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第27話

 その日の午後は散々だった。  身体は痛いのに、気持ちはどこかふわふわしたままで、電話をかけ間違えて、印鑑を押し間違えた。どれも大事には至らなかったけど、些細な失敗をいくつかして三時を過ぎる頃には上司に「無理せず帰れ」と言われた。  色惚けで失敗して帰るなんてできないと思ったけれど、宮下に「顔色が悪い」と言われて、熱を測ったら三十八度近くあった。  ……訂正。色惚けで失敗した上、体調を崩して帰るなんて……。こんな失態も人生初だ。  自分で自分が情けなくなってしゅんとしていたら、宮下が仕事の引継ぎや荷物の整理を手伝ってくれる。  俺が直接の上司なんだから当たり前なんだけど、あまりの格好悪さに甘える気にもならなくて、なんなら気まずい位で……。ついついぶっきら棒になる返事に宮下はひたすらに「すみません」て謝りながら手伝ってくれて、それに益々申し訳なくなった。  宮下は悪いことなんて何もなくて、ただ俺が体調崩しただけなのに、こんな所で勝手に気まずくなって八つ当たりとか。たまに会うお袋の「これだからアンタは……、いつまでも子どもでさぁ」っていう声が聞こえる。  いつもは笑って躱している言葉だけど、本当にそうだな、と今頃思う。いつからかお袋は「結婚しろ」とは言わず「一人は寂しいよ」と言うようになった。「自分勝手なままじゃ、誰も一緒に居てくれないよ」と。  一人は寂しい。  本当にそうだ。長い事一人で暮らして来たけれど、平気な振りをして気ままに生きていても、やっぱり一人は寂しい。  俺はすぐさま弱気になって「ごめんな、世話かけて」と謝ると、宮下はキョトンとした顔をして慌てる。 「世話なんて……、そもそも俺が悪かったんです。調子に乗っちゃって……」 「いや、それは俺もだから」  本当に申し訳なさそうにする宮下に、それに嬉しかったし、と小さな声で告げる。一瞬だけ嬉しそうに顔を上げて、でもすぐに「でも、やっぱ俺のせいですよね」とうな垂れる。  会社ではあまり深い話をすることも出来なくて、どう伝えるかを迷う。 「ま、それもあるかもだけど、いいんだよ。仕事の穴埋めは宮下がしてくれるんだろ? 頼りにしてるからな、頼むぞ」  結局、上司の顔をした俺に「任せてください」と心強い返事をくれる。そのまま送って行くというのは流石に辞退して早退させてもらった。  このぼんやりする感じは熱が出ているからだろうか? とりあえず寝とけば治るか。回らない頭で、スポーツドリンクとラーメンはあったな、と考えてどこにも寄らずに帰宅した。  ピーンポーン、と間延びしたドアホンの音で目が覚めた。  ボーッとする頭で「何だっけ?」と思いながら、反射で「はーい」とドアホンに返事をする。  けれど喉がやけに乾いていて、掠れ声しか出なかったけれど、そんな声でもちゃんと聞こえたらしい。宮下の声が続けて部屋の中に響く。 「すみません、寝てましたか? 無理しなくていいんで、差し入れここに置いてきますから……」 「いや、ちょっと待って」  枕元に置いた二リットルのスポーツドリンクを直接飲んで、さっきよりマシになった掠声で告げる。帰ってきたままのワイシャツに作業着姿で寝ていた俺は、ひどい姿だなと思ったけれど、取り繕う程の時間も余裕もない。  そのままの姿で、寝癖になってないかと髪だけ抑えつけて玄関のドアを開ける。ドアの外はまだ明るくて、仕事帰りの宮下がドラックストアの袋を下げて立っていた。寝ていたせいなのかもしれないけど、なんだか宮下が眩しくて目を細めた。 「ごめん、寝てた。悪いな、心配かけて」 「ですよね、すみません。寝てるかもとは思ったんですけど、これだけ渡したくて……」 「お、ありがとな」  礼を言いながら宮下に部屋に上がれと促した。 「いや、これでお邪魔します。起こしといて何ですけど、休まないと……」  宮下は遠慮して今にもドアを閉めたそうにする。無理矢理呼びとめるのは悪いとわかっていたけど、返したくなくて食い下がる。 「まぁ、いいじゃん。せっかく来たんだから、茶だけでも飲んでけ。……あ、でも風邪だったらうつると困るか」  ……少し、心細くなっているもかも知れない。 「上がってもいいんですか?」 「おう、ちょっと寝たら大分調子良いからさ」 「じゃあちょっとだけ」  といっても、部屋の中はほとんど昨夜宮下が帰った時のままで、寝てるしかしていない。どうしようか、と部屋を見渡すと「寝ててください」と宮下に半強制されて、もう一度ベッドに押し込まれる。 「でも良かったです。本当に帰った時より少し調子良さそうで。……やっぱり、無理させちゃったせいですよね」 「いや、ただの寝不足かも」 「寝不足で熱は出ないでしょう。とにかく、寝てください。身体はまだキツいですか? えっと……腰とかは」 「そっちは、まぁ……。ちょっと痛いかな、と」 「……すみません。着替えもまだですよね? ごはんは? 薬は飲みましたか」  立て続けに質問されて全部まだだと言うと、張り切って「看病したい」と言う。それがあまりに必死で可愛くて仕方なく頷いた。  されるがままに食事を摂って、薬を飲む。部屋の中に誰かがいるのが心地よかった。そのまま流れのように着替えを促され、身体を拭くからと濡れタオルを用意されたが、さすがにそれは気恥ずかしくて断る。 「いや、シャワー浴びるよ。暑いから身体冷えたりもしないし」 「ダメですよ! シャワー浴びて熱上がったらどうするんですか」 「大丈夫だって」  食い下がると、恨めしそうな目をして「……やってみたかったんです」と訴えられる。  ……ずるいだろ、それ。わかっててわざとやってるのか?  結局、押し切られてシャツのボタンを外す。昨日は裸でいても平気だったのに、一度隠してしまうともう一度脱ぐのは恥ずかしい。  脱がせられるのは耐えられなくて、自分で脱ぐと言ったのをすぐに後悔した。ボタンを外す指が上手く動かなくて苦戦する。ようやく自力でボタンを外し、ワイシャツを脱いで下着のランニングも脱いだ。  ……せめて、そんな目をして見ないでくれると嬉しいんだけど。熱が上がりそうだ。 「身体、拭きますね」 「おぅ」  目元を赤くしてそんな事言われたら、こっちはもっと恥ずかしい。けど、正面から恥ずかしがるのはもっとやりづらい。  温かな濡れタオルが躊躇いながら襟足に触れる。それから、もう片手が肩を押さえて背中を拭く。その手の感触にドキドキしてくらくらした。  多分、宮下も同じなんだろう。  後ろから抱き締めてくれないかな。  けれど、それ以上手は辱める動きはせずに、上から下、隅々まで身体を拭いた。そのまま時折タオルを湯に浸して絞りながら腕を拭き、正面を向かされる。  正面を向いても、不自然なくらい目を合わせられなかった。目を合わせてしまったら、どうしたって今以上に意識してしまいそうだ。  おかしな沈黙と緊張のまま身体を拭いていく。そして、タオルが触れた脇腹にゾワリとして、ついでにくしゃんとくしゃみが出た。 「すみません、身体冷えちゃいますね。先に上、着てください」  そうTシャツを渡された。じっと見られていると思うとやりづらくて背中を向けて服を着る。それら、さすがに下半身を拭いてもらうのは気が引けて「あとは自分でやるから……」と言ったら、ふ、と身体が近付いて、首元にキスされそのまま腕が身体に回された。 「宮、下……?」  飛び上がった心臓を隠して名前を呼ぶと、宮下がハッとしたように首筋から顔を上げる。 「……あ、すみません。見てたらつい……」  だけど、腕は解けなかった。  少しだけ後ろに傾いて、宮下に身体を預ける。心臓のきゅんと、ホッが同時に来た。  安心、するんだよなぁ。 「今日は、何にもしないので、後で抱きしめて寝てもいいですか?」 「いや、今日は帰った方がいいんじゃないのか?」 「加藤さんが寝たら帰るので……。ダメですか?」  それは魅力的な提案ではあるけれど、でも、一緒にいたらもっと触りたくなっちゃうだろう? そんな俺の心を読んだのか「今日は何もしないので。……熱出してる加藤さんにそんなことできません」と続けられる。 「でも、風邪だったらうつっちゃうだろ?」 「大丈夫ですよ、俺の方が若いし。それにうつったら治るって言いますし」 「だけど……」 「ちょっとでも一緒に居たいんです。……て、俺、重いですよね。すみません……」  重いなんて、少しでも一緒に居たいなんて、そんなの嬉しいでしか無くて。 「ちゃんと、家には帰れよ……?」  結局、宮下に抵抗できない。……流されすぎか?

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