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第十四話 罪悪感

「晴」  ほろり、とこぼれた言葉は晴にだけ届いた気がした。無意識に声が出たといえ結局助けを求めてしまうなんて、と蓮はなんともいえない顔でいた。 「なにしてるんですか」  地面が一瞬にして割れていくのような低い声だった。晴の口から出たとは思えないほど、怒りで満ちていた。冷静そうな顔を装っているが、人を殺しそうな眼をして近づいてくる。 「部外者は関係ありませんので、大丈夫ですよ」  紙谷はいつもの営業スマイルに戻り、蓮の手首を握ったまま晴の方へ身体を向けた。  先ほどまで見られていたことを慌てふためいていたのに、その豹変ぶりに今すぐ手を振り払って殴りたい。 「部外者じゃないと言ったらどうしますか」 「おや、どういった関係で」 「それはあなたがよくご存知では? 紙谷喜章さん」 「弟さんでしたか。失礼しました」 「白々しいですね。…それよりいい加減兄さんの手を離してください」  晴が鋭い目つきで紙谷の腕を取り、肉が食い込むほど握り込んでいた。紙谷も流石に痛いのか「っ…」と息を呑み、ようやく蓮から手を離して晴を睨み返す。それでも晴は手を離さず、紙谷を痛めつけている。  蓮はとっさに未だ震えている自分の手を晴の手にそっと添えて、やめさせるように顔を横に振った。そして事態がこれ以上悪化しないようにさりげなく謝罪する。 「弟が、すいません」 「暴力ですよ。どういう教育をしているんですか」 「けど、そういうあなたもさっき俺の手を(ひね)り潰すかのように握ってきた。そのままあんたにお返しするよ」  言われっ放しでこのまま引き下がれない。晴がこの場にいる以上、好き勝手されてしまったらまた傷つけてしまう。 「愛情表現ですよ。私とあなたの仲ではありませんか」  うっとりしながら俺を見つめる目は薬物でイカれてしまった廃人のようだった。  ただただ唖然とする。なにを言ったところで通用しないかもしれない、と蓮はどう対応したらいいか困ってしまった。 「刑法第二百二十二条、脅迫罪」 「え…?」  晴があまりにも斬り捨てるような声で言ってくるので驚いてしまった。 「刑法第二百二十三条、強要罪。刑法第百七十六条、強制わいせつ罪。どれも立派な犯罪ですよ」  晴は流麗(りゅうれい)に罪名を紙谷に叩きつける。 「証拠はもちろん必要ですが、兄さんはそのへん抜かりないと思いますし、なにより今、第三者の私が目撃してます。まぁ、家族では証人になりにくいので、スマホを通じて俺の、大学の友達が証人になってくれています」  そう言ってポケットから通話中となっているスマホを紙谷に見せながら話を続けた。 「被害者である兄さんが警察や弁護士に相談すれば、あなたなんて一瞬で牢屋行きです」 「でもそうしてこなかったのは、私を愛してくださっている証拠ですよ。なにを言ってるんだが」 「あんたがなに言ってやがんだ。はぁ…、兄さんのことだから家族に手を出されるのを恐れてなにもしなかっただけに決まってるだろ。また迷惑かけるのが嫌だから」  兄はそういうお人好しなんですよ、と笑って身体を寄せつけてきた。ただ晴のその笑いにはなんのぬくもりも感じなかった。 「迷惑だなんて、私はなにもしてませんよ?」 「弱みにつけ込んで、甘い汁を(すす)って生きている汚い人間がなにを言ったところで…兄さんにはなんにも届きませんよ」 「…どういう意味だ。おまえ、なんの権利があって邪魔するんだ」  和やかそうにしていた仮面が()がれ、本性が暴れ出す。従順なふりして背後から刺し殺すようなタイプだ。ただ、こうも目にすると全身に緊張が走る。なぜ今まで襲ってこなかったのかと、そのことが逆に蓮を(おのの)かせた。  怯えている蓮を見た紙谷は、鞄から一枚の写真を取り出した。 「お人好しね…。そのわりには歌のために汚いことまでする人なんですよ」  晴は俺を庇うように前にいるため、真っ先にその写真を見てしまう。蓮がかろうじて見えたそれは、以前週刊誌にまで載ったものだった。男二人が笑いながらホテル前にいる写真。それを何枚も見せつけている。蓮はその写真の日に戻ったかのように記憶が頭の中で再生される。  その日、あるプロデューサーに誘われて意見交流会というていで何人かと食事をした。そこのホテルで誘ってくれたプロデューサーと俺がちょうど出て行くところを撮られた。  実際本当に今後についての話だった。ドームでライブができるよう支援したいという人たちがいるから今度紹介したいと言われた。また新しいことにも挑戦してみるべきだと背中を押されて、音楽番組だけじゃなくCMにも出てみないかと誘われた。  それがたった一枚の写真によって、白紙どころか真っ黒になってしまった。俺は巻き込む渦の中心となり、その人たちに被害を及ぼした。プラスになる話が一気に底辺だ。  どう本人たちが否定しても、出たものがある以上なにを叫んだところで白い目で見られるだけだった。さらに悪化させたのは記者会見で自暴自棄になったことをいいように動かされ、同性愛者であることを否定しなかったことだ。  ただ後悔はしなかった。以前自分の口から伝えてはいた。だから否定する必要がなかった。けれど、それとこれとは別です、という発言はテレビに流れていたかは今となってはもうどうでもよかった。  その後は背中を押してくださった人たちへの贖罪として、消えるように去るしかなかった。 「元から同性愛者であると噂されていて、この写真ですから。誰もが疑うどころか信じた。世間では裏切られただの、最低だの言われてたんですよ。知ってますよね?」 「やめろ」  蓮の心臓がまるで氷柱にでも突き刺されたように冷たくて、痛い。どく、どく、と嫌な音を立てて、血が流れていく。  晴にだけはこんな話をこの男から直接聞かせたくなかった。今からでも耳を塞げばいいと晴の頭に手を近づける。けれど、無表情な晴を見て、動けなくなってしまった。蓮は晴の冷めていく気配に、ひゅっ、と息を切る。 「歌が上手いのも、男に()びを売るのが上手だからですよね」 「は……?」  とんでもない出まかせに蓮はいよいよ黙っていられなくなり、前に出ようとした。けれど、前からの強い力で押し戻されてしまう。 「毎晩違う男に腰を振れば、艶のような声にも納得です。誰に身体を売っていたんですか? もしかしてずっと誰かに身体を」 「それ以上口を開くな」  晴から出た声は、恐ろしくも綺麗で透き通っていた。その声とともに驚愕する紙谷だったが、すぐに卑しい嗤いで喉を震わせた。 「立派な弟さんだ。こんなことを知ってもなお庇うだなんて…素敵な兄弟愛ですね。しかし、お可哀想です…」 「なにが言いたい」  晴に押さえられていても前のめりになって蓮は怒りを飛ばす。 「だってあなたみたいなのがお兄さんなんですから、不憫(ふびん)でなりませんよ。昔から大変だったんじゃないですか? 両親もさぞやお辛かったでしょうに」 「おまえ…っ!」 「だって同性が好きだなんて気持ちが悪いでしょう? もしかしたらあなたも対象に入っていたかもしれませんよ」  紙谷は自分のことを棚に置いて、晴の方を蔑みながらけらけらと嗤った。  その瞬間、蓮の腕は晴の手を振り切って、紙谷を殴っていた。清々しいほど頭の中が冴えている。まるでたった今雨が止んだように晴れやかな気分だ。  いつまでこんな小物に怯えていたのだろうか。絶対に暴力はいけないと、身体を触られても我慢して耐えていた。それだというのに、身体が勝手に動いしまった。  晴のことを指摘されたからじゃない。人を、好きになるという想いを踏みにじられたからだ。つまり俺にとっての歌を、歌うことを侮辱(ぶじょく)したことになる。誰もが平等にして、抱く感情をたった一言の言葉で傷つけていいはずがない。  ましてやなにも知らない他人に否定されていいはずがない。この恋だけは、好きだという気持ちは、誰にも穢されてなるものか。 「な、なにするんだ! 無抵抗な相手に暴力だなんて」 「言葉も立派な武器だ。身体の傷は治るが、心の傷は治せない。どっちが先に暴力を振るったと思ってやがる…!」  蓮は汚物でも見下ろすように紙谷を蔑む。 「今更なんだ。まさか復讐のつもりか? ははっ今頃なにになる。ただの食事会だったのに、タイミングよく二人が出てきてあのときは本当にラッキーだった。噂のおかげであそこまで効果を発揮するなんてな!」 「やっぱり知っていたんだな」 「前から色んなやつに狙われていたよ。あんたは男でも欲情させられる魅力の持ち主だ。地に落として、泣くのを見たかったのさ」 「クソ野郎…!」  蓮は怒りを(しず)められず、もう一度殴りかかろうとする。しかし、その腕を晴に止められてしまった。 「は、る」 「こんなやつに手を汚す必要なんてないよ、兄さん」  落ち着いたゆったりとした表情で背中をさすってくれた。じんわりと晴の手からあたたかさが染み込んできて、揺らいでいた心を止めてくれた。 「俺が来る前からの会話、行動の全てをこれに録画させてもらいました」  晴は胸ポケットからボールペンのような黒くて長細い録画機を見せながら紙谷をただ見下ろしていた。 「追加で刑法第二百三十条、名誉毀損罪。それと記者としても終わりですね。全部嘘をでっち上げるなんて一番してはいけないことです。誤報だったと会社にリークできますよ。なにより本人から出た言葉ですしね」  スピーチのようにすらすらと優雅に語る晴。けれどそこには悪意しか込められていない。そう感じるのは、人を人だとも思っていないような殺意ある眼と石のように硬くしたまま変わらない表情だった。  晴は倒れ込んでいる紙谷と目を合わせるため、わざと音を立てながらゆっくりと紙谷に近づく。座り込むと瞳孔が開いた瞳でじっと見つめた。微動だせず、ただなんの表情も乗せないまま黙って黒い目を浴びさせていた。  その眼力で動けなくなってしまった紙谷。瞬きすらできず、息をしていいかもわからない恐怖の中にいるような表情だった。数秒間ずっとそのままで、夜の森のような不気味な静寂さだった。晴は目線を逸らさないまま立ち上がると自ら沈黙を破った。 「紙谷さん、あんた兄さんのことなにもわかっちゃいないな」  薄笑いながら晴は蓮のポケットに手を突っ込む。そこから用意して今も録音しているボイスレコーダーを奪った。 「あんたも奪われた感触をじっくり味わうといいよ」  紙谷は目の前にいる男が凶悪犯にでも見えたかのようにぶるぶる子犬みたく、怯えて去っていった。  蓮はその様子をただ動揺しながら見ていた。真冬にずっと外でいるような身震いを起こしたままでいる。脅威が目の前から去ったというのに、未だ震えが止まらない。次のことを心配しているのだと思いたかった。  けれど自分自身でその理由をよくわかっていた。目の前の一ノ宮晴という弟の変わりようを、身体が受け入れられなかった。  晴が「奪われた感触」と言った言葉が頭をよぎる。やけに生々しい口調だった。それはまるで体験してきたかのようでひどく胸が苦しい。  蓮は未だその場に立ち尽くしたままだった。自分の知らない晴の姿に、心へのショックが大きすぎる。もしかしたら自分のせいで変わらざるを得なかったのではないかとどうしても考えていた。常に、最初から。子どものように知らないままでいられなくなってしまった現実。  法律の勉強をしていると晴は昔と変わらない眼差しで勉学に励んでいた。一つのことに没頭し、強固な意志と集中力で吸収していく大きな瞳。その瞳は相も変わらず輝いていた。しかし、今の晴にその輝きはまるでなく、星すら見えなくなってしまった夜空のようだった。  実際日々の努力によって立派に論破していた。ただそれが、その姿が、身を守るために今まで学んできたのだと見せつけられたようで仕方がなかった。どこか認めたくなくて、ずっと否定し続けてきた。もしかして、ではなく、そうだったんだと受け入れるのが怖かった。  けれどあの記事のせいで家族を被害にあわせたのだという事実を目の当たりにした。  自分で決めた道だった。家を出てから独りで生きてきたと思い違いをしていた。どうしようとも人は独りでは生きていけない。どう立ち振る舞いをしていようとも、それを躾けた両親に世間は目がいく。兄弟にどうだったか訊かれる。  自分は責任を持って生きていくつもりでいただけだった。結果はこの有様だ。けれど、最初から孤独になりたかったわけじゃない。もう戻れないと、逃げて、逃げて。そうして誰も、自分すら愛せずになってしまった。子どものように悪いことじゃないと一点張り。ひたすら前だけを走った。後ろにいたはずの晴を見向きもせずに、向き合うことを恐れた。  叶わないから、駄目だから、認めてくれないから、と全部自分の気持ちを否定し続けてきたからだ。でも好きになることに理由も根拠も必要ない。ただ認めて、見つめて、大切にする。  だからこうなった。勝手に自分を諦めさせ、はっきり伝えなかったから。晴と目を合わせるのが怖くて逃げていた。そうして自分を守って生きてきた。そのために、晴を傷つけていたことも知らずに。身勝手な生き方で、なによりも大切な晴を自分自身が手放していた。愛しているがゆえに蔑ろにしていた。  蓮は自分の心の在りように呆然としていた。急に握られた手のぬくもりすら感じず、ただ人形のように晴に引っ張られていた。  夜に溶けた藍色の空の下で、ビルの光が色彩を放っている。まるでダンスホールのようで煌びやかな街。すれ違う人たちが舞い遊ぶ中、二人は狭い隙間からワルツを踊るように抜け出していく。息苦しい場所から救い出されるように。  けれど蓮は自分のことが許せなくて、どう晴と顔を合わせたらいいかわからなくなる。ただ黙って下を向きながら(もつ)れる足でなんとかついていく。  今更罪の重さに耐えられなくなるなんて。 「ぜんぶ、おれのせいで…」  風で掻き消されてしまうくらいの独り言を呟く。そのとき、晴の手がぎゅっ、と強まった気がした。  好きになることが悪いことではない。けれど、それすら悪だと思ってしまうほど蓮は疲労していた。自分の心が思ったりも(もろ)く、情けなくなる。歩くスピードさえ遅くなった。手を繋いで歩くのはそれなりに目立ってしまう。晴は自分がRENだと気づかれないように帽子を被らせてくれた。おかげでなにごともなく、家に帰れた。  蓮は自分の家に帰ってきたとたん、入ってはいけない気がして後ずさってしまう。 「そういう自己犠牲なところが嫌いなんだよ」  溜息と一緒に出た言葉にビクリと身体が飛び跳ねた。その些細な動きを見逃さず、蓮は晴に両腕を引っ張られて玄関に足を踏み入れてしまった。

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