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第2話 文月下旬

 蝉の声に顔を上げると、山の青と空の青が目に入って少し痛かった。この時期の白昼は目に悪い。  鈴木さん──鈴先生との勉強会は週に数回のペースで続いていて、その度に僕か瞬が何か作っている。瞬はこの辺りで有名な老舗料亭の1人息子で、跡継ぎとしてお父さんに料理の腕を鍛えられている。そのおかげだろう、高校生ながら作るものは皆上品で、食べる度に新しい世界に出会った気分になる。タダで食べるのがもったいないくらいだ。それに対して僕は、近所のマダム御用達の惣菜屋の息子。仕事で料理をするせいで家では何も作る気が起こらないと言う親の下、家庭料理を仕込まれてきた。といっても材料や味付けは目分量の、とても人様にお出しできるものではない。それでも鈴先生は気に入ってくれたらしく、春頃に「圭介と瞬が交互でちょうどいい。無駄に舌が肥えなくて」と言っていた。一応、褒められたことにしている。  週に数回のペースと言ったが、最近は鈴先生の仕事の関係でご無沙汰していた。新聞の連載コラムと新作小説の締め切りが重なったらしく、今回遅れたら担当に本気で怒られると怯えていた。肝の据わった性格の彼があんなに怯えるなんて、どんなに怖い担当さんか少し気になるところだ。  隣を歩く鶫が「あちぃー」と嘆いた。汗びっしょりになった首筋に後髪が張り付いている。 「鶫、暑くないの?」  結べばいいのに、と色素の薄い髪に手を伸ばした。めんどくさがって切らないくせに、いい感じにまとまっている。今のように湿気を含んでいなければふわふわしていて、思わず触りたくなる髪だ。  鶫はその性格柄、女子からたいそう可愛がられる。背が低く愛想がいいのでみんなの弟ポジションだ。  そんな鶫の首筋に、赤い印を見つけた。 「どうしたの、これ」 「何がー?」 「赤くなってる」  されるがままだった鶫が、目にも止まらぬ速さで首を押さえた。反射的に手を引っ込める。鶫の顔はゆであがったように紅潮していた。 「む、虫刺されとかやない? ほら、最近蚊多いし」 「まあ、夏だもんね」 「そうそう夏ってこれがあるから嫌やねんな~、あはは……」  自分の察しは悪いほうじゃないと思っている。けど、気づかないフリをしないほど気を遣えないわけでもない。そういうことで冷やかすのは好きじゃないし。  とは言っても、“みんなの弟”の鶫に彼女ができたとはびっくりだ。どうやら積極的な子らしい。押されると弱い鶫のことだから、リードされてるほうなんじゃないだろうか。それにしても感慨深い。雛鳥の巣立ちを見た気分だ。 「つ、つーかさ、瞬遅ない? 何しよるんやろ?」  鶫が早口に言った。 「言ってなかったっけ? なんか食材取りに1回家帰るって」 「記憶ねぇ~」  何を取りに行っているのか具体的には聞かなかったが、瞬はいつものクールさを保ちながらもいつになく楽しそうな表情をしていた。珍しい食材でも手に入ったのだろうか。鈴先生の家で瞬の料理を食べるようになってから、あいつが意外と料理オタクであることが分かった。何をするにも職人気質で中途半端を許さない瞬だが、話しかけても気づかないほど料理に熱中するとは思っていなかった。  鶫が暑さに文句を言っているうちに、鈴先生の家に着いた。僕たちは肌に吸い付いたワイシャツをパタパタと剥がしながら、すっかり開け慣れた玄関の引き戸を滑らせる。音を立てて扉が退くと、古い家の匂いがする。「おばあちゃんの家の匂い」とはこれのことかと、鈴先生の家に来るようになってから知った。最も、僕のばあちゃんの家は築20年ほどの洋風なものだけど。 「鈴せんせー、こんにちはー」 「鈴ちゃーん、来たでー」  僕と鶫が声をかけるが、家の奥からは沈黙が返ってくるばかりだ。僕らは顔を見合わせ、運動靴を脱いで家に上がり込んだ。 「やっぱり」  勝手に立ち入った鈴先生の部屋には、もう何度目かの光景があった。  締め切りの後、鈴先生は必ずと言っていいほど行き倒れる。出会った日も締め切り明けで、久々にカツ丼が食べたいと思ってコンビニに行く途中だったそうだ。数日飲み食いを忘れていたので力尽きてしまったらしい。 「鈴先生、起きてください。そんなところで寝たら身体凝りますよ」  軽く揺さぶると、低い唸り声がした。顔にかかった前髪を払い、目をこすっている。額にはじんわりと汗をかいていた。  鶫が先生の目の前にしゃがみ込み、鈴先生の身体ををさっきより激しく揺すった。 「鈴ちゃん、おーきーてー。今日は瞬がなんかええもん作ってくれるらしいでー」  やっと意識がはっきりしてきたのか、鈴先生は「たべる……」とほとんど唸るように言った。それに続いて、彼の腹の虫が鳴いた。今回は何日食べていなかったのだろう。僕たちが来るようになってから少しは脂肪や筋肉が増えたようだが、まだまだ細い。代謝が悪いせいか、彼はいい年だというのにあご髭の一本も生えていない。これだけ身だしなみに無頓着なら、仙人みたいになっていてもおかしくないのに。そんな姿の鈴先生を想像して、僕は密かに笑ってしまった。  魂が抜けたような鈴先生が、僕のほうにだらんと腕を伸ばした。 「はいはい」  これも締め切り後の恒例行事だ。こうなったら自力では動かないので、僕は仕方なく細くて白い腕を後ろから肩に乗せ、彼を背負う。持ち上げている太ももが汗ばんでいた。その感触に少しの罪悪感を抱きながら、僕は僕の荷物を持ってくれいている鶫とともに、いつも使わせてもらっている部屋に向かった。   「問題。この時期に食べるものといえば」  今日の瞬はいやに機嫌がいい。不気味なくらい。普段なら絶対、こんなにもったいぶることはしないのに。  一度家に帰った瞬が抱えてきたのは、発泡スチロールの箱だった。 「はいはいはいはい! アイス!」 「それはどこから来た自信?」 「そうめんとかじゃねぇの」 「そうめんもいいですけど、それは別の機会に」 「かき氷?」 「残念不正解。3人とも間違えたのでこれは俺一人で食べます」 「うそやろ!?」 「うん、嘘」  しれっと言い放った瞬に鶫がのたうちまわる。機嫌がいい時、瞬はいつも鶫をからかう。  「まぁそれは冗談として」と瞬が机に箱を置いた。見たところ、なかなか質量のあるものらしい。 「うちが仕入れてる魚屋さんのご主人が、お中元代わりにくれたんだ。これで夏を乗り切ってくれよって」  瞬が箱の蓋を開ける。発泡スチロールが擦れる音に小さく鳥肌が立ったが、食材に気を取られてそれで騒ぎ立てるどころではなかった。 「土用丑の日ってことで」  敷き詰められた氷の上には、黒光りするうなぎが2匹、寝そべっていた。  思わぬ高級品の来訪に僕と鶫は思わず感嘆の声を漏らした。まるで川から直接持ってきたみたいだ。  ふと、腕に生温かさを感じて振り返った。  鈴先生が僕を盾にして隠れていた。 「どうしたんですか?」  額を僕の背中にくっつけ、顔を伏せたまま先生は呟いた。 「グロい……」  数十分もすれば、丼に載ったうなぎたちが運ばれてきた。 「自然の恵みだなぁ」  さっきの顔面蒼白はどこへやら、鈴先生は目を輝かせて湯気と香りを立てるうなぎを見つめる。 「どうぞ、召し上がれ」  瞬の言葉に、僕たちは手を合わせた。隣に座る鈴先生のきれいにそろえられた指は、ペンだこで膨れている。細いけれど力強い節に、この人は僕より何年も長く生きているんだと実感する。 「いただきます」  僕は唾を飲み込み、ふわふわとしたうなぎの身を大きく一口、頬張った。    蝉の声は幾分か控え目になっていた。  うなぎ丼を完食した僕たちは、今日もらってきた1学期の成績表を鈴先生に見せた。すると先生は、 「圭介はまずまずだな。要領さえ掴めたらもっと上位狙えそうだな。苦手っつってた数学もよくできてるじゃねぇか。瞬はさすが、期末の結果からしても予想通りだ。学校で習うより難しいことも教えてやるよ。そしたらもっと伸びる。鶫は……お前も、期末の結果通りだな。よく夏休み迎えられたよな……。こりゃあ宿題なんか速攻で終わらせて俺とみっちり夏期講習だな」  と言って、鶫を泣かせた。まぁ、100%鶫の自業自得だけど。 「食い過ぎて頭まわらん~」  鶫が大の字になって畳に倒れ込んだ。 「さっきから3問しか進んでないじゃん」 「秀才くんとは脳みその出来が違うんです~」  暑さにやられたのか、鶫は幼児退行している。 「なぁ瞬、おやつ」 「子どもか」 「さ、ん、じ! おやつの時間!」  子どもだ。心の中でそう呟きつつ、僕は問題を解く。 「いい時間だし、休憩するか」  瞬が立ち上がり、開けっ放しのふすまから出て行く。  ふと、瞬が思い出したように立ち止まった。 「圭介、先生呼んできて」 「僕?」 「俺は『食事係』。お前は『お世話係』だろ」 「オレはオレは?」 「鶫は……『盛り上げ係』」 「うぇーい」  仕方ない。いつからそんな称号を得たのかは全く分からないが、そういうことなら呼んでこよう。  鈴先生はご飯の後、無言で部屋を出て行った。そういう時、彼は決まって縁側で煙草をふかしている。逆に言えば、そこでしか吸わない。だからこの家の縁側には、いつも吸殻でいっぱいになった灰皿が置いてある。  思っていた通り、縁側で煙を吐く彼の姿が見えた。遠くを眺める目はうつろに、青い空に定規で引いたみたいな飛行機雲を映していた。煙草をはさむ指はだらりと外に垂れ下がっていて、黒くなった煙草の先端から灰がぽろぽろと落ちて行く。  「鈴先生」  僕の声に先生は気の抜けた返事をした。締め切り後で疲れているのかもしれない。僕たちが久しぶりの訪問にはしゃいでしまったので、それで余計に気疲れさせてしまったのかも。少し反省しなくては。 「今からおやつの時間にしますけど、すぐ来れますか」  さっきと同じトーンの返事が返ってくる。  そっとしておいたほうがいいかもしれない。  後でまた来ます、と言って部屋に戻ろうとした僕の背中に声が投げられた。 「昔のこと、思い出してた」  振り返ると、鈴先生は同じ体勢のまま言った。 「この家、俺を育てた婆さんのものなんだ」  僕の視線は彼から外すことができず、足もそこに固定されたかのように動かない。 「俺を施設から引き取った婆さんが、俺をこの家に連れてきて初めて食べさせた飯がうなぎ丼だった。あれもちょうどこんな……馬鹿みたいに暑い日だったな」  灰を落とすだけになった煙草が山になった他の吸殻に押し付けられ、それもまた殻のひとつになった。  その山を見つめ、鈴先生は微かに笑った。 「あの婆さんも、ここで吸っては寿命縮めてたよ」  遥か上空で飛行機が風を切る音が変に耳についた。彼は長い前髪の向こうで、僕には分からない感情をたたえている。喉が乾いて、上手く声が出せなかった。 「さ、行くか」  鈴先生は立ち上がり、さっさと僕の目の前を通り過ぎて行った。僕は慌ててその後ろをついて行く。  部屋の前で鈴先生が急に歩みを止めた。 「どうし……」  たんですか。  先生が鋭い目つきで制したので、僕の言葉は強制的に飲み込まれた。  鈴先生は足音を立てないようにその部屋のふすまに近づき、細く隙間を開けて中をうかがっている。  僕が先生を呼びに行く時は開けっぱなしにしていたのに、どうして閉まっているんだろう。窓の大きくないこの部屋は、ふすまを閉めてしまうと空気がこもってしまうのに。それに鈴先生のこの挙動は一体────。  その時、細い隙間の向こうから声が聞こえてきた。言わずもがな、瞬と鶫の声だ。あいつらしかいないなら、先生はこそこそする必要がないはずなのに。  気になって僕も鈴先生がのぞいている上から同じように片目をつぶってのぞく。本当はこんなこと、よくないと分かっている。それでも好奇心は抑えられない。  見えたのは、2人の背中だった。  並んで畳にあぐらをかいて座っている。しかしその距離は普段とは違っていた。 「ちょ、まって」 「なんで?」 「ほら、もうすぐ圭介ら帰ってきてまうし」 「来たら分かる」 「そうやなくて! お前跡つけるやん! 今日そのせいで圭介になんか疑われたし、しかもあいつ絶対つけたの彼女やと思てるし」 「虫刺されってことにすればいいだろ」 「あほ、男子高校生がそんなんに騙されるか! ……まぁ圭介ならありえるかもやけど」 「大丈夫大丈夫。それとも、俺とこういうことするの嫌?」 「嫌やないけど……あ、あほ、待って、んぅ」  何も大丈夫じゃなかった。僕の頭はまとわりつく暑さと蝉の声にやられてしまっていた。何も考えられない。今すぐ叫び出したい一方、このまま空気になってしまいたくもある。  ふと、僕の下で部屋の様子を見ていた鈴先生と目が合った。僕を見上げる彼の前髪は横に流れて、僕は今日のうちで初めて彼の顔をはっきりと見た。  目が離せなかった。何を言えばいいのか、どうすればいいのか分からず、ただ戸惑いを浮かべるだけだった。  ふ、と鈴先生が口元を緩ませた。目尻に笑い皺ができた。  綺麗だと思った──。  首根っこが掴まれ、引き寄せられ、数秒遅れで柔らかい感触を覚えた。離れる熱、その際に上唇をなぞられた。  意識が急速に覚醒した。糸が切れたように自分の身体から力が抜け、よろめき、そのまま尻もちをついた。腰の痛みに現実を実感する。 「はいお前ら、そこまでー」  鈴先生は何食わぬ顔で思い切りふすまを開け、部屋に入って行った。 「鈴ちゃん!?」 「え、うわ」  腰に手を当て、先生が呆れた風にため息をついた。 「人の家で昼間っから盛られちゃあ、家主としては何も言わねぇわけにいかんのだわ。まぁわりと最初から勘づいてはいたけど、瞬、お前がそんなに積極的なんてなぁ。鶫も流されてっし。オトモダチの圭介くんは腰抜かしちまってるぜ。ありゃあ童貞だな」  この人、なんでもない顔して……!  酷い言われようだ。先生は心底楽しそうに、意地悪く笑っている。  1人楽しそうな鈴先生に、青二才の僕ら3人はなす術なく茫然とするばかりだった。    午後5時過ぎ、家に着いてリビングのソファに座ると、数時間前の光景がありありと浮かんできた。  自分ではどうしようもない悶々とした思いが頭の中をぐるぐる回る。 「んっとにも~何なんだよ~~聞いてねえよ~~~」 「何を?」  背後からの声に、僕は動きを止めた。振り向くと、妹の由香が通学鞄から弁当箱を出しているところだった。 「ただいま。兄さんは鈴先生のとこだったの?」 「おかえり……そうそう。由香は午後も授業あったんだ」 「補習。その後ちーかまとしゃべってた」  『ちーかま』とは由香の友達のあだ名だ。こいつは友達認定した人をおかしなあだ名で呼ぶ癖がある。  由香は鞄を床に置き、弁当箱を洗い始めた。 「んで、何を聞いてなかったの?」 「いやそれは……」  濁そうとして思い出した。こいつはどういう繋がりか、鶫と仲がいい。この前も一緒に遊びに行ったと言っていた。 「お前、鶫のことで何か知ってる?」  返答はない。水音がさらさらと鳴るだけだ。 「由香?」  妹は黙って洗い物を続ける。  怒らせた?  最後の洗い物を拭き終わり、布巾を掛けた由香がこちらへやってきた。これもまた無言で、僕の隣へ座る。なんとなく姿勢を正した。 「つぐみんが、どうしたの」  すごい気迫で由香が聞いた。怖い。 「いや、どうしたっていうか」 「それって瞬くんも関係あるの」 「なんでそれを……あ」  口を押さえたがもう遅い。由香は身体をソファに放り、腹の底からため息をついた。 「どーーーせ、瞬くんがつぐみんに何かしてるところを見ちゃったとかでしょ。まだ言う気ないって言ってたもん……」 「ちょちょちょ、待って、なんで由香がそんなこと知ってんの」  由香は「うわーほんと最低だなあいつ」「盲目ガチ恋勢怖すぎ」「流されるつぐみんもつぐみんだよ」などと一人でぶつぶつ言い、そして身体を起こした。 「あの人らくっつけたの、私」  は? 「ほら、私が小6の時、塾で瞬くんと知り合ったって言ったじゃん? その時からあの人もう初恋けっこう拗らせてて、よく相談に乗ってたんだよね。そしたら去年の秋? くらいに付き合うことになって。そうそう、文化祭辺りだ。でも兄さんと3人で友達として仲良くしたいし、気遣ってほしくないからーってちょっとの間は言わないようにしてたみたい……ちょっと、聞いてんの?」  僕はさっきの由香に倣って身体をソファに沈めた。クッションが優しく包んでくれる。このまま沈みきってしまいたい。  由香は小さくため息をついて立ち上がった。 「とにかく、瞬くんもつぐみんも兄さんとはいつも通り仲良くしたいって思ってるから。気にしすぎて余計な世話したりしないでよ」  そう言うと、妹は兄をじろりと睨んだ。だから怖いっ て。僕は何もしていないのに。  リビングを出て行く由香が立ち止まり、また怖い目で僕を見る。 「くれぐれも、鈴先生に迷惑を掛けないように」  それだけ言ってさっさと自室に向かっていった。  恐ろしい奴だ。妹としても、鈴先生のファンとしても。  僕だって迷惑を掛けたくない。大人にからかわれているだけだと分かっている。けれどあんなことされたら、誰だって少しは意識してしまうものだろう。  僕はあの時の感触を思い出し、また1人暴れ回った。

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