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第十八話 確信

 吐きそうなほど走ったことなんて、生まれて初めてだった。心臓の煩い騒音を止めたかったのもある。けれど、余計に酷くなったことがわからなくなるほど混乱していることに理解してもわからないままでいた。そんなことよりも確認をしたくて、間違いだと早く言ってほしいくて、ただ走る。  バンッと勢いよくドアを開ける。鍵を閉めないまま靴をほかるように脱ぐと、晴の部屋へと向かった。けれど、晴は待っていたかのようにリビングで佇んでいた。 「はっ……、は……、この写真を撮ったのはお前だな。晴」  その声は自分が思っていたよりも落ち着いていた。  蓮は持ち帰ってきた週刊誌の紙を見せる。そして写真の部分をよく見えるように目の前に持っていく。 「どうしてそう思ったか聞いても?」  晴の声には焦りが全く感じられなかった。腕を組みながら目は真っ直ぐとこちらを見つめ、俺のそう思った根拠を待っていた。  裏切られた。  全部ここまで陥れるための演技だったのかと殴ってやりたい。さすがの俺でもこればかりは堪える。見事な復讐劇だ。当然の報いといえばそうだ。それほどまで晴を苦しめていたからだとわかる。  だから、責めてはいけないのに、このどうしようもないほどに溢れるぐちゃぐちゃな感情をどこへ持っていけばいい。  蓮は泣きそうな顔をして踏みとどまり、血が出るほど拳を握った。違う、と。  なにが苦しいって、嫌気がさすほど自分のことしか考えていないということだ。 (そうじゃないだろ)  自分ばかりが被害にあったように振る舞うのは逃げてるだけだ。そうやって自分をいいように慰めていればこれ以上傷つかなくてもいいからだ。  だから、ちゃんと知らなければいけない。  どうしてこんなことをしたのか。  俺に、どうしてほしいのか。  理由を聞いてから、泣くのはそれからだと、蓮は奥歯を食いしばった。  確かに傷ついている。打ちのめされてどうしようもない怒りと悲しみで胸が弾け飛んでいきそうだ。けれど、同時にそこまでして俺に執着している蓮がどうしようもなく、愛おしかった。  これは勘違いかもしれないが、今までの全てがどうしても嘘だとは思えない。  蓮は立っている脚さえもぎりぎりの緊張感で立ち向かった。 「この写真の角度。どう考えてもおまえの位置から撮ったものだ。どうやって撮ったのかまではわからないが、多分あのボールペンみたいなやつに録画と言いつつ、本当はあれがカメラだったんじゃないかと思ってる」  殴ったとき、興奮状態ではっきりと記憶があるわけじゃない。けれど今思えばどうして晴は後ろではなく横にいたのか。俺を止めたとき、確かに隣に立っていたことを思い出す。なぜ移動する必要があったのか。俺が殴られると思っての行動ならおかしい。晴は俺がそれなりに喧嘩慣れしていることを知っている。  それに紙谷は喧嘩のような力技に弱い。知っていた可能性はある。元々庇うつもりなんてなかったんじゃないかと不安がよぎった。思えば家にいたときもおかしな点はいくつもあった。自慰の動画やローションの場所、ライブハウスの場所。教えてもいないことを晴は知っていた。  蓮は続けてそのことを話してみた。 「それにおまえ俺の隠し撮りとかもしているだろ。そういう小細工は得意だと思った」  違和感に感じた写真の角度。どう見たとしても晴にしか撮れないものだった。 「なるほど。でも証拠がない。それは単なる憶測でしかない」 「あぁ、証拠はない。写真だって今の時代合成するのも簡単だしな」 「でもそれだけじゃないんでしょ?」 「あそこには誰もいなかったのに、会話の内容がそっくりそのままだし、会場の警備だって細いことまで記されている」 「…それはそうだけど、記者なんだから情報に嘘と本物を載せるのがプロのやり口だしその方が生々しい」  誘導されているような会話のやり取り。晴の話術に負けそうになる。それはまるで詐欺師を相手にしている刑事のようだ。さすが弁護士目指してることだけはある。  だが、蓮にはたったひとつだけのある確証を掴んでいた。ただこれも勘違いであってほしかった。 「それじゃ……なんで紙谷のことを知っていたんだ? 俺があの記者の名前をおまえには言ったことは一度もなかったのに」 「名刺をもらったことがあったから。あの人が実家に取材にきたとき」 「いいや、それはおかしい。紙谷は『』という記者としてのペンネームで名乗っているはずだ。記事とそのもらったであろう名刺を見ればわかる。だから、おまえが紙谷というを知っているはずないんだよ。共犯でもなければな」  そう。紙谷喜章は本名であり名刺や記事に名を記しているものとは違う。こういう汚い話題の週刊雑誌は売れるに売れるが、本人に恨まれることもある。報復をされないための偽名だ。だからそう簡単に本名を知ることはない。 「…そうだっけ。俺は兄さんの弟だから教えてもらったよ」  ほんの一瞬。晴はわずかに息を呑んだ気がしたが、痛くも痒くもないと言わんばかりか嗤って答えた。  だが紙谷が本名を俺に教えたのは、俺に下心があったからだ。何年もの間ストーカーをしていたあいつは最初から本名を名乗っていた。あとから古谷だということを知り、あなただけですと言われた意味をのちに知ることになろうとは思ってもいなかった。 「そうか? 俺はあいつにストーカーされながら言い寄られて、たまに身体を触られたりしたが、まさかおまえにまで興味あったとは驚いた」  蓮は鼻で笑いながら言うと、晴の眉がぴくりと動いた。  一か八か自分をダシに揺さぶりをかけてみた。嘘は言っていない。  これは賭けだ。  俺の勘違いならそれでもいい。けれど、もし、もしそうだとしたら乗ってくるはずだ。  その祈りが届いてしまったのか、晴はこちらを睨みつけながら舌打ちをした。怒った表情を浮かべながら晴は腕を組み直す。片腕を上げ、手先を額に置きながら、とん、とん、と叩いていた。 「そこまでしろなんて言ってないんだけど…はぁ、徹底すべきだったな。行き過ぎた好意は破滅を導くってちゃんと教えこまないといけないな」 「……いつからだ。いつから、こんなこと!」  その先はなにも聞きたくはなく、声を荒げ(さえぎ)った。堰き止めていた感情が一気に爆発した。はあはあ、と一言叫んだだけでこんなにも息が乱れる。ドクドクと心臓が泣いているかのように痛い。  あの夜も演技。  好きだと言ったのは陥れるための詭弁だった。俺はそれをずっと待っていたのに、中身のないただの台詞にすぎなかった。嘘でもいいからとあんなに渇望していたのに、悲しみが止めどなく押し寄せてくる。  苦しい。  この仕打ちはあんまりだと嘆く。  いっそ一思いに殺してくれればよかったのに。  蓮はどこまで心を捧げたとしても永遠に救われることはないのだと絶望した。瞳からは光すら色が消え、身体中が堕落する。  「いつから? ずっと前からだよ。ずっと前から兄さんだけが俺の中心だった」  晴の手が額から離れ、見下ろすような目で圧迫される。  蓮はたった今どん底に突き落とされたはずだった。けれど本当はただのベッドに落とされただけだったようで錯乱する。晴の言葉も理解できず、また嘘だと疑心暗鬼にただ見つめることしかできなかった。 「愛してるからだよ。わからないの? ずっと俺のものだったのに、許せない」  肉を噛む、ぎり、という鈍い音と激しく胸を動揺させるほどの熱が瞳に注がれている。 「だから、兄さんが自ら俺のとこに堕ちてくれるよう仕掛けた」  告げられる内容は本当かどうかわからない。けれど、嘘ではない気がした。その晴がゾッとするほど本当のことだと語ってきた。冷たい無表情に見える晴の顔が置いてかれた子どものようだった。  蓮はそんな晴を抱き締めることなく、固まっていた。怖くて動けないのではなく、身体が喜んで動かなかった。  せつなそうな瞳がわずかに揺れ動いている。そして、赦しを請うように手が伸びてきた。  行く手も逃げる術も持たせず、自分の手で支配したいという束縛の手。  誰にも渡さず、自分の手だけを触れさせるその独占欲の目。  ほしいと願ったもの全てを与えさせる貪欲の口。  向けられるもの全て蓮に対する歪んだ愛。  許すもなにもこんな風に堕とすのも計算の内で、全てわかった上で仕向けた。晴に甘い俺がなにもかも目を瞑って赦すことも知っていた。蓮は蜘蛛の糸で張り巡らされた手のひらにいるとわかっていても、手を伸ばさずにはいられなかった。  諦めていたものがずっとそこにあったからだ。喉から手が出るほど望んだものは最初からあった。勘違いして、目を逸らしていたのは全部、自分の方だった。  今でも信じられないと狼狽(ろうばい)する蓮にゆっくりと晴は話し始めた。 「強引に行為をしたことは悪かったと思っている。けど、謝りはしない。俺以外の男に触れさせやがって」  怒りを抑えつけた低い声が腹に響いた。その音が心臓の音と重なり、身体の温度が上昇する。和音した音色に慣れず、息が乱れる。  けして嫌な音ではなく、むしろ心地よいと瞳をゆっくり閉じた。ゆったりと開けて、閉じての瞬きを深呼吸とともに繰り返し、それを柔らかく噛み締めた。 「俺はずっと兄さんだけのために生きていくって約束したのに…先に、破りやがって」 「約束って…」 「…やっぱりな。忘れてるだろうと思ったよ。だから俺は余計に兄さんのこと赦せない」  ──赦すことなんて一生ないけれど、と冗談の一筋も紛れていない声色にぞくぞくと背中に背徳感が走る。  そのとき、晴の瞳から一粒の雫が溢れた。それはまるで雪解けのようだった。  

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