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第1話 師走中旬
人が落ちていた。
いつもの帰り道、僕と友達の瞬、鶫 の3人はそのイレギュラーな光景に立ち尽くした。17年間生きてきて、道端に人が落ちていたことは今まで一度もない。ここから少し都会の街に出たって、遭遇したことのない光景だった。それでも生まれ持った気質というのは恐ろしく、迷わず僕は倒れているその男性に駆け寄り、声を掛けた。
「大丈夫ですか」
遠くで瞬と鶫が話しているのが分かったが、内容までは聞こえない。そしてその人からの返事も聞こえない。しかし意識はあるようで、喉の奥から低いうめき声がした。
この季節ではありえないほどの薄い長袖ティーシャツにジーンズ生地のズボンを履いているその人の顔は、長い前髪に隠されている。知らない人の体を触るのははばかられ、どうしたものかと辺りを見渡す。ちらりと見えたその人の首筋はあまりに細く、青白かった。このままにしては体調を悪くしてしまうかもしれない。いや、もうしているのかも。
放っておけない。
「その人、もしかしてこの家の人じゃない?」
背後から唐突に声がして、驚いたつもりはないが軽く体が震えた。
「瞬、急に話しかけるなよ」
「そりゃあ、あんなに困った顔されたら助け舟出さんわけにもいかんやろ」
瞬の後ろから鶫が言う。びびっているくせに偉そうに言うなよ──という心の声は飲み込み、さっきの瞬の言葉を思い出す。
「どうしてこの家の人って分かる?」
「靴が片方、門の向こうに落ちてる」
瞬が指した方に目を向けると、普通の家にはないような、立派な造りの門の向こうにサンダルを見つけた。
言われてみれば、その人は同じ靴を片方だけ履いている。というか、この時期に裸足にサンダルで出かけようとするなんて、どれだけ常識知らずの人なんだろう。この家の人ではなく飢えた泥棒の可能性も捨てられないが、知らない人を犯罪者扱いするのも良心が痛む。
この家の主と信じて、僕たちはその人を家に運ぶことにした。
寝室らしき和室にその人を寝かせ、僕は台所を探しに出た。見たところ、同居人はいないようだ。玄関の靴も、彼が履いていたサンダル以外は履き潰された下駄のみ。その下駄も埃をかぶっていたので、長らく使われていないのだろう。
どうやって暮らしているんだろう。
やけに広い家の中を歩き回り、台所を見つけた。
「ああ、なるほどね……」
こんなに早く答えが分かるとは思っていなかった。正確に分かったわけではないが、想像は容易にできた。
シンクが見えないほど積まれたカップ麺の容器。調理台はデリバリーピザの箱で覆われており、ごみ箱からは何膳もの折られた割り箸とコンビニ弁当の殻がごちゃまぜになって飛び出している。
生活力なし、と。
名前も知らないあの人の、最初のプロフィールだった。
やっとのことであの人を寝かせた部屋に戻った僕を迎えたのは、鶫の弾んだ関西弁だった。
「なあ聞いてよ圭介! 鈴ちゃんめっちゃすごい人なんやけど!」
鈴ちゃん……?
言葉多らずな鶫に瞬が捕捉する。
「鈴木さんっていうらしい。鈴木草太郎さん」
そう言われて、体を起こしたこの人の名前の話だと分かった。
鈴木さんは僕を見て緩く微笑んだ。
「お前が圭介か」
小柄な体躯に似合わず、少し掠れた低い声で彼は言った。ちゃんと顔を見ると、自分よりかなり年上の人だと認識した。推定三十代。それにしてもかなり不健康そうな人だ。目の下に隈がくっきりと刻まれているし、唇は血色を失った紫色だ。台所の有り様からすれば妥当な健康状態だろうけど。
「とりあえずこれ食べてください。体の中から温めないと」
そう言って僕は台所から拝借した鍋を差し出した。中身はたまご粥。本当はもっとちゃんとした物を作りたかったが、食材といえばたまご一個と冷凍ご飯しかなかったのでこうなった。それだけでもあってよかったと言うべきか。
突然差し出された湯気の立つ鍋に鈴木さんは驚いたのか、数回瞬きをした。それを見た鶫がおかしそうに笑う。
「鈴ちゃん、食べたって。圭介は根っからの世話焼きやから、これくらい日常なんちゃらやし」
「茶飯事な」
瞬が横からクールに突っ込む。
「んじゃまあ、遠慮なく」
僕は鍋と一緒に持ってきた茶碗におたま二杯分の粥を注ぎ、鈴木さんに渡した。彼の指は細すぎて、少し多めに入れた米の重みに耐え切れないんじゃないかとひやひやしたがいらない心配だった。
と、一口目を食べようとした鈴木さんの動きが止まった。
「忘れてた」
僕を含めた三人が疑問符を飛ばす中、鈴木さんは僕に茶碗を返し、少し待てという仕草をした。
そして僕に向かって────僕が持っている茶碗に向かって、手を合わせた。
「いただきます」
あんがと、とまた茶碗を手に取り鈴木さんは勢いよく一口目にかぶりついた。
スプーンごと食べてしまいそうだ。
「ん、うまい」
二口、三口。時々湯気を吐きながら咀嚼する。顔を歪めて飲み込むと、痩せているせいで形のはっきりした喉仏が上下に動いて嚥下していく。
僕は彼が食べるひとつひとつの動きから、目が離せなかった。
「ほんでな、圭介。鈴ちゃんってすごいねんで」
話したくてうずうずしていた、というふうに鶫が身を乗り出した。
「何で?」
すごいというなら台所の有り様だろう。片付けていたせいで部屋に戻るのが遅くなってしまった。
鶫はなぜか得意げな表情になり、腕を組んだ。
「へへーん。そんなに聞きたい?」
「言いたくなかったら聞かないけど」
「うそうそ! ほんまはめっちゃ言いたいから!」
お調子者の鶫は初対面の人の前でも通常運転だ。少しうらやましくもある。
「鈴ちゃんってな…………小説家の若草鈴なんやって!」
沈黙。
「ほら言っただろ、圭介に言っても反応薄いって」
「いやそれはどう考えてもびっくり案件やろ」
「本人としてはこの反応、逆に困るな」
三人は口々に言う。いつの間に仲良くなったんだか。
若草鈴といえば繊細な文体で知られる小説家だ。それも新作は必ず何千万部単位で売れて、映像化された作品も多い『今一番売れている小説家』。しかしその素顔は謎に包まれていて、顔も本名も性別さえも非公開。そういうところもまた読者を魅了するらしく、コアなファンも多いと聞く。
「これで若草鈴知らないとかいうオチだったら俺かなり恥ずかしいんだけど。鶫、どうしてくれんのさ」
「いやさすがに知っとるやろ。前ドラマの話したもん」
鶫と鈴木さん(若草先生?)が頭を寄せ合ってひそひそと話している。
瞬は鶫の隣でいつの間にか問題集を開いている。こいつは鶫とはまた違った方向性で自由人だ。話を聞いているのが退屈になってきたのだろう。
「ああ、うん、若草鈴は知ってる。妹が大ファンだし。
でもそんなすごい人と目の前にいる人が同一人物だって実感なくて」
「こんなぼろ雑巾みたいなおっさんが超有名小説家って信じられねぇか」
「いえ、そういうわけでは……」
ある。正直なところ。あの台所を思い出して否定しきれなかった。
そんな僕の心中を悟ったのか、鈴木さんは意地悪な笑みを浮かべた。
「本当は?」
「まあ、あの台所見たらちょっとは疑いたくもなりますよ」
「あ、お前それは言わない約束だろ」
「いつそんな約束したんですか」
気づけば鍋は空になっていて、鈴木さんの顔色も少しはましになっていた。
「久しぶりに美味い飯食った」
「部外者の僕が言うのもなんですけど、もうちょっと健康に気を遣ったほうが……」
「そうしたいのは山々なんだけどさ、締め切り近づくと身の回りのことは二の次になっちまうっていうか、元々気にしない質っていうか」
あ、そうだ、と鈴木さんは指を立てた。
「たまにでいいからさ、飯作りに来てくんねぇ?」
「え?」
これはどう反応するのが正解なのか。本気なのか、冗談なのかも分からない。
どっちつかずの僕から目を離し、鈴木さんは突然、問題集とにらめっこしている瞬に話しかけた。
「そこの問題、xでまとめて因数分解してここで使った公式当てはめてみて」
「え、はい……あ、できた」
「どうよ」
鈴木さんはどこか誇らしげに僕を見た。
「どう、とは」
「俺、勉強教える。お前、飯作る。これすなわち、ウィンウィン」
ギブアンドテイクということか。別に見返りがないから了承しなかったわけではないけど。
鈴木さんは本気らしかった。僕は瞬と鶫に目配せをする。二人とも、「首を縦に振れ」と言いたげに、いつになく目力を強めている。それぞれで彼を気に入ったらしい。
僕はというと、答えは初めから決まっていた。
この人を放っておけない。
「分かりました。そんなにいいものは作れませんけど……」
彼の目の下の隈が濃くなった。心底嬉しそうに笑ったのだ。
こうして、僕たち4人の食卓が始まった。
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