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第78話
何かに触れられている気がする。
ふわり、とうごいた空気に目を開けると宮下がいた。手触りの良い布団にくるまれる。
「気が付きましたか」
「……おれ、寝てた?」
「少し、っていってもほんの五分くらいですけど」
「そーか……。辛かったわけじゃないんだけど、なんかふわーっと意識が遠のいて……」
「気持ち良さそうで可愛いまんま、寝るみたいに落ちてましたよ」
苦笑する宮下にごめんと謝る。どんな状況であれ、抱いている相手が意識を失った瞬間は、少しだけ恐ろしい。なんとなく覚えがあるだけに申し訳なさが先立った。
「起きます? ならお風呂温めますけど」
「ん……、起きる。けど、もうちょっと……。もう朝?」
「6時前です」
「そんなに?」
告げられた時間に驚いた。いくら何でも一度目が覚めたからってさすがに寝すぎだろう。けれど、今はまだちょっと身体がだるい。疲れじゃなくて、どこか快感の余韻が残っている方の……。
お風呂湧いたら声掛けますねという宮下に甘えて、布団を抱き込むと、長い指が髪をあげておでこにキスを落として行った。
いや、きゅんじゃなくて……。宮下は姉さんがいるし、実は少女漫画が好きだったりするんだろうか。行動が甘いっていうか、妙に王子様じみてるっていうか、きっと女にモテるんだろうな、と今更ながらに思って、でもそれ俺にも有効なのかと布団に顔を埋める。
可愛いと言われるのも、なんとなく慣れてきてしまって最近ちょっとやばい。中年のおじさんが可愛いと言われて喜ぶとか、それを違和感なく受け取りそうになってきているとか。
それともおじさんだから可愛いと言われたら嬉しいんだろうか。……なんとなく、そっちの方がしっくりくる。とは言え、今はとんでもなく顔が熱いわけだけど。これも、一緒に暮らしてもっと慣れたら平気になるんだろうか?
こんなにドキドキするのに?
──でも、そういうものだよな。
なんだって、どんなことだって段々と人間は慣れていく。それは少し寂しいけれど、一緒にいることが自然になったということなら、嬉しい。
ピロンと遠くで音が鳴って、入浴の準備が整ったと電子音声が伝える。ふぅ、と大きく深呼吸をして布団からはい下りた。
広い風呂の曇りガラスの向こうは、すっかり明けの空色に代わってきている。せっかく張ってくれた湯に浸かる。けれどもキッチンから聞こえる音に、なんとなく急かされて早めに風呂を上がった。
ファンヒーターで雑に髪を乾かして脱衣所のドアを開けると、甘い香りが部屋の中を占拠していた。それにつられて、空腹を忘れていた腹がぐぅと存在をうったえて、キッチンのコンロの前に立つ宮下に近付いた。
「いい匂い、何作ってんの?」
「ホットケーキです」
「ホットケーキ!? ……えらいシャレてるな」
「実は得意なんですよね。粉も自家製ミックスですよ」
「へぇ、美味そうだな」
と返事はしてみたものの、ホットケーキなんて自分で作ったことがなくて、感心半分、驚き半分だ。じゅわと音をたてて開けられたフライパンの中身は、確かに見目良くきれいに焼かれたホットケーキ。
「そんなに好きなんだ、ホットケーキ?」
「んー、好きかって言われたら、まぁ。子どもの頃に姉ちゃんとたちと研究したんですよね。で、未だに得意料理です。これ、ウインナーとかしょっぱい系にも合うんですよ」
そう言いながら、ホットケーキを焼いたフライパンにウインナーを放り込んで焼き、その横でスクランブルエッグを作る。慣れた手つきであっという間に焼き上げて、ホットケーキを乗せた皿に、ウインナーとスクランブルエッグ、それからホイップクリームを乗せた。
「野菜とかフルーツとかはいいの?」
「いります?」
「……いらないけど」
「でしょ」
得意そうに宮下が出したのは、以外……というか、やっぱりというか、ヘルシー感とは無縁になボリュームに特化したホットケーキプレートで、なるほどと納得する。ホットケーキなのに、完全に男飯だった。
昨日の弁当も温めるか聞かれたけれど、それは後にしてホットケーキとコーヒーだけをテーブルに並べる。
この家で初めての朝食。こたつなら平気なのに、向い合わせで座るテーブルは妙に気恥ずかしくて、意味もなく笑ってしまう。ごまかすように「いただきます」とあいさつをしてホットケーキにかぶりつく。以外なほどふっくらと甘く、妙に懐かしい味。自然に言葉が出た。
「美味いな」
「やった! それ、卵ともウインナーとも、生クリームつけたウインナーともいけますよ」
「えっ……、生クリームとウインナー一緒にいくの?」
「まぁまぁ、やってみてくださいよ」
いつもの週末の朝ではあるけれど、まだ一緒に暮らしているわけではないけれど、少しだけ特別に感じる朝。いつも通りの会話も少しだけ特別な。
「……やっぱり、一緒に住むまで引っ越すの待っとけばよかったかな」
きょとん、という感じに宮下が俺を見る。続きを待たれている気がして、あわてて言い訳をした。
「えっと、深い意味はないんだけど。これが毎日ならいいなって、思って……」
言いながら、恥ずかしくなってくるし、宮下がここから帰ってしまうんだと思うと寂しくなってきた困った。
……本当に大したことないはずなんだけど、なんだろう、情緒不安定なのか? 妙に心細いような気がしてくる。
「いや、ごめん。……奎吾と一緒に住むの、楽しみだなって話で……」
「あー、もう。そんな顔されたら、俺このまま居ついちゃいますよ?」
「悪い、忘れて」
そうしてくれたらいいのに。そう思ったけれど、それを言うわけにはいかないって、なけなしの理性が言う。少なくとも俺は宮下と親子ぐらい年が離れていて、せめてけじめをつけるのが年上の見栄というか、それくらいはさせて欲しい。
そう思っているのに……。この心細さは昨日の続きのせいなのか?
「わかりますけどね。昨日、帰って来た時に明かりは点いてたけど、ぜんぜん返事なくて、ちょっと寂しかったです」
「いや、それもごめん」
「寝室のぞいたら布団を抱いて丸まって寝てて可愛かったですけど。でも、一軒家って狭くても、なんか広いですよね」
「そんなに広い家じゃないのにな」
「梗平さんが許してくれるなら、毎日ここに帰りたいんですけど」
ぐるり、と部屋を見回した。以前のアパートの倍近くある広いリビングダイニングの隅には段ボールが置いてあって、色んなものがまだ足りない空間。テーブルの上には、ボリューム満点のホットケーキプレートにコーヒー。
それから向かい合いの席に座った恋人。
大きな掃き出し窓と、高窓からはいつの間にか朝陽が射しこんで、部屋の中をきらきらとした光が舞っていた。
たぶんそれは特別なものじゃなくて、日常の、だけどはっとする程きれいな、光。
その中にいる宮下ごとひかって見えるような。
──天使、って言うには無理があるけど。でも、
ぐっと胸をつかまれて、言葉に詰まる。そんな俺にそれこそ光を振りまいているみたいに、宮下が笑いかける。
「梗平さん、きらきらしてる。空に光の筋ができるの、天使の梯子って言うんですっけ? 射しこんでる朝陽がそれみたいで。梗平さん、天使ですね」
なんて、うっとりと言うものだから、思わず吹き出した。俺に天使はないだろ。そう思うのに、胸の奥から何かが込み上げてくる。
本当にバカップルとしか言いようがないんだけど。
それでもこんな毎日が当たり前にある、それが特別でも何でもなくて、あと少しで手が届くほどすぐそこにあって。
特別でも何でもないこんな毎日が続いてゆく。
たぶん、きっと、最期まで──。
俺の望んだ幸せは、そういうもので──。
「奎吾の方が天使だって」
俺は、涙をこらえて笑って言った。
- おしまい -
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