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瞬鶫特別編 文月下旬──冷夏の気配

 俺の恋人は可愛い。  出会った瞬間、電撃のように走った直感はその姿を目で追いかけるうちに確信となり、面と向かって話すうちに常識に、付き合い始めてからは不変の真理になり果ててしまった。  高校生男子にしては小さめな体躯も、太陽に透けて揺れる色素の薄い髪も、笑うとなくなるつり目も、ご機嫌も不機嫌も見え見えな挙動のひとつひとつすら──俺を人生で最初で最後の恋愛に突き落とすには十分すぎる要素だ。誰がなんと言おうと、俺の恋人は世界でいちばん輝いて、しかも幸運なことに(なんて言葉では足りないほど幸せなことに)、俺の恋人であるのだ。“俺の恋人”と紹介しているから当然なんだけど。好きな人が自分のことを好きだなんて、未だに信じられない。ある日突然ボードを持った芸人とカメラマンが恋人といるところに押し入ってきて「ドッキリ大成功〜!」と騒いでも「ああそうですか」とひとり冷静でいられる自信があるくらいには、信じられない。  それくらい俺はたった一人の可愛い人に、泥のような恋に溺れている。 「盲目どころじゃないよ。愚かだよ、愚か」  とある学習塾の休憩所。隣に座った女子中学生が、俺が奢った自販機のコーンスープを飲みながら言い放った。時折、「あつっ」と肩を縮こめている。 「瞬くんがTPO考えずにつぐみんにあんなことやこんなことをしてたところを鈴先生と兄さんにうっかり見られちゃってさぁ大変! 正直見られたことはどうでもよくて、ショック受けてるつぐみんのご機嫌をどうやって取るか考えなきゃ〜! ……ってことでしょ?」 「まだ何も話してないんですけど……」 「ちがった?」 「まごうことなき(しん)です」  俺の返答にその女子中学生──友人の圭介の妹にして俺の唯一の恋愛相談相手、由香は心底馬鹿らしいというふうに顔をしかめた。 「分かりやすいよねほんと。久しぶりに会ったと思ったら神妙な顔して好きなもの奢ってあげるなんて言うから」 「俺たちが見られたって誰に聞いたんだよ」 「その日の兄さんの態度から察した」 「怖……」  出会った頃の由香は小学生にしては変な勘が冴えてドキッとさせられたことも何度かあったが、最近の由香は察することに関して類い稀なる進化をしている気がする。もはや超能力の域だ。それとも、周りにいる俺たちが分かりやすすぎるのか。 「で、結局何を相談したいわけ? ご機嫌取りの方法ならつぐみんに直接聞けば?」 「そんなことしたら嫌われる」 「だるっ!」  由香は少々、いやかなり毒吐きだ。これでも学校では誰にでも好かれる人気者としてやっているそうだから、末恐ろしい。  コーンスープが少し冷めたらしく、由香は飲むペースを上げた。 「俺は誰にばれても、なんて言われても別れるつもりないけど」  あの日の、鈴先生がふすまを開けた後の恋人の顔を思い出して、そこから最悪の想像をしてしまう。 「鶫だけは別。あいつが言って引かなかったら……最後に折れるのは俺だから」 「おれるのは、おれ」 「真面目に聞いて」  こっちは本気で悩んでいるのに由香は全くの他人事の顔をしている。乗りかかった船に期待した俺が甘かったのか。何にせよ誰かに話さずにはいられなかった。俺は生来饒舌なほうではないと自覚しているが、いつだって恋愛相談をするときにはつい口が動いてしまう。 「別れて、なかったことにしたいとか言われるかも。今回の件は俺のせいだから反論する権利なんてないし。鶫は何も気にしてないみたいな顔して繊細なところがあるから。俺が機嫌取れば取るほど余計に悪い方向に行ったら」 「ちょっと瞬くん、ストップ」  残り少なくなった缶を振りながら由香が言った。 「さっきから、たらとか、かもとかばっかり」 「鱈、鴨……?」 「『たら』と『かも』。if、もしもってことだよ。瞬くん頭いいくせに、つぐみんが絡むとほんとネジ飛ぶよね」  由香は深くため息をついた。 「確かに今回に関しては完全に瞬くんが悪い」  一刺し。 「つぐみんが誰かにばれたくないって知ってて、それを同意して付き合ってるのに」  二刺し。 「人様の──しかも若草鈴大先生のお家で、つぐみんが止めたのも聞かず」  三刺し。 「結果つぐみんが望まない展開になっちゃって……そりゃあつぐみんが瞬くんを嫌ってもおかしくないよね」  数える気をなくすほどの痛みが胸を刺した。  最後の一言がとどめだと思っていたが、毒吐き中学生は俺の予想よりも非情だった。 「って、つぐみんが言ってたよ」 「え、鶫が、なんて」 「瞬くんを嫌ってもおかしくないって」 「うそ」 「そーゆーことにしてあげてもいいよ。ずっとお花畑にいたいならね」  返す言葉がない。目の前にいるのは俺の初恋を成就させてくれたキューピットなんかじゃなくて、地獄で罪人をいたぶる鬼だ。  俺の精神がズタボロになっていることなど気に留めず、由香は涼しい顔をしてコーンを取ろうと缶の底を叩いている。その勢いすさまじい音と精神ダメージとが相まって、頭痛がしてきそうだった。  そんな俺を一瞥した由香が、やれやれといった仕草をした。 「実際起こったことに目を向けなよ。もうあの2人にばれちゃったことは取り消せないんだから、これから瞬くんがつぐみんにどう向き合うかって問題でしょ? 私がこの取れないコーンとどう向き合うかって問題と、結局のところ一緒だよ」 「それは違うんじゃ」 「違いません。大体、つぐみんは瞬くんのこと好きだから付き合ってるわけだし。そんな奇跡みたいな事実を信じないで、起こってもいないもしものことに頭悩ませてもしょうがないよ」  そうだった。由香のアドバイスはいつだって辛辣で、正しい。この師のおかげで俺は今、信じがたい、けれど全くの現実である奇跡を体験できているんだから。 「それに、瞬くん忘れてない?」  と、俺の恩師は今日はじめて頬を緩ませた。 「つぐみんがあほってこと」 「……つまり?」 「間違いなく、美味しいもので許す」 「おいしいもので、ゆるす」  なるほど、と納得しかけた自分に首を振る。しかし一理ある。 「せっかく料理っていうつぐみんに効果テキメンな武器持ってるんだからさ、誠心誠意使わせてもらったらいいんじゃない? あ、取れた」  全面的にうなずいていいのかと迷う俺を尻目に、由香は最後のコーンが取れて喜んでいる。親身なのかそうでないのか分からない。  「とにかく」と、缶を捨てた由香がひとつ手を叩いた。 「瞬くんは、私にそうやって弱音吐く前につぐみんとちゃんと話し合いましょう。大丈夫、骨は拾ってあげるからさ!」  そう言って底抜けに明るく笑った。一気に不安が押し寄せる。でも、さっきみたいに根拠のない不安ではなかった。相手の心なんて話してみなきゃ分からない。それを聞くのを不安に思うのは自然なことだ。 「ありがとう、がんばってみる」 「相談料はおしるこでいいよ」  かくして今日一番の笑顔は、俺にポケットの中身を探らせたのだった。  その後、由香に泣きつきながらも鶫との話し合いの席──という名のうちでのご馳走会を取りつけることに成功した。  今日は両親が経営している店で大きな会食があるらしく、2人とも遅くまで帰ってこない。鶫を招待している間は誰にも邪魔されないように「家のことは任せて」と念押しまでした。 「……おじゃましまぁす」  鶫は不貞腐れて、いかにも渋々来てやったという感じでうちに上がり込んだ。  顔が可愛い。怒っていても。  こういうときには、自分の表情筋が正直でなくてよかったと思う。もしそうだったら、俺は今日最初に顔を合わせた時点で鶫に殴られていたはずだ。  いつも食事に使っている和室に通し、待っていてもらうように言う。話し合いを口実に招待したので鶫は顔に一瞬疑問を浮かべたが、何も言わずぺたんと座った。  座り方が可愛いと思ったが、鶫と同様、何も言わずキッチンへ向かった。  鶫の好きなものは大体作ったことがある。和食、フレンチ、中華、イタリアン、アジアン、スイーツに至るまで。食べること自体が好きな鶫は何を出されても大抵うれしそうに頬張るのだが、特に目を輝かせて何杯もおかわりしたり、数日経ってから「また食べたいなぁ」と呟いたものを俺は好物として覚えている。  昨日のうちに仕込んだ料理の味を確認して皿に盛る。できるだけ美味しく見えるように、でもお客様を待たせないように。迅速かつ丁寧に。父が口酸っぱく言っていたことがこんなところで役に立つとは思っていなかった。  両手いっぱいに皿を抱えて戻ってきた俺に、鶫はぎょっとした。 「え、なにそれ」 「食べて」 「でも今日は話があるって……」  うろたえる鶫も可愛い──などと言っている場合ではない。鶫とできるだけ目を合わさないようにして俺は黙々と皿を置いていく。あっという間に卓上が鮮やかに彩られた。最後に鶫の前にスプーンや箸やらをセットする。しかし鶫はうつむくばかりで、一向に手をつけようとしない。  もしかして、美味しいもの作戦失敗?  頭上にかかった時計の秒針が沈黙を証明している。それの破りかたが分からない俺の代わりに、鶫が口火を切った。 「先に言うことあるよな」  表情のない声に心臓が大きく跳ねた。その拍子に、何度も予行演習した言葉は全て散り散りになってしまった。 「ごめん」 「なにが?」 「圭介たちにばれたことが」 「なんで?」 「鶫はばれたくないって思ってたのに」 「それから?」 「俺が鶫の言うこと聞かなかったからこんなことになったし」 「それで?」 「これを食べて、許してほしいです」 「ふうん」 「あと……できれば、嫌わないで」  鶫は頬杖をついて、全身で不機嫌だと主張している。  こんなふうに謝るつもりじゃなかった。もっとスマートに、誠意のこもった感じで言うつもりだったのに。あ、でも頬杖ついてる鶫が可愛い。じゃなくて。  間違いなく申し訳ない気持ちでいっぱいなのに、脳みその端っこの一部分が不変の真理を認識してしまう。他の部位は、鶫の反応がないことへの恐怖に支配されている。 「あの、鶫」  耐えられなくなって声をかけると、鶫の肩が震えていることに気づいた。  まさか、泣く……?  そう思った次の瞬間────────鶫は吹き出した。 「あははは! あかんわもう無理! 笑わんほうが無理やって!」  ………………え? 「だって瞬めっちゃ深刻そうなんやもん! すぐに謝ってくるんかなって思ったらご飯作ってくれるし! 食べんかったらめっちゃテンパるし!」  鶫は謝る俺の真似をしては笑い転げ、終いには涙を流して呼吸困難になる始末だ。対する俺は段々と状況が飲み込めてきて、肩の力を抜いても良さそうなことを悟っていた。 「あー苦しい、一生分わろたわ。ほんま瞬おもろい、おもろすぎて死んでまう」  頑張って面白くなくなるから死なないでほしい、というのは心の中にしまっておいた。そんなことを言ったら鶫の呼吸がどうにかなってしまうだろうから。恋人が関西人だと大変だ。いや、鶫だけか。  ひとしきり笑ってもまだ涙が止まらない鶫が、目をこすりながら言った。 「こんだけおもろいもの見せてもらった上に美味しいもん食べさせてもらえるなら、許すのもヤブサカではない」  この前鈴先生に習った言葉を早速使っている。そういうところも可愛い。1週間後には忘れていそうなところも合わせて。 「鶫ならすぐ食べ物に飛びつくと思ったんだけど、完全に俺の負けだ」 「甘いね瞬くん。オレにとっては食べ物より瞬に痛い目見せる方が大事やったねん」  満足げに口角を上げる恋人に、俺は白旗を上げるばかりだった。  それに、と鶫が座り直した。 「やっぱご飯は、仲直りしてから一緒に食べたほうが美味しいからな」  太陽よりも眩しい笑顔を浮かべる恋人に、俺は一生勝てそうにないと確信した。  あと何度見ても顔が可愛すぎて目がつぶれる、とも思った。  鶫の勧めで一緒に同じ皿をつつくことになった。許しを得た俺は早々に鶫の隣に座り、そんな俺を鶫はまんざらでもなさそうに見て、それを合図にふたりそろって手を合わせた。 「いただきます」  鶫が最初に箸を持っていったのは、揚げ出し豆腐だった。 「オレこれ大好き。つーか全部オレの好物やん」 「そういうつもりで作ったから」 「ほんまにお前、オレのこと大好きやな」 「うん、大好き」  大真面目にそう返すと、鶫は「冗談やん。マジで返すな、あほ」と呟いたが、俺はそれが照れ隠しだとよく知っていた。 「今回のことは、流されたオレもオレやったからさ」  言いながら鶫はスプーンを持ち、オムライスの上に載ったふわふわの卵に切り込みを入れる。 「そんな怒ってないで。まあ、待ってって言ったのに待ってくれんかったのには怒ってたけど」  ぷつんと表面の薄い膜が切れ、卵が皿いっぱいに広がった。その様子に鶫は子どものようにはしゃいだ声を上げた。 「鶫、ごめん。本当に」 「いーいーよー。ほら、これ食べてみ。めっちゃ美味いで〜って、お前が作ったんやったわ」  鶫に差し出されるまま、俺はオムライスを頬張った。我ながら満足の出来だ。その満足感の95パーセントは、可愛い恋人に食べさせてもらったという事実によって構成されてるけど。  幸せすぎる。  ふと目の前の可愛い顔を見ると、また笑い涙がこぼれていた。 「ふふ、めっちゃあほみたいな顔……うわ、ちょ、瞬」 「しょっぱい」  笑って紅潮した頬が可愛くて思わずキスを落とすと、鶫はさらに赤くなって魚みたいに口をぱくぱくさせた。 「い、異物混入」 「隠し味だから」 「変態っぽい……」  すっかりいつも通りに戻った。安心して恥ずかしがる鶫をからかっていると、後ろから凛とした、冷たい声がした。 「あら、いらっしゃい」  ここにいるはずのないその声に、俺は背筋が凍るのを感じた。隣の鶫の体が強張ったのもはっきり分かった。 「母さん」 「来ると聞いていたら何か用意したのに。ごめんなさいね」 「いえ……こちらこそお邪魔してます」  どうして母さんがここに? 帰るのは夜遅くのはず。今は昼過ぎだ。早すぎる。どうして? いつから? 何を見られていた?  嫌な汗がじわりとしみてくる。喉が渇いて言葉が出てこない。  母さんはにこやかに、しかし鋭い目つきで食卓の上を一瞥した。そして目と同じ温度の声で言った。 「“お友達”に腕を振るうのはいいけれど、お店のお客様にお出しできるものも練習しなさい。でないと、私たちが死ぬまでにお店を継げないわ。料理は一朝一夕で上達するものではないのだから」  彼女の温度に、俺の血が冷やされている。 「分かってるよ」 「そう……じゃあ、私はちょっと用事しに来ただけだからもう行くわ。お邪魔したわね。何もお構いできないけれど、どうぞゆっくりしていってね」  気持ち悪いほど静かに去っていく足音が聞こえなくなるのを、俺も鶫も息をひそめて待った。秒針が時を刻む音さえ、うるさく感じられた。  オムライスの隣の麻婆豆腐をつつきながら、いつになく真面目な顔をした鶫が呟いた。 「嫌いになったりせんから。圭介と鈴ちゃんにばれたくらいで」 「うん」 「ちゃんと好きやから」 「……うん」  鶫と同じように麻婆豆腐をつつく。口に入れるとすぐに、ピリッとした刺激と甘味が舌を包んだ。 「これも美味しいで」  世界一可愛い俺の恋人は、隣で精一杯笑って色んな皿を俺の前に持ってきてくれる。  この人の胃袋を一生満たし続けたい。ふとそう思った。 「鶫」  名前を呼ぶと、頬をリスみたいに膨らませた恋人が綺麗な目に俺を映した。 「可愛い」 「あほ、黙って食え」  食卓の下で触れ合った膝が、少し熱くなった気がした。

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