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圭鈴特別編 如月下旬──あいにくの雨天

※受けの嘔吐表現があります。苦手な方はご注意ください。 ▼  北風の中に微かな花の香りを捉えると、またこの季節がやってきたと嫌でも実感する。  よそいきの香水、何十種類もの整髪料、それら全てを覆い尽くす線香の匂い。  10年以上も昔の記憶だというのに未だに色褪せてくれない。加えて今日は雨。あの日と同じような、みぞれまじりの雨。何もなくても気持ちは勝手に沈み込んでしまう。 「────先生。鈴先生?」  目の前で色のついた爪がひらひらと動いて、ぼーっとしていた俺の意識を引き戻した。 「あ、ごめん。もう一回言ってほしい」 「新作の話ですよ。あと3回ほど掲載したら今の連載終わられる予定なので、次の作品の方向性を」 「あー今アイデアないや。佐田さん、なんか読みたい話ある?」 「そんな一歩目から担当に投げないでくださいよ。先生の気が向かなきゃ意味が……」 行きつけのカフェのいつもの席。目の前に座った俺より数歳下の担当編集者は、勢いよく返してきたと思えば急失速して考え込むポーズを取った。 「そういえば先生、高校生にお勉強教えていらっしゃいましたよね」 「え?ああ、してたっけ、その話」 「それを題材にしては?」  口に運びかけたカップを慌てて止めた。危うくむせさせられるところだった。 「俺、どこまで話してた?」 「どこまでって……普通に、ご飯作ってもらう代わりにお勉強教えてるって。みんな成績が上がってきて嬉しいとか。あ、あと一番成績悪かった子が平均点越して喜んでたのが可愛らしいって話も」 「あ、そ……」  よかった。肝心のことは話していないようだ。考えたら分かることだ。俺は知り合いの誰にもあのことを話した記憶はないのだから。  俺が勉強を教えている高校生の1人、片岡圭介は俺に最初に世話を焼いた本人にして、どうやら俺にそういう感情を抱いているらしい。こんな白々しい言い方をしているがきっと、いやほぼ確実にその原因は俺にある。キスをお見舞いしたのだ。夏の暑さと煙草にやられた脳みそを口実にして。それから俺とあいつは微妙な距離を保っている。付き合うなんて健全なことはしていない。だからといって不健全な関係というわけでもない。たまにからかいながら手を絡めたり、冗談でキスをしたり。こうして俺はいたいけな高校生に悪影響を与えるおっっさんになってしまったのでした、おしまい。 「先生!さっきから何なんですか、もう」  佐田さんが身を乗り出してきて、また俺の意識はカフェに戻された。彼女の耳でピアスが音を立てる。 「体調悪いんですか?例の少年にちゃんと食べさせてもらってます?」 「いや、うん、大丈夫」  俺の曖昧な返事に佐田さんは顔をしかめてこちらを睨んでくる。すごい人相だ。 「大丈夫じゃなさそうですね!今日はこれで解散しましょう!」  そう言ったかと思うと一気にぬるくなった紅茶を飲み干し、机に広げた資料を丁寧に片付けてレシートを引っ掴んで立ち上がった。 「え、え?」 「やっぱり先生、体調悪いですね。ご自分でも分かると思います。ほら」  佐田さんが指さしたほうに目を向けると、窓に映った自分がこちらを見つめ返していた。なるほど酷い顔だ。隈と血色の悪さはデフォルトとして、なんというか、生気がない。目がうつろで自分でも引くレベルだ。佐田さんはさっきまでこんなやつとまともにしゃべってたのか。他人の人相をどうこう言っている場合ではなかった。 「作家さんの体調管理も編集の仕事の一部なんで、帰って寝てもらいます」 「でも」 「でもじゃないです。これ以上心配されたいんですか?」 「う、はい……」  こうなったら今日はもう一切仕事をさせてもらえなさそうだ。最近の佐田さんは俺の体調をやけに気にしてくる。  諦めて立ち上がると、ふわりと視界が歪んだ。 「先生!」  咄嗟に差し伸ばされた腕にすがりついてしまう。 「あ、ごめん。ほんと、心配かけちゃって」  指摘された途端、自分の体調不良がいよいよしっかりした形を持ち始める。佐田さんはさっきまでの強気な態度から一変して静かに言った。 「帰って、ちゃんと休んでくださいね。私は編集者である前に先生のファンなんですから。これ以上悪化させないでほしいんです。心配ならかけてもらって全然いいです。それが私の仕事なので」  申し訳なさと頼もしさでよくわからない感情になりながら俺はおぼつかない足取りで店を出た。  なんとしても俺を送ろうとする佐田さんを押し切ってなんとか1人で家にたどり着いた。コートを脱いで引きっぱなしの布団に倒れ込むと、脳みそが鉛にでもなったかのように重みを増した。  まぶたが無意識に閉じていき、俺は深い海のような眠りに沈んでいった。  目が覚めるとさっきから全く時間が経っていないような錯覚に襲われた。 「そうか、雨だから……」  陽射しの加減では時間帯が分からない。時計を見ようと顔を上げると、眠る前と変わらない痛みが俺の頭部を殴った。 「手、合わせなきゃ」  今日は俺を育ててくれたばあさんの命日だ。だから打ち合わせの帰りに花でも買って供えようと思っていたのに。  動こうとしたら鳥肌が立って、次いで身体が焼けるように熱くなったのを感じた。 「あー、やばいなこれ」  もう一度寝転ぶ元気もないが、このままでいるわけにもいかない。無気力になりそうなところを自分に耐えろと言い聞かせ、固定電話まで這いずっていく。  自分からかけたことは数回しかないのになぜか覚えた番号を、のろのろと押していく。呼び出し音が疲弊した脳に不快に響く。あともう1コールで出なかったら切ろう。そう思っていたところ、最後の1コールが鳴りかけたところで受話器の向こうから声がした。 「もしもし、鈴先生?今日は仕事って言ってませんでした?」  耳触りのいい声に頬が緩んだ。もうこれで満足してもいいくらいだ。 「あの、先生?何か……」 「圭介ぇ」  彼を呼ぶ自分の声があまりにも情けなくて、なんだかおかしかった。 「きて、今から、うち」 「え、えっと」 「ごはん、食べないと」  頭が回らない。どうしてこいつに電話をかけようと思ったのか、気づいたら飯の話をしている。おかしい。 「すぐ行きます」  その言葉にほっとして、俺は力なく受話器を置いた。 ▽  電話越しの声は明らかにいつもと違っていた。テンションとかそういうのではなくて、根本的に。  案の定、通話を終えてから十数分後、僕が鈴先生の家の戸を開けたときに先生は固定電話の前で座りこんでいた。 「鈴先生!大丈夫ですか!」  大丈夫じゃないのは分かりきっていたが、僕はそれ以外にかける言葉を知らなかった。 「圭介……早かったな」 「ご飯食べれます?寝てたほうがいいんじゃ……」 「いや、たべたい。おまえの」  僕の指を先生は凄まじい力で掴んだ。赤ん坊みたいだという感想が脳裏をよぎったが、今そんなことを考えている暇はない。とりあえず先生を寝室に送り届け、寝巻きに着替えて横になってもらった。  レトルトの白米を温めてお粥を作った。初めの日とは違って、ただお湯で米を煮ただけのものだ。これですら食べられるかどうか。 「でもさっき先生が言ったんだしな」  僕のご飯が食べたいって。  その事実に不謹慎だが心が躍り、僕はいつになく浮かれていた。  出来上がったお粥を寝室に持っていくと、ふすまの空いた音で鈴先生が目を覚ました。 「気分はどうですか。食べれそうですか」 「ああ、起こして」  いつになく僕を頼りきってくれる先生に少しときめく自分がいる。心を許してくれていることを実感してまた跳ねそうになる胸の内を懸命に抑えた。  鈴先生は背中を丸めて僕がスプーンに載せたお粥をちびちびと口に入れていく。数粒だけ含んでは目を閉じて咀嚼し、飲み込む。そして小さく息をついては次の数粒を迎える。その背中を支える腕が次第に疲れてくるが、支え直して耐え続ける。  ふいに、僕が支えた背中が大きく揺れた。 「ぅ、うぇ」  先生が口を押さえる。その拍子に僕の手からスプーンが落ち、お粥が布団の上にこぼれた。 僕は急いで残りのお粥が入っている皿を置き、先生の肩を抱えた。 「先生、鈴先生!」  長い前髪の向こうで苦しそうに唸る先生の目には、涙が浮かんでいる。 「けぇ、すけ」  どうしましたか、どこか痛いんですか、何をしたらいいですか。  聞きたいことがいくつもあるのに、底知れない不安がその全部を喉の奥に押し込める。  鈴先生は口を押さえたまま、目を伏せて言った。 「はきそう」  身体が強張る感触。やばい、どうにかしなきゃ。ここには僕しかいないんだから、僕が先生を看病しなきゃ、助けなきゃ。  うまくやらなきゃ、鈴先生が────。  必死に細い身体を支えて立ち上がらせて、手洗いに向かう。  一人暮らしには無駄に広い彼の家をこんなに恨んだことはなかった。 「先生、がんばって」 「も、むり……吐く、はきそう」 「すぐ着きますから、もうすぐ」 「うぅ……け、すけ」 「ドア開けます、すぐです、入って」  ふたり入るには狭すぎる個室に無理やり押し入り、全速力で便座を上げる。吐いてもらえるように先生をしゃがませた瞬間、気づく。 「あ、髪」  遅かった。  ほとんど泣くようにして、鈴先生はさっき食べたものを全て戻した。  一度おさまったかと思いきや先生はさらに指を口の中に入れて吐こうとした。しかしもう何も残っていないのか、ただ苦しそうにえずくだけだった。その姿が痛々しくて、僕はどうしても見ていられなかった。 「先生、指出して」 「……まだきもちわりぃ」 「一回口すすいどきましょう。待っててください」  僕はできるだけ焦りを見せないようにしながら、洗面器やタオルやコップなんかを集めに行く。戻ってくると先生はぼーっと自分が吐いたものに目を落としていた。 「はい、これで口すすいでください。髪も拭きますね」  先生はまだ気持ち悪さが抜けないらしく、時折顔をしかめながらも大人しく水を口に含んで洗面器に吐き出した。 「ごめん、自分でやる」  髪を拭く僕を止めようとした先生の手が宙でさまよう。 「あ、俺……きたない」 「大丈夫、大丈夫ですから。僕がします」  僕の言葉に先生は小さく「ごめん」とこぼし、されるがままになっていた。僕はなんと返したらいいか分からず、黙って彼の髪と口の周りを拭いた。  洗面器やタオルを洗面所に持って行き戻ってきた。力なく手洗いの床に座り込む先生を見ると、さっきより顔が赤くなっている。そっと額に触れると、あまりの熱さに思わず手を引っ込めてしまった。 「布団に戻りましょう、すごい熱ですよ」  内心かなり焦っている。けれど、それを先生に知られては頼れるものも頼りなく映ってしまう。病人を不安がらせるわけにはいかない。  気合を入れ直した僕に、先生は冷や水をかけた。 「電話して、おれの担当に」  番号は電話のところに書いてる、と先生はその方向に目をやった。 「え、でも」 「病院いく」  そう言って鈴先生はまぶたをぴったり閉じて壁にもたれかかった。  他に選択肢がなかった。先生を布団に運んでから、言われた通り担当の「佐田さん」の番号にかけた。  佐田さんがタクシーで鈴先生を病院に連れて行っている間、僕はこぼれたお粥や汚れた布団や先生が吐いたものを片付けた。これが、今の僕にできる精一杯のことだった。驚いたことに、佐田さんは保険証やかかりつけの医者の場所をよく知っていた────いや、驚くようなことでもないのかもしれない。鈴先生は他に身寄りがなく、いつでも頼れる相手といったら仕事を通して絶大な信頼を置いている担当さんくらいなものだろう。 『電話して、おれの担当に』  申し訳なさそうな、強がるような鈴先生の顔を思い出す。  そして僕の電話を取るなり事情を知っていたかのような言葉を放った彼女を思い出す。 僕は結局、自分の無力さを思い知っただけだ。 「…………くやしい」  たった一言が今の自分に妙にしっくりきて、僕は無意識に繰り返す。 「くやしい、悔しい」  未熟な自分の年齢が、病院という手段を真っ先に思い付かなかったことが、彼の中で大きな存在になれていなかったことが。  彼の髪を拭いたタオルを洗いながら、言いようのない淀んだ感情が胸に立ち込める。  僕は、本当は。  ────────ずっと、鈴先生の髪を拭いていたかった。  あの狭い空間で、ふたりっきりで。 「インドに行ってきた」  病院から帰って佐田さんを見送り終わるなり、枕の上で鈴先生が言った。 「インド……?」 「インド行った人って、食べ物の影響で身体の中が一掃されるらしい。一回めちゃくちゃ吐いたり下痢したりして地獄を見るんだが、そこを抜けたらめちゃくちゃ健康体になるとかならんとか」  僕がよく分からないまま生返事をすると、鈴先生は口角を上げた。 「もう大丈夫ってことだよ。ありがとな、急に呼びつけたのに色々世話してくれて。気持ちのいいもんじゃなかっただろ?今度何かお礼……」 「いいですよ。こちらこそ、すみません。力不足なことばっかで」 「全然。うれしかった、すぐ来てくれて」  こういうことをさらっと言ってしまうからこの人は質が悪い。こういう瞬間のせいで、僕はこの人をずっと放っておけないんだから。 「いえ、他にも色々……」  不謹慎なこと思ってしまってすみません。心の中で土下座した。  先生はしばらく黙って天井を見ていたが、突然思い出したように言った。 「そうだ、花」  疑問符を飛ばす僕に先生が顔を向ける。彼が優しく笑って、目の下の隈が濃くなった。 「今日ばあさんの命日だから、供える花、買ってきてくれよ。菊だったらあるはずだから」  代金はそこの財布から、と先生があごで示す。  恥ずかしい。僕が役に立ったと思えるように、先生は頼んでくれている。  敵う気がしない。  でも、どうしたって鼓動は弾んでしまう。僕ってこんなに単純だったっけ、と自問してしまうほどに。 「あったかくして、寝ててくださいね」  先生が黙って親指を立てたのを確認した僕は、無駄に広い家から飛び出した。  来たときと同じ雨が降っている。その雨が僕をあたたかく迎えてくれているような気がして、僕の足は自然とステップを踏んだ。 ▼ 「あったかくして、寝ててくださいね」  そう言って部屋を飛び出していったあいつは、また俺にいいように使われていると気づいているのか、いないのか。  数時間前の自分を思い出していたたまれなくなる。30過ぎて高校生にあんな風にすがるなんて。目眩のせいで佐田さんに頼ってしまったときとは話が違う。俺が選んだのだ。片岡圭介を。わざわざ呼びつけて、世話をさせた。 「飯、戻しちまったな」  思い出すのは口に運ばれた米の食感よりも、俺を支えてくれていた腕のあたたかさ。  本当はもっと、それを感じていたかった────なんて、不謹慎極まりない。  大人しく言われたとおりにしようと目を閉じると、窓の外で雨がアスファルトに落ちている音がする。未だにみぞれまじりのままらしい。圭介はこの雨の中、花を買いに行っている。傘をさして駆けていくその背中を想像すると、この季節の雨も悪くないと思えた。  気づけば俺は、柔らかい眠りに落ちていた。

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