23 / 34

第十五話 二度の拒絶

 玄関に入ってから一歩も動けない。足がすくんでしまって、指先すら動こうとしない。引っ張られた反動で落ちた帽子でさえ拾えないでいた。蓮はぶるぶると震える拳を手で押さえながら、床を見つめて背中を丸めた。  晴は振り向くと、蓮と向き合った。そのまま抱きしめるかのように玄関の鍵を閉める。急な近距離に条件反射で逃げてしまう蓮の手を握り、抵抗を止める。  「過去のことなんてどうでもいい」  耳元で安心させるような優しい声が聞こえて、背中をゆっくりと撫でられる。小さい子どもを慰めているかのように、力を込めすぎない程度に触られている。手のひらから伝わるぬくもりが凍ってしまった身体を溶かしていく。 「…どうでもよくないだろ」  ようやく出た声はそれでも震えていた。  こんなところで泣くわけにはいかない。泣いていいはずもない。晴はずっと苦しみに耐えてきたのに、兄である俺がしっかりしなければいけない。 「どうでもいい。だって今もそれに(むしば)まれている兄さんを見たくない」 「…過去に囚われてる兄の姿がいたたまれないって? それとも滑稽(こっけい)だと心の中で笑ってんのか」  はっきりと過去を切り捨てたような言い方に蓮は感情的になり、嫌なことばかり口走ってしまう。すると晴は本当に呆れた顔をしていた。 「してもいないことに責任を感じるなんて、兄さんは本当にバカだね。だからこうなってんだよ」 「責任もなにも俺のせいに変わりはないだろ!」 「なんでそうなるかな。それともなに? 本当にあの写真の男と寝たわけ」  晴の方から、ぎり、と歯が軋む音がして、蓮は頭を素早く左右に振った。それから蓮は逸らすことなく真摯(しんし)に向き合った。 「枕なんてするわけがない! あの日は本当に食事だけで、ライブができるように支援してくれるって言われて舞い上がっていたんだ」 「…前から週刊誌には気をつけてたの?」 「同性愛者だって言ってから目をつけられていたんだ。当時のマネージャーに念を押されてたんだけどな…」 「なんで言う必要があったの、それ」  晴は目を細めながら同性愛者のことを指摘した。言わなければ誰も傷つかなかった。晴の顔色がまさにそれだった。兄が普通だったらここまで苦労しなかったと訴えているように見えた。  そんな顔を今もさせてはいけないと、蓮は冷静になり、自分の考えを伝えた。 「…ごめん。でも嘘をついて生きていきたくはない。それに隠し通せるものでもないし、どうせいつかはバレてしまう。それなら最初から堂々としていればいいと思ったんだ」  晴の手を、指先を掴みながら目を見つめる。伝わればいい。ただそう思った。わかってもらえるとは最初から思ってない。ただ、知ってもらいたい。  それだけだった。  「…強がってるだけで本当は弱いくせに」 「それでも、これが俺の在り方なんだ。心は縛られず自由に…歌も一緒だ。それで多少は誰かの救いになれたらって…そう思ってる」 「……そう」  晴は眉間に(しわ)を寄せながら小さく呟いた。疲れたような眼差しで、俺の手を掴んでいた力がだらりと抜けていった。  晴は心配してくれていた。ここまでしてくれているのに俺はまた自分のことばかり、と焦る。  蓮は離れていきそうな晴を両手で身体にしがみついた。 「兄として、手本になれなくて本当に悪いとて思ってる。おまえのことずっと傷つけて…」 「そんなの兄さんが気にする必要ないでしょ。今までみたいに気にも留めないでいればいいじゃん」  晴に両手で引き剥がされ、晴との間に線が引かれる。その境界線からはみ出ないでと言われたような避け方だった。  拒絶だった。  二度の、拒絶。  蓮は頬に流れる涙を拭こうともせず、ただ晴を立ち尽くすように見つめていた。  明らかに向こうから拒まれた。晴は今更なんのつもりなんだと言わんばかりの表情をしている。それがどれだけ深い傷を負わせてきたのかが明るみに出た瞬間だった。とっさに否定しても言い訳にしか聞こえないかもしれない。けれど言わなければ誤解されたままだ。  蓮は頭では冷静さを保っていても拒絶された動揺で声が泣いていた。 「違う、違う…。そんなわけない、あるわけない! あるわけないだろ…俺はずっとおまえのこと」 「無理しなくていいよ。俺のことずっと避けてたしね」  どうして急に優しい言葉をかけてくる。なぜ今になって遠ざけようとする。今まで散々怒りでもなんでもぶつけてきたのに、どうしてここで突き放す。 (それがおまえの復讐なのか?)  縋るように泣いて、弁明して、(ゆる)しを()う姿を見たかったのだろう。それなら受け入れなければいけないのか、と蓮の瞼に雫が溜まっていく。 「無理じゃなくて…っ、晴、ちゃんと話を聞いて」 「どうして今なの? 話をする機会はいくらでもあったでしょ。…昔だって、どうして会いにこなかったのか俺がわからないとでも?」 「そ、それは…」  また拒絶されるのが怖かった。おまえに嫌われるのだけは本当に胸が張り裂けそうで嫌だった。そう言えばいいのに、俺はここにきてまた怖くなり、言い出せないでいた。 「…ほら、嫌いならはっきり言えよ。そういう中途半端な優しさが一番イラつくんだよ。会ったときから俺にずっと同情してるだろ。俺が知らないとでも思ってんの…? そんなに可哀想な弟か、あんたからすれば」  蓮はそんな投げやりな晴の態度に嗟嘆(さたん)する。そんなことをずっと抱えていたなんて知らなかった。俺はずっと晴のことを勘違いしていた。   晴は昔から変わってなどいない。一つ一つのことに慈しみを注ぐ子だ。それを忘れたかのように俺は余所余所しい態度でずっと避けていた。晴はとっくに過去を乗り越えて、ここに来たというのに。  蓮は今までずっと、晴に対して自分の心を偽っていた。  なにが、嘘をつかない人生だ。ずっと嘘をついてきていたくせに。 「同情なんかじゃない。晴を、嫌いになったことなんて一度もない」  どうなってもいい。これ以上嘘を積み重ねられない。もう、たくさんだ。  叶わないからってずっと兄弟の糸を綱渡りしていた。ずっとぐらぐら揺れながら渡っては止まって、戻ったりを繰り返していた。進んだところで、渡りきることはできない。先がないからだ。かといって戻ることもできない。兄弟の感情を忘れてしまったから。だからもう飛び降りなきゃいけない。 (ごめん、晴。兄弟ですらいてあげられなくて) 「晴…俺は」 「やめろ。もうどうでもいいって言った。そんなに必死になって、嘘ついて…俺をどうしたいんだよ。なんなの、俺は。もしかして都合のいい性欲処理にでもなった?」 「は、る」 「あぁ……ほんとに、そっちなの? 馬鹿みたいじゃん、俺。弟すらないわけだ」  赤黒の炎が揺れ動き、青黒に色あせ消えていく。虚ろになってしまった瞳から雫が、つぅ、と落ちる。  それはまるで瞳の色を落としたかのようだった。  太陽のように明るい弟が、泣いた。たった一筋の涙がこぼれ、晴の顔から笑みが消えた。  蓮は身体の一部を失くしたような気持ちになる。ズキズキと切り刻まれるような痛みが全身に走った。  子どもの頃は泣いたのを見ても、可愛らしいとしか思っていなかった。けれど、今は胸に穴が空いてしまったようだ。いたくて、いたくて、たまらない。その涙を拭っていい資格すら持ってはいけない気がして、さらに穴から血が流れるような激痛に襲われる。  蓮は呼吸が浅く、速くなる。自分がぼろぼろと泣いていることに気づけないままその場に崩れた。譫言(うわごと)のように「ごめん、ちがうんだ」と繰り返し言い続ける。  自分の方が被害者であると、思い込んでいた。性欲処理のように扱われて、言葉を失った。まるで世界から色が消えたように心が死んだ。けれど、それは俺だけじゃなくて晴もそうだったということに絶句する。きっと最初のあのときに拒んでいたらこんなことにはならなかった。想いを伝えていれば関係がこんなにも(ねじ)れることはなかった。  蓮は両手を顔に覆いながら涕泣(ていきゅう)する。泣いて謝ればいいなんて思ってはいない。けれど、泣かずにはいられなかった。晴の気持ちが痛いほどわかるからだ。同じ、気持ちだった。晴が、あんな哀しそうな顔をするから、俺も悲しい。きっと自分もあんな顔をしていたんだろう。  好きな人が泣いていたら、一緒に泣いてあげて、優しく抱き締めたい。そして泣くことより、笑えるようにしてあげたい。笑った方がただで幸せになれる。それに、晴には笑ってる方が似合う。誰よりも幸せにしてあげたい。  蓮の中で好きと幸せを思う気持ちが反発し合って、感情が絵の具が混ざったようにぐちゃぐちゃになる。はっ、はっ、と息が荒くなっていくのを、止めなかった。  どうすれば好きになってくれるの。どうすれば晴は俺に微笑んでくれるの。  蓮が今にも気を失いそうになる。それを晴が黙って見下ろしていた。 (このまま過呼吸で死んでしまえば晴は喜ぶのかな)  そうなったら俺から解放されるし、もう傷つかなくて済む。  (ずっと笑って生きていけるんだろうな。あの写真のように)  蓮は顔を覆っていた手を胸へと下ろし、呼吸の苦しさで皺くちゃになるまでシャツを握る。泣き腫れた空虚な目で晴を見つめた。 「いま、まで、ごめん、な」  晴のために命を消すことは怖くない。晴に殺されるならもっと嬉しい。それぐらい愛してる。  笑ったらいけないのに、自然と顔の筋肉が緩み、微笑んでしまう。嬉しい。嬉しい。どこまでも自分勝手で愚か者だった。こんな状況ですら晴のためになることを、見下されていることを、なんでも悦んでしまっている。これが純粋な愛だなんて笑える。  どこまでも醜く、執着した愛だ。 「今更、ふざけんな」  腹の奥から出る晴の低い声に身体が、びくり、と跳ね、蓮はついに床に倒れ込んだ。しかし打つかった痛みはなかった。なぜなら倒れる直前、晴に抱き締められたからだ。 「は、っ、る、っ」 「うるさい」  乱暴に言われると何度もキスをされた。喋ることができないほど角度を変えて、口を(ふさ)がれる。背中をさすりながら唇が何度も何度も重なった。一度たりとも口が離れることはなかった。蓮はそのおかげで呼吸がゆっくりになり、整っていく。 「は、ぁ、は…っ、は…あ」 「はじめてキスで過呼吸止めてみたけど、実際やればできるもんだね」 「な、に、いって…」 「もう好きにさせてもらうから」  素っ気ない態度でいきなり服を脱がされる。 「なに…考えて、こんなときにやめ、て、くれ」  晴の考えていることがわからなくなり、ますます表情が歪む。 「あいつに触られたところ、綺麗にしないといけないから」  そう言って風呂場へと連れて行こうとする。動かない身体をいいことに抱きかかえられ、廊下を歩いていく。 「っ——」  予想もできなかった行動に声が出ない。蓮は必死に金魚のように口をぱくぱくと動かす。もうそんなことしなくていい、と手と足を暴れさせて、抵抗する。それでもビクともしない晴の体幹に強い意思を感じた。無理してまだする必要がないというのに、どうしてそこまでする。  声を出したい。名前を呼んで、撫でるように伝えたい。言いたいことがたくさんある。  蓮は唾を飲み込み、その度に喉を動かす。そんなことをしているうちに浴室に着いてしまった。  服を着たままシャワーを浴びさせられる。蓮は運ばれる道中で上だけ脱がされてしまっていた。急に熱い湯を身体にかけられ、「あっ」と声が漏れる。  身体が驚いたからとはいえ幸運にも声が出た。蓮は晴に止めるよう腕を掴む。 「もういい、晴。しなくていい。こんなことやめよう」  ゆっくりと目を合わせて説得する。小さい背中に腕を回してぽんぽん、と軽く叩く。 「もう、大丈夫だから」  まずは落ち着くこと。自分も晴も冷静じゃないことは確かだ。深呼吸を繰り返し、興奮状態を冷ます。こんなことせず、ここから出て話し合わないといけない。 「なに? はっ、もしかしてストーカーするぐらいのイカれたやつの方が好きなの?」  とんでもない言葉に刺し殺される。  晴はなんの感情も示さない表情のままズボンに手をかけた。そして勢いよくずらし、抵抗する余地も与えずひん()いた。蓮は裸にされ、じろりと見られる。そんなことをされてもさっきの突き刺さったままの言葉に、ぐらり、と音もなく砕けそうになった。  そんな放心状態にもかかわらず、無理やり抱こうと晴の手が腰に回る。  久し振りに身体に触れられているというのに、湯よりも冷たい手が身体を貫く。顔にかかっているシャワーの量が多くなった気がした。 「もう、触らないでくれ」  ぐい、と腕で晴の手を拒んだ。初めて、強く、はっきりと抵抗した。けれどそれが逆鱗(げきりん)にでも触れたようにで、晴の表情が悲痛そうに潰れた。 「今度はそういうプレイ? 誰にでも腰振ってる淫乱が今更やめられるって本気で思ってんの」 「──」  蓮は一瞬、本当に晴の口から出ているのか疑いたくなるほど信じられなかった。返す言葉も失い、悲しみの渦に放り込まれる。  これ以上は聞いてられない。壊れてしまう。 「誰でもいいなら、俺でいいだろ。慰めてあげるって言ってるんだからもっと喜んでよ。俺のこと利用すればいい。どうせ、今まで放っておいた赤の他人みたいなもんなんだから」  身体が鋭く破かれる。目には見えない血が流れ出す。ついに心が折れ、泣いているようにぶちぶちと血が滴り落ちる。  蓮は堪えきれず、どん、と晴を押してしまう。離れても視界が水でなにもかも見えない。 「もういやだ……」  もう泣きたくない。それでも身体も心も代わりに叫ぶよう止めどなく涙が溢れでる。まるで栓が抜かれたように流れ出てくる。 「なにが」 「俺のこと嫌いなら嫌いで、もっとひどくしろよ! 中途半端に優しくするな…!」 「嫌いなのは兄さんの方でしょ。責任転換しないで」 「それはお前も同じだ。どうして教えてくれない。一体おまえはなに考えてるんだ。おまえのことが全然わからない!」 「……兄さんのことしか考えていないよ」  初めてだったかもしれない。泣きながら怒鳴った俺に萎縮(いしゅく)したのか、それとも落ち着かせようとしているのか、驚いて話をしてくる晴。蓮は止まらず、目を瞑りながら秘めていた想いを言葉に出していく。 「そもそも好きでもない奴をよく抱けるな。言っておくが、俺はそんな器用な人間じゃない。嫌な奴は殴るぞ」 「…だって今までいろんな人と付き合ってるじゃん」 「最後まで続いたことなんて一度もない」 「最後、まで?」 「俺はっ、おまえが、ずっと好きなんだよ! だからっ、抱かれるのも嫌じゃなかったんだ!」 「…兄さんが、俺を?」  どんな目で見られているんだろうか。正直その不安定な声色も怖く、まだ目を開けられそうにない。それでも言わなければ、伝わらない。 「俺も晴のことしか考えてない。ずっと…昔からおまえだけだったから」  なにも言わず、ただ黙って聞いてくれている優しい弟にさらに涙腺が緩む。 「悪い兄でごめん。俺は晴に拒まれるのがずっと怖くて、言えなかった。嫌われるのが、恐ろしかった。関係を失うくらいなら兄弟のままでいたかった」  けれどもう兄弟のままなんて我慢できない。 「晴、おまえは俺のことどう思ってんだ」  もう兄弟でいられなくてもいいから。  どんな答えでも受け入れるから。  蓮は透き通るほど真っ直ぐに晴を、今度こそ目を開けて見つめた。  

ともだちにシェアしよう!