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圭鈴特別編2 師走下旬──やましい暖冬
「何しても忘れろよ」
鈴先生はそう言って生クリームを舐めた。──僕の指にべっとりとついた、まさにティッシュで拭き取られそうだった生クリームを、だ。
どうしてそんなことになったのか、考えてみれば原因はいくつかあった。まずは、鶫が鈴先生の家で忘年会をしようと言い出したこと。次に、締め切り明けに酒が飲めると大喜びした先生がいつもより速いペースでアルコールを流し込んだこと。そして、僕と先生の間に身体の関係ができていたこと──。
ふわふわとしていた脳みそが指先から電流を流されたように痺れて、僕は思わず手を引っ込めそうになった。そうしなかったのは、これくらいのことで今さら揺さぶられていると恋人に知られたくなかったからだ。こう思っていることもバレたくない。格好つけるのが遅すぎるとは分かっているが、いつまでも子ども扱いをされるのはごめんだ。
瞬と鶫は一足先に食べ終わり、台所で後片付けをしている。きっとそれを口実にふたりきりになりたかったんだろうけど、僕にとっても嬉しい状況だった。ただ、そのためにデザートのドーナツの余りを押し付けられたのは不本意だった。とっくに胃袋は八分目を越えていたのに、悪ノリした先生が食卓に置いてあった生クリームをたんまりかけた。「若いから余裕だろ」と笑う先生の意地悪い表情に負けて、もそもそ食べ進めていたのだが。
「もったいないなそれ」
生クリームでベタベタになった僕の手を隣でじっと見つめながらレモンサワーの缶を傾けていた鈴先生が呟いた瞬間、何らかのスイッチが音を立てた。
「何しても忘れろよ──今日は忘年会だからな」
そのまま、僕の右手人差し指は彼の温もった口内に収められた。反対側の手で、行き場を無くしたティッシュが暖房の風に吹かれて間抜けに揺れる。体温が離れ、彼の唇が薄い舌に拭われる。
「またそういうずるいこと言う」
「好きだろ?」
「……まぁ、はい」
悔しいけど、こういうときは大人しく認めるのが一番だ。僕の返事に拍子抜けしたようにも満足げにも見える表情をした先生は、軽く鼻を鳴らしてまたとろんとした眼差しを生クリームの残った僕の手に向ける。そこまで甘いもの好きだったっけ?
いや。もしかして、もしかしたら──。
僕は先生に向き直って、動揺など一切していないように振る舞う。
「先生は好きですか? ────僕の指舐めるの」
僕の問いに視線を動かさず、鈴先生は気の抜けた相槌だけを返す。僕は無意識に反撃を始めようとしていた。
軽く右手を差し出す。先生は無反応で、一見ぼーっとしているように見える。しかし彼の長い髪のかかった耳は、僕が満足しすぎるほどの表情に変わっていった。彼はそれを自覚しているのかいないのか、
「ふぅん」
と、何でもないような声音で言った。それから愉快そうに目を細めて、ずず、と僕の方に身体を寄せた。
「まぁ、はい……って言ったらお前、嬉しいだろ?」
あ、やばいかも。
直感が警鐘を鳴らしたときには、僕の右手人差し指はさっきのぬるい温度に迎え入れられていた。
肉付きの薄い舌が指先の指紋をゆっくりとなぞる。次第に付け根の方へと移動して、皮が薄いところを執拗に撫ぜてゆく。くすぐったいような心地良いような感触に思わず関節をひくつかせると、滑らかに動いていた口内が指に吸い付いて、ぢゅ、ぢゅ、と水音がした。
「はは、おいし」
僕の手の上で余りに余った生クリームはすっかりきれいに舐めとられ、先生は顔にかかった長い髪を払った。その仕草がやけに官能的で、僕はもっとあられもない先生を目前にしたことがあるはずなのに、見てはいけないものを見てしまったような気がした。きっと僕もいつもより酔いが回っている。もっと、もっとと頭の中で響く声が続きをせがんでいる。それは絶対に態度には出さないけど、鈴先生には全部知られていたいなんて思ってしまう。知っていて、知らないふりをしていてほしいと望んでしまう。
僕は閉じかけた先生の口に二本指を押し込んだ。咄嗟に噛みそうになったのを耐えた先生の表情が歪んで、喉を鳴らしたような声が漏れた。唇の端に唾液がにじむ。僕はそれに構わず先生の口内を弄 っていく。口蓋の凹凸、歯列の違和感、舌の弾力。こうして手で触れるのは初めてだった。ひとつひとつが新しい情報で、僕は夢中になってその感触や温度を確かめた。
少しの間されるがままだった鈴先生が、不意に僕の指を甘く噛んだ。
「いふはへははっへんふぁ(いつまで触ってんだ)」
発音するために強張った舌の感触に、言葉を返すことを忘れてしまった。そこに隙を見られた。
先生は「あ」と薄い唇を開いて、一気に根元まで咥え込んだ。
柔らかい頬の肉が硬くなって、緩んで。吸い付いて、離れる。その度に控えめな水音が鳴る。たまに歯が当たって反射的に身体を強張らせれば、長い前髪の隙間から愉快そうな視線が見上げてくる。そしてさらに強く吸われ、根元から先へと舌を這わされる。僕たちの理性が溶けていく音がする。
いや、音だけじゃない。視界の刺激が強すぎる。
はじめは挑発すらしていた先生もだんだんと余裕をなくしているのか、時折表情を歪ませる。小さく声も漏れる。
「ふ……んん…………ん、ぅ」
先生が動くたび、彼の髪が僕の手の甲をくすぐる。人差し指と中指の間にぬる、とした感触が割って入ってきて、一つの意思を持った生き物のようにうねる。音を立てて吸い付いたかと思えば、唇で優しく食んでくる。
都合のいい幻覚かもしれないけど僕の手を懸命に口で愛撫する先生の顔はどこか恍惚としていて、なんというか、すごく──。
「んぅ……っふ、う────んんっ、あ、あぇ……⁉︎」
咥えられている指をいたずらに曲げると、鈴先生が慌てて僕の右手首を掴んだ。その手のひらはしっとりとしていた。咄嗟の先生は力加減を忘れていたが痛くはなかったから、僕はそっと空いている方の手を添えて解き、彼の強張る指を絡め取った。
「はぁ、っあ……うあ、ぇ、えぅ」
舌の裏に指を入れると、先生は少し苦しそうに息をついた。柔らかいところを軽く押しながら刺激すると華奢な肩が耐えるように震える。一度抜いた拍子に唾液が唇を濡らし、拭おうとした先生を僕はやんわりと阻んだ。
「おい、いい加減に……ん、んぁ、あ……えぁっ」
頬の内側や歯茎や、舌先や口蓋を念入りになぞる。その度に漏れるあられもない声、無意識に揺すれる脚、荒くなっていく呼吸。僕は身体中に走る血管の中でゆっくりと血液が沸かされていくのを感じていた。
「先生、鈴先生。──もっと奥、いけますか?」
「は……? ……ぁ、ぇう、っ、ん……はぁっ、ぇ、うぅ──」
口内に人差し指だけ残し、他の指を幅の小さな顎に添える。図らずも逃げられないように捕まえているような形になる。ぐっと押して舌の根元に近いところに触れる。そんな僕を避 けようと彼は身をよじる。しかし僕が左奥の方に進んだ瞬間、彼の身体が跳ねた。
「っ! あぁ──へ、えぅ、あっあっ、はぁっ、ぇ」
「ここですか?」
「ぅあっ!」
口の端からだらしなく伝う唾液を気にもしないで、鈴先生は僕の指を追うように喘ぐ。ろくに発音もできないから、喉の奥を絞るような音が鳴る。細められ隈がくっきりとした目に涙が浮かんでいる。僕はすっかりのぼせてしまって、さらに激しく動かす。触れているのは身体の末端なのに、まるで芯からだめにされているような感覚に陥っていく。このまま溶かされて、飲み込まれてしまいたい。
「ぁうっあっ……はぁ、ん、ぅ────かはっ」
突然、鈴先生が顔をうつむかせた。その拍子に僕は吐き出される。口を押さえて咳き込む先生に急速に頭が冷える。
「先生……! すみません、僕……」
咄嗟に背中をさすろうとした手がさっきまで先生に飲まれていたことを思い出し、慌てて引っ込める。あたふたとする僕のそばで、咳は気づけばしゃっくりのような笑い声に変わっていた。
「お、まえ、マジで……くくっ、はははっ」
「だ、大丈夫ですか」
「あーあ、笑った。食後のおっさんいじめやがって……吐いたらどうすんだよ」
「あんな顔して十五も年下の男の指舐めるからですよ」
「あんな顔ってどんな顔だよ」
「そりゃあ──」
とろんとした眼差しとか、煽るような微笑みとか、ちょっと苦しそうに歪んだ眉とか。そういう、僕にしか見せることを許していないような。
「すごく美味しいもの食べてるみたいな顔……です」
沈黙。
隣ではさっきまでの威勢が嘘のように、鈴先生が額に手を当てうつむいている。表情を覗き込もうとすると頑なに逸らされた。
「え、あの、先生? 鈴先生?」
「ほんと無理、お前、ほんとそういうとこ」
何がどうしたのか全く分からずうろたえる僕を差し置いて、ひとつ大きなため息をついた。それから置きっぱなしだったレモンサワーを飲み干し、ほとんど体当たりのように背中からもたれてきた。胸板に直撃され、うめき声が漏れた。先生がさらに身体を押してきたので、僕は倒れないように腹筋に力を込める。まるで猫に横暴なじゃれ方をされているような気分だ。先生は下を向いたまま、
「忘れろよ、今日のこと」
と呟いた。僕はさらさら忘れる気などなかったのでイエスともノーとも取れないような曖昧な相槌を返すと、「忘れる気ないだろ」と図星を指された。「バレましたか」と冗談めかした僕を先生は軽く笑い飛ばして、そしてまたふたりとも黙ってしまった。台所の方からはしゃぐ鶫と瞬の声がして、なんだかむず痒い。
「今日のご飯、美味しかったですね」
「……だな」
反応が薄い。こういうとき、何を話せばいいのか分からない。できるだけ明るい話題で、かつふたりとも共感できるようなことと言ったら────。
「来年もいっぱい美味しいもの食べましょうね」
さっきの生返事よりは手応えのある反応が返ってくると思ったのに、先生はとうとう黙ってしまった。どころか彼は背中を丸め、長い髪で顔も隠してしまった。
酔って寝てしまいそうなのだろうか。
「先生、あの。聞こえてます? 寝るなら布団に行かないと冷え……」
「文脈が悪すぎる」
「え」
先生は顔を上げて振り返り、僕を犬みたいにぐしゃぐしゃと撫で回した。
「え、え?」
「ばーか。すけべ」
訳が分からず間抜けな疑問符を飛ばす僕に、先生は怒ったような困ったような諦めたような微笑みを浮かべる。そして乱れ切った僕の髪を軽く直して、ぽんぽんと頭に手を置いた。
「また子ども扱いして」
「はいはい」
「はいはい、じゃなくて……ん」
いつの間にか後ろに回っていた腕に引き寄せられ、柔らかい感触に迎えられる。拗ねかけていたことなんか一瞬で忘れさせられる。鈴先生とのキスが一番好きだ。他の人としたことなんかないけれど。これが僕たちのはじまりだったから。
「満足か?」
「……もうちょっと」
「やっぱり子どもだな」
「子どもとはこんなことしないでしょ」
「はは、そうだな」
瞼を伏せて笑う鈴先生が僕にとってはやっぱり大人で、それが悔しくて僕は白い首筋に唇を落とす。くすぐったがって身をよじるのを追いかけると、彼はカラカラと声を立てた。
そんな僕らの間に、今はお呼びじゃない声が割って入ってきた。
「あァー! 圭介が鈴ちゃん襲っとるー!」
「圭介、鶫の前ではやめてくれないか」
見れば、頬と鼻先を真っ赤に染めた鶫とそれを担ぐ瞬が部屋の入り口に立っていた。
「誤解だって!」
「誤解だって?」
「いや、まぁ、ある意味誤解では……ていうか! そっちこそ、どうしたんだよ」
「この匂い……鶫、もしかして台所の酒飲んだか?」
まだ僕たちを冷やかして笑っている鶫に代わって、瞬がため息とともに首肯した。
「高そうな日本酒をそのまま」
「あーあ。ちゃんと面倒見とけよ彼氏くん」
「すずちゃん早くにげて! けぇすけにたべられる前に!」
「鶫、暴れないで。危ないから」
ジタバタする鶫を座らせようと瞬がかがみかけるが、鶫が瞬の服を引っ掴んで離さなかったのでふたりともバランスを崩して倒れ、その拍子に卓上の空き缶が落ちてそれがまた鶫のツボに入って──つまりは、めちゃくちゃだ。
せっかくいい感じだったのに。
心の中で呟くが、大惨事を引き起こしている鶫(と瞬)を眺めていると出る恨み言も出なくなる。やるせなさに頭を掻くと、食卓の下で袖を引かれた。
「圭介」
掠れ気味な低い声が耳元でささやく。
「来年もいっぱい美味いもん食べような」
袖を引いていた手の指が僕の指にするりと絡みつく。息のかかったところから熱が上がる。
「…………っ」
食べるって、そういう────。
先生は素知らぬ顔で瞬や鶫をからかっている。何年経っても勝てそうにない。あぁ、悔しい。けどめちゃくちゃに好きだ。
そうして食卓の下にやましさを抱えたまま、僕は一口分だけ残ったドーナツを頬張ったのだった。
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