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【2】10

冷ややかな空気が通りすぎ、夜が明けた。うっすらと目を開けるが、同じシーツで眠っているはずの人がいない。衝撃に身体を起こしたとき、キッチンから物音が聞こえた。ゆっくりと立ち上がりドアを開けると、フライパンを持った高岡さんがいた。 「あ、おはよ」 「おはようございます……」 高岡さんは夕方近くまで寝たり、唐突にこうして早起きしたりする。どうやら、前の晩の寝付きとも関係しているようだった。俺は冷えた足元をすりあわせながら、一度深呼吸した。 「あの……昨日は、すみませんでした」 「いや俺も」 朝の光がさしこむキッチンに、コーヒーのにおいが漂っている。白い光が高岡さんの横顔を照らし、輪郭をあいまいにしていた。高岡さんの顔がきれいなことには、いつもとつぜん気付く。 「目玉焼きとスクランブルどっちがいい?」 「え?」 「朝メシ」 「えっと、目玉焼きで」 「塩コショウかける?」 「あ、はいお願いします」 熱したフライパンの上に卵がとろりと乗る。油がはねる音が朝に心地よく響く。高岡さんはふたをかぶせながら静かに言った。 「今日どっか行く? 俺バイトないし、授業は誰かに代返してもらって」 「えっなんでですか」 「いやー……んー……なんか、デートしたい」 デート、という響きと、朝食の準備の空気が完璧に調和した。寝起きの顔が熱くほてった。 「い、いや、いいです」 「なんで? やだ?」 「嫌とかじゃないですけど、今日の3限重要な資料配布するって言ってたし、休めないんですよ」 「あー……そうか」 高岡さんはさみしそうにうなずき、じんわりと焦げていく卵を見おろしていた。 「それに、そんな分かりやすく気ぃ遣わなくていいですよ」 「いや……別に」 「どこも行かなくていいです。授業終わったら早めに帰ってくるんで、一緒に映画でも借りてきて見ましょうよ」 「……うん」 俺は後ろから手を伸ばし、ミニトマトをつまみ食いした。高岡さんは振り返って俺にデコピンして、笑った。大人になるとこういう風に、不安を取り払えるからいい。 --- 3限は今いる場所から離れた棟の5階だ。購買で買ったリンゴジュースを飲みながら歩いていると、ふいにポケットのスマホが振動した。 ディスプレイを見たとき身構えてしまったのは、高岡さんがまたきびしい無表情を作ってしまうのではないかと思ったからだ。おそるおそる通話ボタンを押した。 「もしもし」 『あ、もしもしー……、伊勢さんですか』 「……あぁ、黒部? どうした?」 何気なく言ったつもりだったけれど、自分の耳にも分かるくらいにねじれた声になってしまった。高岡さんの「危機感」をいう言葉が脳を満たしていた。 『すいません、伊勢さんって次の3限俺と同じのとってますよね?』 「ああうん、そうだけど。どした?」 危機感とは他人を疑う心のことだ。高岡さんに責められた俺は、黒部の電話も「口止め料」について掘り返すものだと思っていた。まったく別の話をはじめた黒部に、安心するとともに狭量な自分を恥じた。やはり、あの場限りの冗談だったのではないか。 『今日確か課題の資料配布する日ですよね』 「うん、そうだけど」 『すいません、先輩に頼むことじゃないんですけど、その資料俺の分ももらっといてくれませんか?』 「ああ全然いいけど、どうした?」 『実はちょっと風邪引いちゃったみたいで。昨日39度まで熱上がって』 「えっ大丈夫かよ」 『あ、今はだいぶ楽なんですけど、まだ授業出るのはきついんで』 「えー……お前一人暮らしだろ? 大丈夫なのかよ、食べ物とか、薬とか」 『ああはい。パンあったんで食べました。賞味期限切れてたけど大丈夫そうです』 「大丈夫じゃないだろそれ……」 俺も一人暮らしをはじめてから高熱に見舞われた経験がある。朝から晩まで何も食べられず、飲み物のストックもなく、干からびてしまうのではないかと思った。トイレに行ったあとベッドに戻ることもできず廊下に倒れ込んだまま動けなかった。薬がほしくても外に出ることもできない。独り暮らしの病気はほんとうに恐ろしいのだ。おれこのまま死ぬのかな、とさえ思った。 助けてくれたのは高岡さんだった。たまたまかかってきた電話に出て現状を報告すると、あわてて駆けつけてくれた。あの時持って来てくれた薬や飲み物がなければ、やっぱり死んでいたかもしれないと今でも思う。 ちら、と時計を見る。いちどだけサークルのメンツと遊びに行った黒部の家は学校近くの分かりやすい場所だった。すこしくらいなら、自宅の高岡さんを待たせることもないだろう。 「黒部」 『はい?』 「授業終わったら、課題のプリントと薬とメシ買って持ってくわ」 『えっ、いいですよそんなの』 「適当にノブにかけておくから出なくていいからな。とりあえず死ぬなよ」 いやらしい話ではあるのだが、正直なところ、多少の恩を売っておくことが「口止め」につながるのではないかという打算もあった。それにさすがの高岡さんも、一人暮らしにおける風邪の怖さを知っているはずだからこれくらいはいいだろう。 通話を切り、授業の開始を促すチャイムに急かされて走りだしながら真剣にそんなことを考えていた。どうやら俺は高岡さんの言う通り、「キキカン」が欠落しているらしい。

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