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第十九話 手のひら 上
「俺は…っ、今でも後悔しているよ。兄さんが家を出て行くのをなんで止めなかったんだって」
「なんで…っ」
どうして、おまえが後悔する。
「あのとき兄さんの好意対象が男だって聞いて嬉しかったんだ」
その言葉に蓮は耳を疑った。
それが本当ならば、どうして泣いていた。あのときの晴はそういう風に見えていただけで違っていたというのか。苦しそうに顔を歪めていたのは、どうすればいいかわからなかったからなのか。
考えれば考えるほど頭の中は無数の糸で絡み合って収拾 がつかなくなる。蒸発したように口をぱくぱくと動かしていた。聞きたいこと、言いたいことがたくさんあるのに、上手く言葉にできない。
「まさに、今の兄さんみたいな状態だよ。俺もひどく動揺しちゃって、なにをどう言えばいいかわからなかった。今思えば好きだってそこで言ってしまえばよかったのにね」
晴は、くしゃり、と花が折れたような笑みを浮かべた。最初から自分は勝手な思い違いをしていたことに後悔する。
おまえはまだ、なにも知らない子どもだったじゃないか。悪いのは、伝えなかった自分。怖くて逃げた弱い俺だ。全部、悪いのも、責任も後悔も、俺にあるのに、どうして。なんで罵倒しない。なんで押しつけないんだ。なんで、こんなときに優しくするんだ。
蓮は晴の涙を手ですくい上げて、頬に優しく触れた。
「…泣いていた、だろ」
「だからさ…嬉しくて、泣いちゃったんだよ俺も同じだったし、もしかしたらって思ってたんだ。そうじゃなきゃ兄さんの前で泣いたりしない」
「嬉しくて…? そのわりにはおまえ、苦しそうだったじゃないか!」
俺はそれで全てを失ったと言っていいほど目の前が真っ暗になった。泣いている弟の顔がトラウマになるほどに。
「そんな顔してたの? 俺」
「…は?」
自分でも驚くほど間抜けな声が出た。
「いや本当めちゃくちゃ嬉しくて顔がにやけるのを必死で抑え込んでたんだよ」
「…抑え込んでいた…あれが?」
「あのときまだ子どもだったし、兄さんにかっこ悪いところを見られるのが恥ずかしくて必死に隠してたんだよ」
「照れ隠しがおかしい」
「だってあそこで笑顔で行ったら、出て行くのを嬉しそうにしている薄情な弟だって思われたくもなかったし」
蓮はそれを聞き終えたあと風船から空気が抜けていったような脱力感に襲われた。その場に座り込んでいまい、片手で頭を抱えた。
「嘘、だろ…俺はてっきり拒絶されたとばかり」
「やっぱそれが原因だったんだ。なら、俺のせいで兄さんがここまで苦しむことなかったわけだ」
苦痛に歪んだ表情で深いため息を吐いた。蓮はそんな晴を見ていられなくなり、なんとか慰めようと目の輪郭をやわらげた。
「おまえのせいじゃない」
「そうでしょ。じゃなきゃ俺を想って泣いたりしないよ。俺が感情を押さえつけていたせいでずっと勘違させちゃった」
「…すれ違ってばっかだったんだな」
「ごめん。あんたの前だと理性も、なにもかもが効かないんだ。だからずっと押し殺してた。それが最善だと思ってたから」
「…ふ、そういう俺も子どもだったんだな。おまえのそれにすら気づかないなんて」
「俺は自分で言うのもなんだけど、隠すの上手いから」
「確かに、その通りだったな」
「だから俺はもう手放さない覚悟で弁護士を目指した。法律を学んで、社会的にも兄さんを縛りつけるつもりで」
「え、俺に話したあれは」
「あぁ、弱い人たちを助けたいってやつね。あんなの二の次だよ」
「…二の次」
「だから兄さんがそばでまた笑っていられるように頑張ってきた、のに…」
花をちぎって、ぐしゃり、と片手で握りつぶしたかのように晴は自分の髪を掻きむしった。
「裏切られた。俺のこと想ってたくせにあっさり貞操捨てやがって」
「それは…」
確かに、綺麗なままとはいえない。何人かとは付き合った。肌を合わせたりもしたけれど、結局行為中でもおまえの顔がちらついて最後までできなかった。
蓮は口をもごもごと口ごもりつつ、考え考え言葉を紡いでいく。
「だから、あんたに対する感情を押さえつけるのをやめた。他の誰にも取られたくないから。それに我慢する必要なんて最初からなかったんだって気づいたんだ」
「晴…あの、…」
否定してもいいものか悩んでいると晴の口からとんでもない爆弾を落とされる。
「それで兄さんが俺以外の虫がつかないように紙谷を使って監視させてた。もちろん、あの記事を書かせたのも俺だよ」
「ッ——!」
どうしようもない怒りが向けられている。蓮はそんな前から手を組んでいたことに背筋が凍った。なんのつもりなんだと怒鳴るべきなのに、言葉すら失わせる恐怖。なにも反論できず、くらりと立ち眩みが起きるほど過去が蘇ってきた。
「芸能界なんかにいるから余計に我慢できなくて暴走した。俺の兄さんが他の人に知れ渡るだけでも嫌なのに、ましてやテレビなんか…俺が許せるとでも?」
「俺は、そんなつもりじゃ」
「つもりじゃなくても! 俺だけの兄さんが俺以外のやつに愛想振りまくのが嫉妬で狂いそうだったんだよ!」
面と向かって恥ずかしげもなく独占欲を吠える。狂気といえる執念に、ぞくり、とあろうことか蓮の身体は燃えるような悦びを得てしまっていた。一途にぶつけられるものがたまらなく重く、顔を真っ赤に染め上げる。
「晴が、嫉妬…? うそ…」
蓮は未だに状況が飲み込めず、混乱する。
「できれば誰にも兄さんの魅力を知られずに、ずっと俺だけのために歌ってほしかった。閉じ込めてしまいたいくらい、自分の欲を制御できなかった」
晴の腕が伸びて来て、手のひらが蓮の頬を撫でる。
「は、はる…っ」
突然の甘い声に、ばくばくと心臓が高鳴る。頬から伝わってくる熱で火傷しそうだ。
「芸能界から辞めさせるために紙谷で監視以上のことで怖がらせた。精神的に追い詰めるために」
「ストーカーも、おまえが…?」
「二度と歌えないくらい怖がらせた。おかげで一年は歌えなかったでしょ」
「おまえ…」
「いいよ、べつに。なんとでも言いなよ。けどそれぐらい愛してんだよ。兄さんの好きなもんを取り上げちゃうことさえ、なんともないくらいさ!」
そんなことを叫ばれても説得力はなかった。晴の顔は悲痛そうに笑っていたからだ。
(なんともないわけないだろ)
好きな人から好きなことを取り上げるということは下手をすれば身体の一部を損傷させたみたいなものともいえる。だから痛いわけがない。取った方も取られた方も。
「ばかだな…。俺がそんなことで嫌いになるとでも思ったのか? 俺が歌っている理由はおまえなんだから、なにがあってもやめないよ」
「…おれの、ため?」
「あぁ。あれは全部おまえに向けた歌だから。俺の方が傲慢 で…なんというか女々しいやつだよ」
「…全部、全部、俺のものなの?」
頬に触れていた手がおりてきて、両手を掴まれる。そのまま手首を持たれ、手が晴の唇に当てられた。祝福しているような、されているような感覚だ。神様にでも会ったようにその手を晴の頬に触れさせた。
「そうだよ。少しでもおまえに伝わればいいと思って」
「相変わらず甘えたりするの下手くそだね。でもそんな熱烈なアプローチにも気づかなかった俺はもっと駄目だね」
「無理もないだろ。俺たちはずっと勘違いしてたみたいだしな」
「うん、そうだね。でも…兄さんの声はずっと俺のものだったんだ」
包み込むような優しい声に蕩けそうになる。晴はまるで祈りを捧げるように目を閉じたまま、するりと晴の頬を触れている蓮の手に口づけをする。
蓮はびくっと身体を揺らした。その手の隙間から目覚めた野性のような鋭い熱目線を浴びさせられ、瞬きすらできなくなる。だから恥ずかしいことすら言わせられてしまう。
「こえ、だけじゃない。おれ、おまえとするまで、その…処女、だった」
「……うそ」
「嘘つくわけないだろ。…誰とも最後まで上手くできなかった。…おまえのせいで」
「え、そのわりにはお尻で感じすぎじゃん」
「っ~~察しろ、ばか」
蓮はそっぽを向きながら茹で上がったかのように耳まで赤らめた。
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