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第十七話 事件

 目が覚めると、晴は隣で裸のままぐっすりと寝ていた。蓮も同じようになにも着ていなかった。どうやら晴が風呂に入れてくれたようだと頭も身体もきれいになっているのを見て察する。  カーテンの外は眩い陽光で散りばめられ、まるで夏の海のように輝いていた。優しい朝日は蓮を月の光のように甘く、やわらかいベールで包み込んでいるかのようだった。  ナイトテーブルの上に置いてある時計を見ると、午前六時だ。よく見れば日付も月曜日となっていた。週末の土曜日に抱かれ、晴にお願いされて次の日も一日中抱かれ続けた。おかげでところどころ記憶が曖昧(あいまい)だ。 (気絶してても続けてたしな)  激しい情事に意識を飛ばされては、また戻されての繰り返しだった。蓮はそのことを思い出して、頬が熱くなっていくのを感じた。恥ずかしいけれど全身があたたかなもので満たされる幸福感があった。身体は重たく、動かせない。そんなことでさえ嬉しかった。  それに愛しい子が隣で寝ている。それだけで死んでしまってもいいと思えるほど心がたくさんの花で埋め尽くされている。寝ていた間も昨日の名残りのように固く結ばれた手。繋いだ手のぬくもりに瞼がまた重たくなる。蓮は「はる、すき」と呟くと握っている晴の手に口づけをしてそのまま眠った。  どうやらそれから一日中寝ていたようで、次に目が覚めたのはもう夜だった。身体がだるく、足が思うように動かないと壁をつたって歩いていると、いつのまにか姿を現した晴に抱きかかえられた。そのままリビングまで連れてってもらうことになった。  けれどさすがに大人として弟にお姫様抱っこされるのはとても恥ずかしく、降ろすようにお願いした。けれど晴に「俺のせいだから甘えて」と言われ、数々の情交の痴態を思い出される。蓮は反論もなにも言えなくなってしまった。  約二日分の食事をし、浴槽に長い時間浸かれば疲労感も軽くなり、自分で歩くようになれた。かなりよぼよばの年寄りみたいな歩き方だけれども。  そのとき、ずっとリビングにいたであろう愛猫が心配そうに蓮の周りをぐるぐると回っていた。にゃう、とか弱く鳴きながら擦り寄せてくる。蓮はそんなハルちゃんを抱きかかえ、ソファーに座る。 「ごめんな。ご飯とか食べてないだろ。それにずっと構ってあげられなくて、淋しかったよな」  蓮は頭を撫でながら謝る。淋しかったのは俺の方かもしれないとなぜか瞼が熱くなっていくのを感じた。 「ご飯ならちゃんとやってたよ」  後ろからやってきた晴が一緒にソファーに座り、話しかけてきた。 「いや、その…昨日とか一昨日の話で」 「だからあげたよ。ちょうど兄さんが気絶して水持ちに行ったついでに」 「そ、そっか……」 「…ふ、それよりさ、ここにも大きいハルちゃんがいるんだけど構ってくれないの?」 「お、おまえは十分構っただろ! 順番だ。順番」  急に甘いキャラメルのようなとろりとした声を出すから先に身体がびくりと反応してしまった。けれど、こんな晴見たことがなく、バクバクと心臓がさっきから煩い。 (かわいい…。ッハ、だ、だめだ…こんなの、構っちゃうだろ!)  甘えてくるもう一匹のでかい猫が愛くるしくて手がそちらにいってしまう。けれど、理性という冷静さが残っている今は独りにさせてしまった愛猫の方が優先的だ。蓮は無視するようにハルちゃんに構うと晴も膝の上に乗ってきた。 「構って、お兄ちゃん」  と小悪魔のように微笑むと首を引っ張られ、唇が近づく。すると片膝に乗っていた猫にその間を挟まれた。おかげで顔がもふもふの毛並みに沼った。晴は舌打ちをするとハルちゃんにぺしぺしと殴られていた。 「おい、嫉妬は見苦しいぞ、バカ猫」  にゃう~とまるで猫同士の喧嘩をしているような二人を見て、蓮はくすくすと口許を緩めていた。    それから晴とは一緒に自分の寝室で寝るようになった。さすがに連続で抱いてくることはないだろうとハルちゃんも連れてベッドに三人で寝ていた。けれど、一日経った次の日に猫が寝ているにも関わらず何度も中に出されながら激しく抱かれた。  布団の中でうつ伏せにされ、後ろから晴の凶器を入れられた。執拗に責め立てられ、枕を濡らすほど噛みしめながら何度も絶頂を繰り返した。  シーツに性器が擦れて、蓮は先端からぼたぼたと愛液を漏らしては、シミを作っては汚した。  そんな日が週末まで続いて、洗濯の量も増えてしまった。身体は激しい行為に慣れてしまったのか、重たく、だるいのには変わらないけれど、動けなくなることはなかった。  しかし、感じやすくなってしまって、服が擦れるだけでも下半身が疼いてしまう。激しい情交の後は甘イキが止まらず困ったときもある。一度抜かないまま中に精を叩きつけられイキ狂わされた。イキすぎた身体は愛撫だけで達するようになり、晴の思うがままの身体になる。  苦痛はなく、これからずっと満ち足りた気分にずっと浸っていられると──そう思い込んでいた。    蓮はいつも通りに週末ライブへと向かった。気怠(けだ)るさはあるもののそこまで酷くはなく、昨日はそこまでねちっこくはなかったなと無意識に思い出してしまった。蓮はそんな甘ったるい自分に気を引き締めさせるため軽く走った。  ライブハウスへと足を踏み入れた蓮は人の多さに違和感を覚える。それと同時にライブハウスの外では見なかったものが目に入る。中には桜の花びらのように無数の紙が散りばめられていた。ほぼ全員のスタッフがそれを拾い集めている。  会場に入ってきた蓮に気づくとその速さは増していった。その合間にもちらりとスタッフに見られている。目を合わせてなくとも視線でわかる。蓮はなんとなくその紙がなんなのか察する。  蓮は裏方からステージに入っている。その廊下で拾い忘れた一枚の紙を手に取る。スタッフの一人が「あっ」と声を上げる。一瞬にして息苦しい雰囲気になる中、蓮はその紙を見て驚愕した。  二面にわたる週刊誌の記事。先週のライブ帰りに起きたあのときの写真だった。見事にあの記者を殴った俺が写っている。まずそこに晴が写っていなくて安堵した。改めて見るとあのとき、帽子もなにも被っていなかった。こんなにもはっきりと顔の見える写真ならすぐにあのRENだとわかる。  つまり最初からこれを狙っていたかもしれないということになる。  なにより記事の内容は暴力を頻繁に振るう物騒なイメージとして書かれていた。いつも以上に私生活までの嘘をでっち上げるものが酷く上手い。もう一面はまた掘り返すように昔の活動についての詳細がびっしりと書かれていた。疑念に思われていた枕などデタラメが同じように真っ赤な嘘を作り上げていた。  最後に真相はいかに、と殴ったこと以外全部捏造した記事に呆れつつも、また家族に迷惑がかかってしまうと喉が渇く。両親の辛そうな顔が今にでも思い浮かぶ。  暴力なんてもっとも最悪だ。写真からすれば抵抗している相手に殴りかかっているように見えなくもない。これのためにずっと紙谷は粘っていたのかと策略に陥しいられたことに内心舌打ちをする。  けれど、この違和感はなんだろうか。  なぜこんなにもドクドクと心臓が驚いているのか。  蓮はその原因である写真をまじまじと見つつ、信じたくもない可能性の一つに気を落としてしまう。無理矢理蓋をするかのように、それを鞄の中にへとしまった。そしてふらりと一瞬揺れながらも、ゆっくりとステージへと上った。スタッフが焦り出す中、一人が奥の方へと走っていった。  蓮は手で顔に影を作る。いつもよりステージライトが眩しく感じた。まるで証明しろと言わんばかりに照らされる光に嫌気すら覚える。思えば一度記者会見を開いた時も同じような気持ちだった。会場は騒めきで埋め尽くされていたが、蓮はさほど驚くことはなかった。  心配ごとはともかく、こんなことはくだらないことだ。それは今も昔も変わらない。世間がどう受け止めようとも関係ない。  自分の生き方を、心を、恥じたことは一切ない。  前の自分からこんな強気にはならなかった。けれど、この一週間幸せなときを過ごしたからだろうか。なにに対しても怖いと感じることがなくなった。  蓮はさっき見た記事の一文を思い出す。 【一人の男性に一心不乱になり、周囲が見えていないのでは】  昔からそうだったと自分を卑下する。ずっとそうやって歌ってきたさ。今も変わらず歌を続けているのがなによりの証拠だ。どうやったって諦めきれないあの笑顔と手のぬくもりを求めて叫び続けている。  晴を好きになったことも、後悔しているといえば嘘になるかもしれない。けれど、もう一度生まれ変わったとしても俺はきっとまたおまえに恋をする。それぐらい愛してしまった。  蓮はなんの準備もせずに水分だけ取り、その場に立ったままでした。すると先ほど走っていたスタッフと連れてきたのであろう主催者がステージにやってきた。蓮は面と向かって頭を下げた。 「申し訳ありません。今日だけ、いつも通りにさせてください」  お願いします、と深く深く頭を下げた。前回のことを知っている主催者は蓮の肩に手を置いて首を振った。  蓮はやはり駄目かと落胆すると主催者は悔しそうに唇を曲げながら、 「こちらこそ警備が(おろそ)かになっていたようで申し訳ない。歌って頂いて、ここにいて構いません。ですから、どうか、どうか無理だけはなさらないようお願いします」  と逆に謝ってきた。  いつだったかイクミが言っていた。オーナーがこのライブハウスを紹介してくれた本当の理由を。叶うかは夢のまた夢のような話だったらしい。けれど、いつか俺に歌って貰おうとオーナーや主催者も含めたファンが作ってくれた場所だということを知った。  蓮は自分の目の前にいるファンたちを、見ているようで見ていなかったことに痛感する。ここは陽だまりのような場所だ。あたたかくて心地がよい。まるでそのためだけに造られたような気がして、蓮は泣くのを必死で堪えた。  救っているのではなかった。救われていたのはむしろこちら側だったと──。   「今日はライブの前にお話があります」  蓮は会場にいる一人ひとりの顔を見るようにゆっくりと深呼吸をする。緊張感が走る会場。けれど、ここに集まっている人たちはみんな心配するような目線で俺を見ていた。 (ちゃんと俺を見てくれる人がいる)  それだけで心強いことはない。 「会場にいたみなさんはすでにご存知だとは思いますが、週刊誌の記事のことです」  ざわり、と様々な声の響きが遠く近くとで交差して雑音になる。けれど誰一人として声を荒げなかった。ここにいる誰もが、蓮の話す声だけに耳を傾けていた。 「写真は事実です。ある人のことを殴りました。理由は俺の大切な人を傷つけられたからです。衝動的とはいえ、暴力はいけないとわかっていました。けれど、それでも許せませんでした」  ごくり、と唾を飲み込み、話を続ける。 「それについてはライブハウスの主催者さまとスタッフのみなさん、そしていつも足を運んでくださるみなさんにご迷惑をおかけいたしました。申し訳ありません」  蓮ははっきりと告げると頭を深く下げた。 「それ以外につきましては事実ではありません。…といっても信じてはもらえないとは思いますが、俺の口からちゃんと伝えたかったので」  蓮は背筋を伸ばし、もう一度深々と頭を下げた。静まり返った会場に負けないよう浄げに。顔を上げて立ち向かう姿は勇敢で美しい、と誰もが釘付けになった。  そしてその勇ましさに共鳴したかのように光の音が響いた。   「信じるよ!」    その声は誰よりも知っている声だった。  イクミの声に続くように、俺も、私も、と次々に声を上げる会場の人たち。声は和音となり、押し寄せてくる波のような勢いだった。会場を見渡せば泣いている人や温かい応援の声をくれるファンの姿がそこにはあった。  蓮はみんなが会場にいてくれた時点でもう十分だと思っていた。幻滅して、この場から立ち去る人たちが少なくともいると思っていたからだ。けれど実際は昔、確かに感じていた家族のぬくもりに近いものが会場中に溢れ出ていた。  蓮の瞳から一筋の雫がこぼれる。 (ここにいてもいいんだ)  ずっと、ずっと、居場所がないと嘆いていた。それすらも歌として表現し、叫んで、自ら不幸を慰めていた。無駄ではなかった。自分の抗いは誰かのためにもなって、広がっていっていた。  蓮は嬉しくなって思いっきり笑った。夏空の下で笑い合った青春のように(ほが)らかに。  蓮は笑顔で前にはしなかったことを伝える。 「みんなごめん。…ありがとう」  そういって目を閉じた。深く、海底に落ちるような深呼吸をして声を届けさせた。  ギターも奏でる音もいらない。  心を轟かせろ。 「新曲をみなさんに捧げます。花束をあなたに」   『恋をしていたというわずかな痕跡にあなたは気づいたでしょうか』   『私の心はいつも花でいっぱいだった。あなたが笑えば咲き、あなたが泣けば散っていく』   『あなたが私を嫌うほど枯れてしまい、人知れず血を流していました。それを死ぬまで繰り返すのだと運命(さだめ)を知っても』   『なんでもないふりして互いに傷つけていたことも知らずにまた花を咲かせる』 『今日は色褪せたしまったローズマリー。消えることのないカスミソウ。増え続ける曼珠沙華。花束にしてあなたにあげるわ』   『その胸の花束と一緒にさようなら』   『これほど恋い焦がれることはもうないでしょう。私の忘れられない人よ』   『あなたがなによりも大切でした』   『ありがとう。なにも知らず花束をもらってくれて』 『あなたと一緒にいると色鮮やかな花が咲きこぼれました』   『今日は赤いゼラニウム。青いオキシペタラム。明るい向日葵。花束にしてあなたに贈るわ』   『その花束を愛でてくれたあなたさようなら』   『風鈴が揺れ、優しい香りと一緒に私は風に溶け込んだ』   『花吹雪がまばゆい光を指す方へと舞ってゆくわ』   『私からの花束気に入ってくれたかしら』   『さようなら。さようなら。私を愛でてくれたあなた』    歌い終わればいつも以上に会場が活気で溢れかえっていた。息も整わないまま、蓮は礼をして、清々しく微笑む。  しばらく休むことを伝え、エンディングを鼻歌で奏でる。また戻ってくるという強い意思表示のように手を挙げ、約束する。  時間になり、ライブを終えた蓮は会場の主催者とスタッフに改めて謝罪したい、と頭を下げて今日の礼を述べた。また戻って来てくれるならそれだけで十分だと手を握られた。今は休んだ方がいいとまで背中を支えてもらい、蓮は久し振りに感じた人のあたたかさに必ずまた戻ってきますと強く誓った。    蓮は鞄から出した記事の写真を見ながら走っていた。一人で新宿のダンスホールを駆け抜けていく。その眩しさがようやく馴染み、染み込むようになって写真のことをようやく受け入れる。いや、受け入れるというよりも手で押さえ込み、飲み込ませた。  違和感は確信へと変わり、今にも倒れそうな足を止まらせて心を落ち着かせた。ばくばく、と耳が痛くなるほど爆弾を抱えた心臓。その音がサイレンのように鳴り響く。 「嘘で、合ってくれ」  蓮はすがりつくかのように再び足を蹴った。  

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