に話しかけながら頭を撫でる。白い天使は鳴き声も上げず、ごろごろと喉を鳴らしていた。毎日ケアしているおかげで艶もあり、さらさらな毛並み。触るだけでぎゅうっと抱きつきたくなる。 「はぁ~~……ないよな」  晴は週末以外抱いてくることはなかった。毎日抱かれるものだと思っていた自意識過剰さに身の置きどころがない。  あれだけ嫌だと泣いていた自分が、いざ抱かれてあまりの気持ちよさにすんなり受け入れてしまっている。 (あいつ…男とやったことあるんだろうな)  晴はそれほど上手いと思う。だから、きっと初めてじゃないんだろうなと勝手に落胆する。自分もそこまで経験してきたわけではないが、キスで最初から蕩けるものだろうか。攻め方も弱いところとイイ場所をピンポイントで狙ってくる。 「たとえば、こんなふう、に……。ッ⁉︎」  かばりと起き上がった蓮に驚いた猫が飛び跳ねた。 「なにしてんだ。馬鹿か俺は……」  蓮は今、無意識ともいえる自身の行動に驚愕(きょうがく)した。昨日しなかったとはいえ、想像するなんて欲求不満なのか。それとも──。  そういう身体にされてしまったのか。  ぞくぞく、と身体に甘い電流が巡る。思わず落ち着かせるよう自分自身を抱きしめた。そして、頭を横に振る。 (俺としているのは単なる遊びだ。俺から誘うようになって晴に縋るようになれば多分、もう抱いてもらえない)  きっと、それが晴の復讐のやり口なのかもしれない。忘れられないようにしてやると言われたことを蓮は思い出す。 「ははっ…。すでに手遅れだな」  晴は俺じゃなくてもいい。でも、俺は晴じゃないと…。  蓮は隣で尻尾を大きくバタバタしている愛猫を宥めながらこれ以上深く考えるのをやめた。心の問題はまだそれだけではなかったからだ。        

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