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第56話
だめだな、感傷的になっている。
その自覚はあるけれど、瞳が潤んでくるのは止められなかった。
「加藤さん?」
訝しがる宮下の声。
気付かないでいて欲しいことに限って、気付かれてしまうのはなんでなんだろう。ず、と鼻をすすって「何でもない」と返してもそんなこと信じるわけがなくて。
抱き寄せられ、やさしい長い指がやわらかく頭を撫でた。子どもみたいにあやされて、そのあたたかさに涙がこぼれた。
「何か、ありました? ……ていうか、もしかしたらなんですけど、今日会ったのって昔何かあった人ですか?」
ずばりと指摘されて知らないふりで過ごそうと思ったのに、言われた言葉に思わず力が入った。抱き締めている宮下はそういう反応に敏感で、気付かれないはずはない。
「……何も、」
「やっぱり。何となくですけど、そんな気がしたんですよね」
落ち着いた、低い声が触れた身体から直接響く。指摘されてどきどきと鳴る自分の心臓の音の向こうに、宮下の緊張も伝わってくる。
素直に話そうか、それともごまかしてしまうか逡巡する。
恋人の昔の恋愛話なんて知らない方がいいに決まっている。そんなことわかっているけど、この先も一緒に過ごすのなら素直に打ち明けた方がいいんじゃないか、とか。もう済んだことだし、この年まで何もないなんて宮下も思っていないだろうし……。
それでも、聞いた宮下はいい気はしないはずで……。
「梗平さん」
名前を呼ばれて、ドキリと心臓が鳴る。
さっきは加藤って呼んだくせに、こういう時は名前を呼ぶなんてずるい。
覚悟を決めようと思うのに、言葉が出て来なかった。
「嫌なら、言わなくてもいいんですけど……」
頭を撫でながらそう前置きをした宮下も、きっと迷っている。
「それでも梗平さんが辛いこと、俺は一緒に支えたいです」
きっぱりとした声。
壮大のことを聞かれると構えたのに、宮下の口から飛び出したのは予想外の言葉だった。
じわりと沁みる、その言葉の意味。不意を突かれて、際限なく涙があふれそうだった。
けれどこれは、辛い涙じゃない。
「ごめん、違う。そうじゃなくて……」
言葉が途切れた。
──何て、伝えたら伝わる?
この幸福感と、満たされた想いと。
ぐっと胸が痛くなって、あたたかくなる、そんな気持ちを。
──『愛してる』。
その言葉を口にするのは、少しためらいがある。言い慣れない言葉が恥ずかしくて。
言葉に詰まって、唇を舐めた。
「……もしかして今日のは元彼で、元彼の方が良かったとか思ってる? もしそうなら、」
「それは違う!」
「会ってみたら、やっぱあっちがいいって、未練があるんじゃないんですか? 年も近いし、……やっぱ挿れる方がいいとか。だったら、」
「だから、宮下!」
全然違う方向の勘違いに、慌てて言葉を挟む。けれど宮下は全然聞いてくれなくて、つい口調が強くなった。
「……奎吾」
宮下が名前を呼んでくれたのを思い出して、名前で呼び直した。
間近で見る宮下の顔。優しく頭を撫でてくれた手はいつの間にか強張っていた。
少し気まずそうに宮下が視線をそらす。
「ごめん、俺が紛らわしいよな。そうじゃなくて……」
言葉で伝えようと思うと緊張して、ゴクリと唾を呑んだ。
「えっと……」
いい年して格好悪いんだけど、セックスの後とかならともかく、シラフで言葉を伝えるのは少し苦手で……。いや、だいぶ、かも知れないけれど。
宮下と一緒にいても、直球で想いを伝えてくれる宮下に頼り切りというか。思えば「好き」の言葉に「好き」と返すことが多くて、自分から切り出すのは少なくて。
宮下が俺の言葉を待っているのはわかっているのに、どこから話せばいいのか、なんて言葉を選べばいいのかすら、上手く探せない。
宮下は、いつも惜しげもなく言葉をくれる。安心させてくれる。
その言葉を紡ぐ唇を見た。
首を伸ばして、唇に唇で触れる。
さっきだって同じように触れていたのに、情けない俺の唇はふるえて、軽くキスしただけで離れてしまう。なのに、離れたらとんでもなく心細くて、すぐにもう一度触れた。
ぎこちなく応える宮下に、心の中でごめんと囁いて、唇で唇をはさんで噛む。
その柔らかさに心が溶けてゆくのを感じる。
やわらかくてあたたかくて、満たされる。ああ、やっぱりこれだな、って確信する。
「……奎吾、好き」
唇を離して囁いた。
「……いま、すごくそう思って、幸せだなって思ったらちょっと泣けただけだから……。一緒にって思ってくれるの、すごく嬉しい」
「加藤さん」
「加藤、なの? 名前で呼ぶんだろ」
「……梗平さん」
飾らずに、真っ直ぐに気持ちを伝えようと思った。きっと、それが一番伝わるから。
けれど近すぎる距離で目を見て話すのは恥ずかしすぎて、肩口に額を預ける。
「俺さ、あんまり言葉で伝えるの得意じゃないからさ」
「ん…、わかってます。だから俺、か…梗平さんの分まで伝えるので」
「奎吾がそう思ってくれるの嬉しいし、好きって言われるのも嬉しい。……けど、だったら、俺も奎吾にそう思ってもらいたくて……」
だけど、いざ、と思うと言葉が途切れた。それでも、
「壮大は確かに元彼だったんだけど……。今日偶然会って、もう壮大に未練はないってはっきりわかった。それより、それなりに幸せそうにやってる壮大に良かったって思って。それから、宮…奎吾のこと話したくなった。自慢ていうか……そんな感じで」
ぐいとシャツを掴んだ手を引いて、ぎゅっと宮下にひっついた。
「……昔は、とてもじゃないけど、そんなこと思えるなんて思わなくて。最後は結構ひどい別れ方したから。なんか今があんまり幸せでそんなこと忘れてて、壮大と別れて良かったなとか思うくらい。……自分でもびっくりした。俺をこんな気持ちにさせるの、奎吾だけなんだよ。奎吾の倍も生きてきてなんだよって思うけど、ほんとに……」
シャツにしわが付くほど、ぎゅっと手を握った。
「えっと、つまりさ……。こういうの、愛してるって言うと思うんだ」
「……」
俺の言葉を聞いて緊張した宮下に、もう一度、伝わるように言葉を繰り返す。
「奎吾、愛してる」
ぎゅ、と抱き締められる。
言葉にした緊張と、堪えきれない愛しさ。めいっぱい抱きしめられて苦しいのに、また泣けてくる。
これも、幸せな涙。
好きだと思う、愛しいと思う、かけがえのない人に、今ここで抱きしめられているっていう、涙。
ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、苦しいのに、泣きながら笑ってしまう。
宮下が腕の力をゆるめて、それから俺の顔をのぞき込む。たぶん、涙と鼻水と、あと緊張と興奮と。見られたいって思うような状態じゃないんだけど、それでもそんな俺の顔を見て、泣き笑いみたいに笑った。
それから、
「俺も、愛してます」
笑っちゃうほど真剣に告白して、もう一度キスをした。
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