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第3話
誰かがそっと髪に触れている手の感触が伝わってくる。
その手がだんだんと瞼、頬、顎、そして唇へと移っていく。
目を開けたいのに開けることが出来なくて、まだ夢の中へいたいのか覚醒できずにいた。
ーコトンー
小さく何かが置かれる音が耳に届き、足音が遠くなっていくのがわかる。
誰かが様子を見に来てくれたのだろうか…?
「翔!」
ガバッと大きな音を立てカーテンが開くと同時に大声で名前が呼ばれた。
ようやくその声に引き戻されるかのように、俺は重い瞼を上げる。
「よう、篤史」
「やっぱ調子悪かったんじゃん」
「いやっ、ただの寝不足だし。まあ、頭にボール食らったのは予想外だったけど」
「痛みは?」
「さっき目を覚ました時は痛かったけど、今は平気」
「そっか。どうする? カバン持ってきたけど、帰る?」
カバンをチラつかせて篤史が問いかけてきたから、それに答えようと体を起こそうとして、ふいに頭元に目をやると、視界に飛び込んできたのは水滴をたくさん付けている『カルピスウォーター』だった。
誰が置いていったのかはすぐに察しがつく。
「あいつ…」
思わず「ふっ」っと笑いが出た。
田森理久のやつ、どんな顔してこれを置いていったんだろう?
全くの無表情だったりして…
「悪い篤史。ちょっと担任のとこ顔出して来ていい? 後でいつものとこ行くから」
「了解。じゃあ、カバン置いとく」
「サンキュッ。また後でな」
「おう」
持っていたカバンをベッドの端に置くと、篤史は手を振って保健室から出て行った。
俺は、カバンと置かれているカルピスウォーターを手に持ち、「先生、お世話になりました」と保健室先生に挨拶を済ませると、担任の元へは向かうことなく迷わずにある場所へと足を進めた。
だんだんと水音が近づいてくると、キュッと胸の奥が掴まれたような感覚になる。
「田森理久!」
水やりをしている後ろ姿に名前を呼びかけると、そいつは驚いた顔で振り返った。
「佐久間くん、どうしたの?」
「これ、お前だろ?」
「あっ、バレた?」
「わかるに決まってんだろ。普通、水とか、スポーツドリンクじゃねーの?」
「そのつもりでスポーツドリンク押したら、これが出てきたんだよ」
「マジか!?」
「そんなわけないじゃん」
「っだよ。俺と同じ現象が起こったのかと思ったし」
「そんな何度も同じ現象が起きたら、業者さん怒られるんじゃない?」
「まあ、確かに…」
まるで初めてここで話した時みたいな会話。違うのは、あの時よりも俺たちの間に距離を感じないことだ。
俺の世界に入ってくるようなタイプの人間じゃないと思っていた田森理久の存在が、少しずつ少しずつ俺の中に入り込んできている。
それが何となくくすぐったい。
「もう大丈夫なの?」
「まあね。ほらっ、俺って意外と石頭だし」
「けど、意識失ってたし…」
「それはまあ予想外の出来事ってことで」
「あははっ、何だよそれ」
おチャラけた顔をしながら言う俺に、田森理久が表情を崩して笑った。
マジかよ…。
こいつ、こんな顔して笑うんだ…。
普通に、俺らと何ら変わんない顔してんじゃん…。
「お前、笑ってる方がいい顔してんのな」
「えっ?」
「この前も思ったけど、無表情よりそっちの方が話しやすいっていうかさ」
「そんなこと…」
「他の奴らと話したりしないの?」
「まあ…僕は、人見知りだから。なかなか自分から話しかけられないし」
「何だ、人見知りなだけなの? 俺はてっきり頭の悪いやつとは関わりたくないのかと思ってた」
「まさか! そんなことあるわけないよ」
少し声を大きくして俺の言葉を否定してきた。
そういえば…、俺はすっかり頭の片隅へと消えていたことを思い出す。
「辞書にさ…」
「うん…」
「ある単語のところで見つけたんだけど…」
「ああ、あれ見つけたんだ…」
「あれって、もしかして俺のこと…?」
「だったら、どうするの?」
あの時見つけた単語に書かれていたもの。
admire「憧れ」。その端に小さく書かれていたのが『佐久間翔』という俺の名前だった。
小さな小さな字で書かれていたのに、俺の目にはしっかりと印象に残っていた。
だけど真相を聞くことなんてできるわけもなくて、何も見なかったことにしようと決め込むことにするしかなかった。
「別に、どーもしない。ただ、俺はもっと田森理久のこと知りたいって思うんだけど…」
「そんな…僕のことなんて…」
「田森は、俺のこともっと知りたくない?」 「それは…知りたい…かも…」
「だったら、まずはカルピス味の甘い唇の感触からってのはどう?」
自分の唇を親指で軽く触れながら一歩ずつ田森理久へ近づいていくと、同じ数だけ田森が後ずさる。
これじゃ近づけないじゃん…。
「さっき俺に触れてたのお前だろ?」
「そ、だけど…」
「俺に触れたいって思ったんだろ?」
「まあ、否定はしない」
「だったら、もっと近づかなきゃ触れられないんだけど?」
「僕は…、君と話してみたいって思っていただけで…」
「ふーん…」
「ちょっ、ちょっと…」
壁際までやって来て逃げ場のなくなった田森理久が、目を合わせないように顔を逸らす。
俺は意地悪くその姿をじっと見つめながら、眼鏡に手を伸ばしゆっくりと外した。
「ほらっ、やっぱりこっちの方がずっといい顔してんのに…」
「からかうなよ…」
「からかってねーし。けどまあ、他のやつに知られない方が俺的には好都合かも」
「眼鏡…、返せ…」
目の前に差し出すと、少し乱暴にそれを手に取り再び掛けた田森が、俺の横を通り過ぎて水やりを始めている。
その耳が少し離れている場所からでもわかるくらい赤くなっていて、自然と笑っている俺がいた。
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