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第十二話 迫る魔の手 下

 晴とはあれ以来顔を合わせるも会話があまりなく、気まずい雰囲気になっている。連絡は取り合っているものの、元に戻ったかのように気を遣われることはなくなった。あの一度きりの夢のようなものは、あれが本来の晴だと知らせてくれた。そのことを嬉しく思い、淡々と日々が進んでいった。  その週末。いつも通りライブを終えて裏口から出る。いつもならの話だけれど、今回は表から出ることにした。時間をずらし、お客さんが帰った頃に自分も出るように変えた。鞄の中身をもう一度チェックし、ポケットに手を入れながら外へ出る。  ただ呆気(あっけ)なくその計画は崩れる。相手は想定済みだったようだ。 「私からは逃げられませんよ」 「どうやらそのようだな」  蓮は唾を吐きかけるように言葉を放つ。皮肉のつもりで言ってみたけれど、効果は全くなし。むしろ喜ばせたようで紙谷の頬が緩みを増した。予想していたが、案の定紙谷は待ち構えていた。 「考えていただけだでしょうか」 「しつこい」 「それが私の取り柄でもあるんです」 「さすが。ストーカーしているやつの言葉は重みが違うな。説得力がある」  こんな奴に弱みを見せるわけにはいかない。そうでなくとも俺は弱いわけではなかった。ただ今は間が悪い。家には今、晴がいるからだ。  蓮は汗すら見せず、冬のように凍りつく目で紙谷を睨む。 「どうしても、駄目ですか」 「逆になぜすると思ってるんだ。おまえが書いた記事で俺がどうなったのを知らないわけじゃないだろ」 「まさか、私のせいにされるとは…確かに記事を書いたのは私です。ですが、それだけで辞めるなんてあなたも大したことなかったと言ってるようなものですよ」  にたにたと口角を上げる紙谷。笑顔を絶やさず、よく口が回る。言葉巧みにいいように言いくるめ、操る。それはまるで詐欺師のようなものだ。だからこれまで怪我もなく生きていけたのだろう。大したものだ。  だが、それは前と同じと言っているようなもの。変わっていないということだと蓮は逆手(さかて)に取る。 「あぁ、そうだ。俺は元から大した奴じゃないからな。弱さにつけ込んで人を痛めつけるおまえの気持ちなんてわからないさ」 「なに言ってるんですか。それにあなたが弱いわけがない。辞めてもまだこんな小さな鳥籠で歌っているじゃないですか。怖くないんですか? また誰かが傷つくのは」 「また脅しか。おまえがそれしかないようで安心したよ」 「安心ですか…。それは良かった」  蓮は歯切れの悪い言い方に嫌な感じがしたものの、無視してその場から立ち去ろうとする。なにが安堵(あんど)したのかよくわからない。けれど、どうせまた俺の暴言の録音や今の家族の写真で脅してくるんだろう。二度も同じ手に引っ掛かるとでも思っているのだろうか。呆れたやつだ。  しかし、なぜそんなにも俺に固執する理由がわからない。得体の知れないむず(がゆ)さに吐き気が増す。  元々喋る方じゃないのに、腹が立つせいで口が渇いた。一生口を開かないと思っていたのに、どうしてまた俺の前に現れる。それに晴が家にいる今、タイミングがどうも良すぎる。なにか裏があるはずだと紙谷の不気味さに足が速まる。 「では、今度楽しみにしててください」  蓮はその呼びかけにピタリと歩みを止めて、一秒も経たずまた歩き始めた。  なにか遠くの方で叫んでいる声が聞こえた。聞き取れなかったのに、まるで耳元で言われたかのようにこべりついているようで、耳を引きちぎりたかった。    家に帰ると玄関に晴がいなかった。リビングに行くとソファーにもおらず、部屋かと蓮は落胆(らくたん)した。ドアノブまで手をかけたけれど、流石に気が引けてしまって開けるのをやめた。洗面所に行き、とりあえず手と顔を洗う。それから冷蔵庫を開けに行った。渇いた喉を潤すため、すぐにペッドボトルのミネラル水が半分までに減る。  浴室へ行く前にダイニングテーブルに紙が置いてあることに気づいた。蓮は近づいてそれを手に取り、見ることにした。 【サークルの飲み会があるから明日まで帰ってこない。 晴】  取った紙がひらっと手から抜け落ちた。蓮はその紙すら取ることもできず、テーブルの椅子に座った。  帰ってきて晴がいなくて逆に良かったかもしれない、と慰める自分がいた。スマホの方にも連絡していただろうに、律儀に置き手紙を残しておく親切さ。今の自分にそれ以上優しくされたら、この口がなにもかも喋ってしまう。それでは意味がない。晴はまだ大学生。  あの時だって、まだ子供だったのに。 「今日は触れることすらしてもらえないのか」  ぽつり、と息を吐くように自然と出た言葉に一層淋しさが込み上げてきて、唇をぐっと噛んだ。  やはり自分は欲求不満なんだ。前のように酷くされて、忘れさせてほしい。先週のように優しくしてほしい。触れてほしい。矛盾する想いに胸が締めつけられる。何度も味わってきたことがあるのに、特別痛いように感じた。   晴の笑った顔を思い出すように目を瞑る。けれど出てきたのは赤黒い炎を宿す瞳。  どうして、そんなに熱く燃えているんだろうか。そこには単なる復讐の怨念を燃やしているだけのようには見えなかった。ふと、晴がいない今、あいつがここにい座り続ける本当の理由が知りたくなった。  蓮はガタッと椅子を()ってまで、晴の部屋の前に来ていた。ドアノブに手が届く。申し訳ないと思いつつも、知りたいことはここにあるような気がしてならなかった。今までどうして気づかなかった。いや、そうではない。ただ単に(のぞ)く必要がないと判断したからだ。  蓮は意を決してドアを開けた。鍵は内側から掛けられるようになっている。今は誰も中にいない。  覗く必要がなかったのは、俺に復讐するつもりでここに来たのなら、その証拠となるものを見たくなかったからだ。けれど、単なる復讐には思えなくなってきた。もしそうなら、俺を心配する必要も気を遣うこともしなくていい。ただ乱暴に、黙って貶せばいいだけなのだから。  本来復讐とはそういうものだ。  なら、あの瞳はなんだ。なぜあんな纏わりつくような目で見てくる。そこに悍ましいものは一切なく、ただ見つめられている。  それがわからない。だから、知りたい。  蓮は部屋の電気をつけ、あたりを見渡す。机とベッド、クローゼット。晴が持ってきた荷物。服と日用品。ただそれだけだった。 「いや、変わってないにもほどがある」  変わったとすれば多少本があるくらいだ。机の上にも床にも散らばっている参考書や法律に関する難しい本ばかりが置いてある。  蓮は一通り机の上を確認すると、中を探ってみる。どこにも俺に対する恨むものが見つからず、余計に訳がわからなくなった。 「ただのガリ勉くんじゃねぇか」  使い切ったノートとスレ切れるまでに読んだであろう本。日記すら見つからなくて、今時紙に書くほうが珍しいかと探るのをやめた。  蓮は最後に一番下の引き出しを開けた。そこには見覚えのある写真があった。 「…懐かしいな」  写っているのは小学六年生の俺と年長になった晴だった。卒業した時の写真で、晴が「兄さんのいない学校になんて行きたくない」っと言って卒業しないと泣きじゃくった。中学校と小学校はそう遠く離れた所にある訳じゃなかった。だから、「これから一緒に登下校できるね」と言って慰めた。 「…あれ、そんだけだっけ。なにか、他にもあった気がする」  手にとって写真と睨めっこしていると、その下になにかが落ちた。 「…なん、で」  震える声と手。  下に落ちたものは名刺だった。  古谷喜章(ふるたによしあき)。名刺にはそう名前が書かれてあった。週刊誌の記者とも。  この名刺の衝撃に狼狽(うろた)えていると玄関から音がした。蓮は急いで写真と名刺を元に戻し、玄関へと駆け寄った。  けれど玄関に着くも、開いた形跡がない。晴の靴も見当たらない。帰ってきたわけではないのか、とバクバク弾けている心臓を落ち着かせた。しかし、なぜか人の気配がして心臓は再び焦り出した。  蓮はごくり、と唾を飲み込む。 (まさか)  リビングに戻り、息を(ひそ)めながらインターホンで外の様子を見るためボタンを押した。誰かが佇んでいるような黒い影が見える。そしてその体型、格好からして蓮はその場で崩れた。  真冬の中、全裸で外へ放り出されたような全身への恐怖。凍るよりも早く、冷たさより早く、身体の感覚がなくなっていく。警告音が鳴り響いた。息をしてはいけないと必死になって手で口を押さえるも、かちかちと歯が当たる音が響く。こちら側からの声は聞こえないとわかっているのに、物音すら出してはいけないと身体が強張(こわば)る。  なにかを玄関の前に置いている。うろうろと少しの距離を往復していた。玄関を叩こうとして迷っているのか、紙谷がインターホンに気づいた。にたぁっ、と粘りついた笑みで手を振っている。まるで見ているのを知っているかのような素振りだった。 『おやすみなさい。忘れ物を届けにきたのでこれでゆっくり眠れますよ』  それだけ言うと手を振りながら帰っていった。  蓮はそれを見届けると床に倒れる。身体に力が入らなくなり、息もままならない。はっはっはっ、と過呼吸寸前まで追い詰められる。緊張の緩みか、それとも恐怖からの解放か、涙が止まることはなかった。なんとか落ち着かせようと身体をさするが、結果は変わらない。 (はる、はる……っ)  自然と助けを求めてしまう弟の名に、蓮の涙腺がさらに崩壊した。瞼から溢れ出した雫が漏れるように床を汚していく。  自業自得だ、と自分を(ののし)った。夢のような日々を過ごしていて、忘れていたんだ。  これがもし晴だったら。いや、すでに体験していたのかもしれない。記者が実家に行かないわけがない。こんな風に恐怖の夜を何度か過ごしたに違いない。  未だ恐怖で動かない足をわざと壁に打つけ、痛みで覚醒させる。自身への怒りで麻痺させた身体を動かした。玄関を開け、置いていった物を取り上げ、すぐに鍵を閉めた。  紙袋の中には新聞紙がぐるぐると巻かれたものが入っていた。四角い箱でも包んだような形に不気味悪さを覚える。ビリビリと新聞紙を破るとそこには何枚もの写真があった。  幾枚にも積まれて、分厚くなった写真たち。そこに写っているのは俺と晴だった。どこからかはわからないけれど、部屋を撮られたような写真から晴が大学に行っている外の様子まで違う写真が数えきれないほどある。  そこで蓮を決定的に痛めつけたのは、晴と女性が笑っている写真があったことだ。  恐怖よりも自分だけが昔から変わっていないという現実に淋しさが襲ってくる。怒りも通り越して、自分がどれだけ想っていても変わることない現状を見せつけられる。  あの記者は俺の弱点をよくわかっている。まるで熱烈なファン以上に理解している。それが憎悪のように膨れ上がり、蓮は床に写真を叩きつけ、バラバラに散りばめた。  気持ちが悪くて、蓮は手で両耳を塞いだ。頭が痛くて、床に額を叩きつけた。  まるで鎖にでも繋がれているようだ。後ろから引っ張られるような感覚に全身が諦めたかのように言いなりになる。 (いつまで続く)  いつになれば終わる。いつになったら晴のこと忘れられるだろうか。  蓮は幾度も考えて、何度も答えを出そうとする難題にずっと涙を流すしかなかった。    それからどうしたか記憶がはっきりしているのに、(もや)がかかったように思い出せない。あの写真は、また集めて紙袋ごとゴミに捨てに行った気がする。  結局一睡もできず、朝には早すぎる時間に身体を動かした。憔悴していることは自分でもわかっていた。顔を洗いに行き、鏡を見れば自分が真っ青な顔をしている。 (あのときはなんとか我慢できたのに)  紙谷が以前引っ越す前にも家に来たことがあった。だからあいつからのストーカーには慣れたとばかり思い込んでいた。どう考えても犯罪行為。昔から変わらない戦法だ。最初はギリギリで攻めてるが、こちらからはなにも言えない状況を作りだすと、それをいいことに境界線を超えてくる。  以前に学んだと思っていた。けれど、変わらない悪どいやり方にだんだん腹が立ってきた。防げれば防げたかもしれない自分の危機感のなさを叱責(しっせき)する。  蓮はシャワーを浴びると頭が冷えたようで冷静になった。この際、晴に言ってしまった方がいいだろうか、と相談することも頭によぎった。けれどまだ大学生。こんなことで勉強の妨げにはしたくない。それなりに助言はもらえるだろうけれど、晴の身にもし危険が迫ったら、俺はもう立ち直れないだろう。  それに晴は紙谷を知っているはずだ。顔も覚えられている以上危険なはずだ。なにかする前にどうするべきか対策しないといけない。  しばらくホテルにでも泊まって一人で考えよう。この家も危なくなる。けれど狙いは最初から自分にあるなら出ていった方が晴を守れる。監視カメラもあるこの家で犯罪はできないだろう。晴を使って脅しにかかってきたとしても危害を加えることはきっとない。あいつはそこまで馬鹿ではない。それに傷めつけたい相手は俺だけだろう。  蓮は急いでカバンに着替えを詰め込む。愛猫が心配そうにくっついてくるが、優しく触れる余裕すらなかった。今の状態で晴と顔を合わせれば、助けを求めてしまうどころか縋りついてしまう。晴にとってはいい気味だと思われるだろう。でもそれよりもこれ以上迷惑だけはかけたくない。  新しい曲のことで煮詰めたいからとしばらくホテルに籠ることと、猫の世話をお願いする置き手紙とスマホに連絡を残す。それから猫が鳴いているにもかかわらず、一度も振り向くことなく蓮は家を出た。

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