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第3話 葉月中旬
僕の情緒の不安定さを気にも留めず、その後先生は何事もなかったかのように接してきた。
僕や瞬が作ったご飯を食べては美味いと言い、たこの膨れた指でペンを持っては僕らに勉強を教え、たまに煙草を吸っては身体に悪いなと笑った。
鈴先生も『若草鈴』としての休みをもらったらしく、暑さに身体を溶かしながらも暇を謳歌しているようだった。気が抜けているのか、勉強を教えている途中で眠ることも増えた。それが原因かは分からないが、目の下にくっきり刻まれていた隈は少し薄くなり、頬にも血色が現れてきた。しかし生活のだらしなさは増す一方で、楽だからと甚平の前をはだけさせて着ている日もあった。
僕はというと、ふとした瞬間に何週間も前のことを思い出しては鈴先生から目を逸らし続けていた。
瞬と鶫は──主に瞬が──僕や鈴先生の前ではくっつくのを自重しなくなった。特に瞬は鶫にベタ惚れのようで、ことあるごとに「鶫は俺のだから」と目を光らせている。クールな印象のあいつが、女に死ぬほどモテるあいつがそこまで言うなんて、鶫は一体どんな魔法を使ったのだろう。
聞けていないことは多いが、そう詮索することでもない。僕らには言えないこともあるだろうし。
『家が繁忙期だから今週はパス』
『親戚の家行くからオレも行けんわ~』
「オーケー。じゃあ、僕も今週はや、す、む、……と」
もうお盆だ。
道端に落ちている鈴先生を見つけたのがついこの間のことのように感じるのに、もう半年以上が過ぎていた。
今日は8月13日。
昼間は猛暑だが、夕方は少しずつ涼しさを帯びてきた気がする。
鈴先生への連絡は彼の自宅の電話にする。普段家族や友達に電話する時はアプリの無料通話で済ませるので、彼に電話するのは変に緊張する。単純に、先生の声が僕の耳のすぐそばですることに気恥ずかしさを覚えているだけかもしれないけど。
冷房の効いた自室でスマホの電話帳に登録された『鈴先生』の項目を開く。今週は行かないからちゃんとご飯食べてくださいね。頭の中で何度か練習する。
でも、と発信ボタンを押そうとした指が止まる。
彼は一人で大丈夫だろうか。暑さに倒れたりしないだろうか。
────僕がいなくても大丈夫だろうか。
突如鳴ったけたたましい音に身体をこわばらせる。
着信だった。発信者は『鈴先生』。
「もしもし」
すぐに応答したのに、向こうからは無音しか返ってこない。
「鈴先生?」
「あ──圭介?」
耳元で聞こえるその声はどこか困っているようだった。何か物を動かしたのか、小さくノイズが入った。
「どうしたんですか、急に」
「ああ、いや、大した用じゃない。今週は来るかどうか、聞きたくて。ほら、お盆だし」
なんだろう、奥歯にものが挟まったような物言いだ。いつもの先生ならもっとストレートに聞いてくるはずなのに。
「瞬は家が繁忙期で、鶫は親戚の家に行くので今週いっぱい行けないそうです。僕も2人が行かないなら家にいようかなーと思ってたんですけど……」
「分かった。じゃあまた来週な」
鈴先生がそそくさと通話を切ろうとしたので、僕は慌てて止めた。
「あ、あの」
「?」
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。ただ、このまま切ってしまうのはもったいない気がした。
「……ちゃんと、ご飯食べてくださいね」
しまった。どこから目線だよ。完全に選択肢を間違えた。
しかし、向こうの電話口ではノイズに紛れて微かな笑い声がした。
「ああ、分かってる」
そして、ノイズは切れてしまった。
壁掛け時計の秒針の正確な音が耳につく。僕はベッドに身を預け、目を閉じた。
僕だけでも行きます。
それだけでよかったのに、言えなかった。先生を訪ねる時は必ず瞬か鶫と一緒だったから。でも、理由はそれだけではなかった。
声にならない叫びが漏れる。ベッドの上で身体を丸め、髪の毛をぐしゃぐしゃと乱す。なぜか上手くいかない。自分がどうしたいのかも分からなくなっていた。
その時、まだ脳裏に残っていた音が耳に飛び込んできた。
電光石火のごとく画面を確認すると、即座に通話ボタンを押す。
「……はい」
声がうわずらないように慎重になる。頭は変にクリアだった。
「何度もごめんな。その……」
電波を通していつもより掠れたような声の続きを、僕は息を飲んで待った。
「やっぱり、来てくんねぇか」
おずおずと鈴先生は言った。今までに聞いたことがない、寂しさを含んだ声──のように感じた。
時計を見る。今は午後2時53分。
「────すぐ行きます」
走ったら、おやつの時間には間に合うだろうか。
身体中を駆け回る熱に身を任せ、僕は家を飛び出した。
玄関口で出迎えてくれた鈴先生は、僕を見てギョッとした。
「圭介、お前……」
「途中で、降られちゃいました」
息切れしながらも笑って答える。先生の家に来る途中で夕立に遭った僕は、下着までびしょぬれになっていた。
「風邪引いちまう。俺の服貸すから着替えろ」
先生に連れられ、言われるままに服を替える。着てきたものは乾燥機で回させてもらった。
普段とはまるで真逆だ。
「俺が突然呼び出したからこんなになっちまって……」
鈴先生はまぶたを伏せて、感情の読めない表情をして言った。
「ごめんな」
今日の鈴先生は変に静かだ。今まで散々、僕を振り回していたのに。貸してもらったタオルで髪を拭きながら僕は曖昧な返事をした。
そして沈黙。
いまだに降り続ける雨が屋根を打つ。その音で耳がふさがれている。
「僕、何か作ってきますね」
「ああ、うん」
立ち上がって部屋を出る。彼を1人残すことに少し胸が痛んだ。
ここの台所には食材があふれるようになった。初めの頃は食べた後のごみがあふれていたのに。
僕はシンクの上の戸棚から小麦粉を取り出し、卵や砂糖、牛乳なんかを混ぜていく。鈴先生は甘さ控えめが好みだ。材料のバランスに気をつけながらそれらを混ぜ合わせ、フライパンに流し込み、きつね色になるのを待った。
それにしても、鈴先生はどうして電話をかけ直してくれたのだろう。電話越しの声は心なしか寂しそうに聞こえた。実際に会ってみるとそんな様子はうかがえなかったが、やはりどこかしゅんとしていた。
『やっぱり、来てくんねぇか』
ノイズの混じった音声がまた脳裏に浮かぶ。そのまま、ぼんやりと薄いカーテンのかかった小窓を眺めていた。
夕立はまだ去っていない。
「…………あっ」
僕はこんがりとした匂いに慌てて火を止めたのだった。
いつもの和室を照らしているのは白熱灯だった。寒々とした光の下の鈴先生を見て、そのことを再認識した。白い肌がさらに白く見える。
おもちゃみたいな扇風機が音を立てて回っている。先生はその前で髪をなびかせていたが、僕がおぼんを持って戻ってきたのを見て座卓の前に座り直した。
「そんなに甘くしてないんで、お好みでつけてください」
言いながら蜂蜜やジャムの瓶を並べていく。あっという間に僕たちの目の前がにぎやかになった。
今日のおやつは甘さ控えめのホットケーキだ。
「美味そう」
鈴先生が小さく口角を上げた。そこに食前のがめつさはない。違う人を見ている気分だった。
僕はいくつか言葉を飲み込み、手を合わせた。向かいの彼の手もきっちりと重なっている。はじめの日と同じ手だった。
「いただきます」
きつね色の生地に落とした蜂蜜が、ふわりと香りを部屋いっぱいに広げた。思わず息をつく。この瞬間がたまらない。
一口、二口を頬張りながらちらりと机の向こう側に目をやった。美味しそうに食べる人だ。気づけば自分の頬が緩んでいた。
「何アホ面してんだよ」
「いえ、別に」
「そうかい」
先生はおかしそうに笑って大きく切ったホットケーキにかぶりついた。
外で雨音が大きくなった。
長い夕立ですね──なんて話しかけようかと思ったが、それから話が広がりそうになかったのでやめた。他にも、その扇風機は何年ものですか、ホットケーキはジャムをつけても美味しいですよ、など色々考えたが、考えるほどに延長される沈黙に気まずさが募り、最後には脳内の自分も黙ってしまった。
幸せだった蜂蜜がすっかり生地に染み込んでしまい、皿にベタついている。残るは一口。
これをたいらげたら、鈴先生になんて言おう。
僕は両手のナイフとフォークを皿の縁に置いた。
その音に鈴先生が顔を上げる。彼の皿にはあと二、三口ほど、何もついていないまっさらなホットケーキが残っている。
「食べねぇの?」
答えようとした喉がギュッと締まって声を閉じ込めた。
言いたいことが言えない。僕は目を逸らすばかりだった。
ふと、畳が擦れる音がした。気づけば、鈴先生が僕の隣に寄ってきていた。
細い指が僕の髪を梳き、首の後ろに流れた。手のひらの、しっとりとした汗の感触があった。
「────」
二度目の柔らかい感触。雨音がやけにはっきり聞こえた。
その時、ドォンと遠くで重い響きがあった。
続いて頭上の白熱灯が灯を落とした。部屋が湿っぽい灰色に染まる。僕の呼吸は無意識のうちに浅くなっていた。
「圭介」
名前を呼ばれて顔を上げると、先生の瞳がすぐそばにあった。今までにないほど真っ直ぐに僕を捕らえたそれに、ゆっくりと唾を飲み込んだ。
期待するような先生の眼差しに急かされ、僕はもう一度熱に触れようとする。
もう一度だけ────。
地面が裂けるような激しい音が雨の中に割って入った。
「…………近かったな」
熱は、離れてしまった。
鈴先生は窓の外を遠い目で見つめていた。さっきまでの僕らが、なんでもなかったかのように。
そんな眼差しが、僕をいたたまれない気分にさせる。まだ自分が子どもだと突きつけられる。気づけば、思いがけない言葉が口を突いていた。
「こういうの、やめにしませんか」
鈴先生が僕に目をやった。その表情からは彼が何を思っているのか読み取れなかった。
「こういうのって?」
「はぐらかさないでください。先生は僕が高校生のガキだと思ってからかってるんでしょ」
「したいからしてるだけだろ」
先生の声色は怒っているようにも、面白がっているようにも聞こえた。
「本気じゃないくせに」
顔が熱い。先生をまともに見ることができない。
だってこれじゃあまるで、僕が────。
ふ、と小さく笑う息遣いがした。
「本気って言ったら?」
「え」
「はは、アホ面」
しまった、と思った。
「それは、先生が変なこと言うから」
慌てて弁解する僕に、彼はおかしそうに肩を揺らした。
やっぱり、この人には勝てない。僕は振り回されっぱなしだ。
「災難だな。こんな悪い大人に捕まっちまって」
「ほんと、そうですよ……」
でも、と僕は先生に一膝分だけ近寄り、彼の細い手首を掴んだ。
僕だって、言われっぱなしは癪に障るのだ。
「僕のほうが本気ですから」
雨音が少し弱まっていた。雷雲も遠くへ行ってしまったようだ。
鈴先生は固まっている。
沈黙に恥ずかしさを覚え始めた頃、先生がぽつりと呟いた。
「どうしよう……思った以上に、ときめいた」
やべ、一句詠んじゃった、と先生は場違いな心配をした。何もやばくない。やばいのはそんな鈴先生を目の前にした僕の心情だ。なぜか、唇を重ねた時よりも鼓動が駆け足になっている。
鈴先生はにんまりと意地悪なく笑みを浮かべた。
「で、ここからはお任せしたらいい感じ? 俺から手ェ出したら犯罪だしなぁ」
こんな時でもどこまで本気か分からない人だ。僕はとっくにキャパオーバーだというのに。
「未成年には刺激が強すぎます……」
「じゃあ成人までおあずけかねぇ」
「そっ! れは……、無理かもなので……頑張り、ます」
しどろもどろな僕に、彼が心底おかしそうに笑う。さっきの形勢逆転が嘘みたいだ。
「まぁ頑張れ、少年」
そう言って鈴先生は、僕の頭をくしゃくしゃとなでた。
蝉の声がする。いつの間にか、長い夕立は去っていた。
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