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第7話
隠れて宮下に見惚れながら、つらつらと浮かれたり不安になったりを繰り返しているとあっという間に家に着いてしまう。次の街灯を抜けて角を曲がればすぐに自宅だ。
家に上がりたいって言ってくれないだろうか。誘ってもガッついていると思われないだろうか。期待と願望と怯弱さの間で逡巡する。意図的に深い恋愛関係を避けて十数年──。昔はもっと自信があったはずなのに、いつの間にかすっかり恋愛に対して臆病になってしまっている。
誘うなら今だとタイミングは判っても言葉にするのにはとんでもない勇気が必要だった。
「……あの、」
アパートの入り口で立ち止まり宮下を呼び止める。もっと普通に、気安く声をかけるつもりだったのについ力が入って声が大きくなった。
「寄って行くか? 茶ぐらいしかないけど……」
軽く咳払いして誘った。……なんだこの下手くそな誘い方。童貞が初めての彼女誘い込むんじゃないんだから……。もうちょっとスマートが誘い方があるだろうと、俺は自分に絶望する。
「──あー、せっかく誘ってもらったんですけど……、今日は辞めときます」
一瞬困ったような時間が流れて、俺はそこで断られると思っていなかったことに気付いた。俺が誘えば気が乗らなかったとしても、困ったように笑って頷いてくれると勝手に思い込んでいた。
アパートに付けられた虫の集った薄暗い常夜灯の明かりでは、表情ははっきりと解らなかったけれど……、多分、宮下は残念がるよりも困った顔をしている。
もっと一緒にいて少しでもいいから触れたいと思っていたのは、今を名残惜しいと思っていたのは自分だけなんだと知ってグサリと傷付く。だけど、そんな自分の気持ちは見ない振りをする。
「そうか、明日も仕事だしな。今度はもてなす用意しといてやるから、次の機会にな」
「……はい。本当は、すごい寄って行きたいんですけど……」
フォローする言葉に、俺は残念な顔を見せただろうかと不安になる。何でもないのだと、ちょっと気楽に誘ってみただけだと思って欲しいのに。
「無理すんなよ、今日も暑かったしな。あ、ちょっと待ってろ。ここからだとコンビニも自販機もないだろ。暑いし飲み物やるよ」
「えっ、いいですよ」
遠慮する宮下を無視して未練がましく少しだけと引き留め、一番奥の自宅のドアを急いで開ける。日中温め続けられた部屋はムワッと暑く、宮下には玄関外で待ってもらって冷蔵庫を開けた。
中にはよく冷えた飲みかけのスポーツドリンク、ビールが数本、それからお茶とカルピスウォーター。カルピス宮下にもらったものだけれど、いつも飲んでいるし好きなんだろうとカルピスとお茶を持って玄関へと戻る。
「ワリィな、考えてみたら冷蔵庫の中は酒ばっかだった。カルピスとお茶、どっちがいい?」
聞きながらドアを開けると、思いがけず宮下が笑っていてドキリとする。
「やっぱ、カルピス好きなんですね」
クスクスと笑って言われて何言ってるんだ? と驚いた。
「いやいや、カルピス好きなのは宮下だろう?」
「え? 俺は加藤さんがカルピス好きだって言うから……」
「……俺、そんなこと言ったか?」
飲み会で宮下のカルピスを貰う事はあったけど、好んで買ったことはないはずだ。
「前、俺が入社したばかりの飲み会の時に言ってましたよ」
宮下は自信満々だが俺には全く身に覚えがない。
「酒が飲めないって言ったら『じゃあカルピス頼んどけ。俺が飲みたくなったら貰うから』って……」
不満気に少し頬を染めて言う宮下に、覚えはないけど嘘じゃないと確信する。
「ごめん……。覚えてない……」
「えぇっ!? 加藤さんがカルピス好きなんだと信じてたのに。大分ショックなんですけど……」
「まさか、飲み会の度にカルピス頼んでたのって、そのせい……?」
「そうです」
「俺に飲ませるために……?」
宮下はコクリと頷いた。
「カルピス飲んでれば加藤さんと間接キスだと思って……」
「マジか……」
「マジです」
驚きの余り唖然と呟くと大真面目に返され、本気でそう思っていたのだと知らさせれた。
「……それ、大分怖いぞ? 第一、覚えてる限りずっとカルピスかカルピスサワーじゃねぇか。てっきり宮下が好きなんだと思って……」
「……」
恨めし気な、無言の肯定。……ってことは、入社してすぐから、ずっと? 思っていた以上に重い好意に自然と顔がほころぶ。嬉しさが、隠せない。
拗ねた顔をして目の前に立ち尽くす宮下がとてつもなく可愛く見えた。
たまらなく愛しくて、空いている手で自分より背の高い宮下の頭を、わしゃわしゃと犬を可愛がるみたいに撫でる。
なんだ、この、図体ばかり大きい可愛い生き物は。
「ごめん、な。このカルピスは俺が貰うから、お茶持ってって」
宮下には悪いが、あまりの可愛さと嬉しさに笑いが止まらない。ニヤニヤとしたまま話す俺に憮然として、宮下が差し出したお茶ではなくカルピスウォーターに手を伸ばす。
「ごめんって……。あの……嬉しくてさ……」
怒っているのかとビクビクする俺の前でキャップを外し、宮下がカルピスに口を付けた。
そのままおどおどと様子を伺う俺を捕まえ、ドアの外だというのにおもむろに口付けられた。腰を抱えて引かれ顔を固定される。
「おいっ」と声を出そうとしたところに舌を差し込まれて、生ぬるいカルピスが注ぎ込まれた。
さっきまで冷蔵庫の中で冷やされていたはずのそれは、唾液と混ざり口内で温まっている。本来の飲み物とは違うやけに淫靡に感じる液体をゴクリと飲み干す。
ジワリ……と、熱が集まるのを感じた。けれど、宮下は腰に回した手を離し、されるがままに立ち尽くしている俺の耳元で呟いた。
「今日は、これで帰ります……。知ってると思いますけど、俺、怖くて重いんで。加藤さん、次までに覚悟してくださいね」
固まったように片手に握り締めたままのお茶のペットボトルと、今飲んだばかりのカルピスウォーターのペットボトルを宮下が交換する。
「こんな場所ですみません。お茶、ありがとうございます。……あの、おやすみなさい」
反射的に「あぁ、明日」と呟いて、呆然としたまま立ち去る宮下を見送った。
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