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第26話

「加藤さん……?」  宮下の戸惑った声。頭の中で「何やってんだ、俺」って声が聞こえる。会社で、鍵もかけてない資料室で、何やってんだ。  手を引っ込めようとした俺を振り返って見つめて、宮下が手を引いた。宮下が手にしたコンビニの袋がカサリと音をたてる。それを飾り程度に置かれたテーブルの上に置いて、更に背の高い棚が並ぶ部屋の奥、死角になる場所まで連れて行かれた。そのまま、待ちきれないように抱きすくめられる。  きゅっと熱い腕に拘束されて、拒否されないことに安心して、ようやくほっと息をついた。  はーっと息を吐いて、これはマズイなと頭のどこかで考えたまま、宮下の首筋の匂いを嗅ぐ。  安心して、欲情する、宮下の匂いに包まれる。  覚えたてのそれに、身体が先にズクと疼いた。ヒリヒリと痺れるその場所の奥。ツキ、と背骨が歪んだみたいな痛みを覚えるその場所の奥。  それから、胸の真ん中。きゅっと縮んで、そこからじわりと幸せがひろがるみたいな気がする。  耳元でハァ……と宮下のため息が聞こえて、腕に力が入る。宮下もそうなんだろうか。  自分の場所に帰って来たみたいに満たされている?  ……そうならいいな。  俺が感じているのと同じように、宮下も感じていてくれたら嬉しい。触れているのが自然だと、いつでも触れたいと思ってくれたら嬉しい。  日当たりの悪い部屋でもさすがに二人でくっ付いていると暑くて、タラリと汗がたれる。じっとりとしたその暑さも嫌いではないけど……。 「あっついな……」 「……ですよね。すみません。我慢できなくて」 「最初に、我慢できなかったの俺だし……」  そう言いながらも、離れがたくて、首だけ回してエアコンのリモコンを探す。一応置く場所は決まっているはずなのだけど行方不明になりがちなそれを棚の上に見つける。 「あった」といった俺の言葉に反応した宮下がリモコンを取りに行こうとしたけれど、ちょっといたずらしたくなって、宮下から離れずに抱き付いたまま移動した。  ほんの二、三歩だけどくっ付いたまま移動した俺に「あぶないですよ」と笑って、チュっとキスをする。だけど、一度じゃ物足りなくて、二度、三度としているうちにスルリと舌が忍び込んだ。  痺れがゾクゾクと背中を走って「ぁ」と小さな吐息がもれた。  背中に回された手が腰まで下りて、抱き寄せられる。それだけで身体がピタリと密着して、力が抜けそうになる。  ……あー、まずい、これ。  流されちゃいたい。けど、流されるのはマズい! 「ちょ……、ここまでっ」  唇を無理矢理離して制止する。  ……のに、止めろって宮下!! 唇追いかけるなって! 「ダメだって! 会社だからっ!」  そこまで言ったら、ぴたりと止まった。こいつ今、絶対にここがどこか忘れてただろ……。 「すみませんっ、つい……」  宮下が慌てたように顔を離す。と、それがそれで淋しいなんて、俺も勝手だ。 「な、わかるけどさ……、また、な。今は昼にしよ?」 「はい」  宥めて提案すると、素直な犬みたいに頷く。こういう所、可愛いんだよな。宮下はたっぷり名残惜しそうに、俺を抱いていた手を離す。 「……すみません……」  それから、勃ちあがりかけた自分を俺に押しつけていたのに気付いてもう一度謝った。  謝る必要はないんだけど、宮下程じゃないけど俺だって熱が集まって来てる。それに、俺で勃ってくれるのは嬉しい。「……抜いてやろうか?」思わずそう言いそうになる。  ……いやいや、ダメだろ。俺も何血迷ってんだ。会社じゃダメだって。  思わず引き留めたくなるのを振り切って「お昼にしましょう」と宮下が急かす。 「……おう。何があるって?」 「おにぎりと、あとはから揚げとかの肉もありますよ」  コンビニの袋から出して並べられるおにぎりを選びながら、もっと強引に来ればいいのになんて思う。強引にされたら困って怒っちまうんだろうけど。  それでも、机を挟んで正面に座らず隣に椅子を並べて座った。何か話したらいい雰囲気になってしまいそうで、何を話したらいいのかわからなくなって、結局仕事の話をしながら昼飯を食べる。  こういう距離感は十代の学生の頃を思い出す。共有する時間の長さと距離の近さは嬉しいけど、ちょっと怖い。  宮下が自分の日常の中に入り込みすぎていて、欠けてしまったらどうなるんだろう? っていう怖さ。これで別れてしまったりしたら、同じ職場で顔合わせるのかぁ……っていう、なんていうか、存在の重さ。  学生時代は、友達と喧嘩しただけでも世界がひっくり返るくらい大事件だった。それが同級生の恋人だったりしたら尚更大事件だった。  今の宮下との関係はあの頃の関係に似ている。生活の中で、気持ちだけじゃなく時間も環境も、宮下が関係してる部分が多すぎて切り離せない。この急速に気持ちの全部が傾いていくのもあの頃に似ている。  老いらくの恋なんて言葉もあったな。老いらくと言う程の年でもないけれど、年を取ってから罹るはしかは重いとかも言うし。  そんなこと実感なんてしたくなかったけど、気持ちを持て余すなんて久々すぎて自分で自分に振り回されてしまうし、これが最後かもしれないと思うとブレーキは掛からない。  簡単な昼食を終えて、少し机に突っ伏した。  尻が痛くてずっと同じ姿勢で座っているのが辛い。……円座、買うべきだろうか? でも、円座を使ってたら『痔です』って言ってるようなもの? それはちょっと恥ずかしい。  ……そういえば、と思い出す。 「若菜は、なんだったの?」  今、丁度机に俯せていて顔も見えないし、気になる事は早めに聞いた方がいい。 「……気になりました?」 「ちょっと、な」 「金曜日ありがとう、ってそれだけです。……で、その金曜日っていうのなんですけど、実はちょっと彼氏のふりを頼まれました。ごめんなさい」  やっぱり。金曜の夜に見かけた姿が、少し親密そうに見えたのは気のせいじゃなかったんだ。合コンか、紹介か、何か男女絡みのそんなことだろうとは思ったけど。 「……ま、頼まれたなら仕方ないよな」  仕方ないなんて口先だけだけど、少しだけ顔を上げて強がる。 「若菜さん、ストーカーって程でもないけど面倒くさい人に言い寄られてて、その人が嫌で転職したらしいんですけど、諦めてくれないからって頼まれました。相手も若菜って名字を教えたら、名前を教えられたと思ってその気になっちゃったみたいで……」  説明する宮下を机の上に組んだ腕に顔を乗せて見上げる。うん、やっぱいい男。 「あー……、若菜って名前っぽいもんな」 「しつこいから名前教えるのも嫌だからって言われて仕方なくです」 「まぁ、確かに宮下だったら彼氏役に最適だな」  見栄えはするし、年相応の若さはあるのに誠実そうで、結婚相手に選ばれそうだ。これは、惚れた欲目でなくそう思う。  でも、もしかしたらこれをきっかけに、と若菜は思っているかもしれないと思ったけど、それは黙っておくことにする。これで宮下が意識するようになったら嫌だ。 「でも、宮下さんは嫌ですよね。先に言おうかとも思ったんですけど、なんか、言い逃しちゃって……、ごめんなさい」  重ねて謝られる。妙に神妙に言われて、なんだか宮下が可哀想で可愛くなる。 「いいよ、別に。ふりだけだし、そんなの気にしないって」  ……本当は気になるし嫌だけど、そんなこととてもじゃないけど言えない。多分、宮下は女にだってモテる。見た目がいいのだ。とびっきりの美形とかじゃないけど『彼氏にしたい』リアルな美形ライン。 「気にしてくれないんですか?」 「気にしてたらキリがないだろ」 「……気にして、欲しいなぁ……とか、思ってるんですけど」 「なんだそれ……」  いちいちそんなんを気にして嫉妬してたら、俺の身がもたないだろ。と続ける前に、宮下の手が髪に掛かる。  俺と同じように、机にコロリと頭を乗せて正面から視線を合わせた。 「やきもち、妬かれたいです。俺は加藤さんのものって、言って欲しいなぁとか。……重いですか?」  ぽっと頬に血が上る。  言ってもいいの? 重くない? 多分俺、宮下が思ってるより重いと思うんだけど。  ……って本心を隠して「ばーか」って笑う。そのまま、宮下から視線を外して腕の中に顔を埋めた。  ばーか。そんな事言われたら本気にしちゃだろ? 「……ほんとは、少し、妬いてくれました?」  隠した本心を見抜くみたいに聞かれて、言葉に詰まる。  髪に触れた手が頭を撫で、襟足で遊ぶ。それがくすぐったくて、すこし首をすくめた。 「加藤さん」  答えを求められて、小さな声で答えた。 「……少しな」  腕の隙間から盗み見ると、宮下はニコリとうっとりするような顔で笑った。

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