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【2】12
閉めたドアに阻まれ、近づいてくる黒部との距離をとれないままでいる。
「く、ろべ」
「伊勢さん……」
あまりにもはきはきと喋る黒部をみて、仮病なんじゃないかとさえ思っていた。けれど、狭い玄関スペースで向き合えばその身体がとんでもなく熱いのが伝わってきて、ああこいつ本当に熱があるんだと気付いた。熱に浮かされているから、変なことを口走っているのだと信じたい。
「キスしていい?」
「は!? だ、だめ! 絶対だめ!」
「一回だけ、それで諦めるから」
「だめ絶対だめほんとはなして」
「じゃあ伊勢さんが高岡さんと付き合ってること周りに言ってもいい?」
その駆け引きはわかりやすいほどの悪意に満ちていた。黒部は病人だから、弱っているから手荒に扱ってはいけない。そんなことを平和に考えていた俺でも、さすがにかっとなった。本気で抵抗し、力の限り突き飛ばした。
「お前調子乗んなよ!」
黒部との距離は確保できたが、勢いのまま半開きのリュックの中身が玄関スペースに散らばってしまった。もう一刻も早くこの場から逃げたいという思いで手早く片付けているところに降りかかった言葉は、あまもりのように、静かに頭上にこぼれた。
「伊勢さん、つらくない?」
顔をあげる。黒部はうつむいている。
「は……?」
「高岡さんにいじわるされたり、乱暴されたりしてない? 変態っぽいこととか、させられてない?」
「な、なんだよそれ」
「やりたいことなんにもできなくなっちゃうくらい束縛されたり、窮屈な生活してない?」
黒部は、信じられないくらいに優しい顔をしていた。
「俺だったら伊勢さんのいやがること、なんにもしないよ」
リュックを背負って家を飛び出した。振り返ることもなかった。走った。全速力で走った。自宅までのすこしの距離、なにも考えることはできなかった。
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「遅かったね」
「あ、いや」
「……どうした?」
「えっ? なにがですか? あ、そうだ映画借り行きましょうか?」
「帰ってくるの遅いからネトフリで勝手に選んだだけど。これとか面白そうじゃない?」
「あ、はい! これ観たいです! 観ましょ!」
帰宅してようやく一息つき、映画と向き合いながらも意識のほとんどは置き去りのままだった。あの怒涛のできごとはなんだったのだろう。いま、安全な家の中で、ようやく改めて過ぎ去った時間を冷静に思い返せば、自分の浅慮に腹立たしくなる。画面の中で俳優がまくしたてる英語が聞きとれない。字幕をおいかける気力もない。ぼんやりと、画面をながめるしかない。
「伊勢ちゃんなんか隠してる?」
高岡さんの声はあまりにも唐突で、しかしひっそりしていた。俺をうかがうようで、しかし嘘をつく余裕はいっさい与えない。慌てて高岡さんを見たが、高岡さんの瞳はまっすぐに画面へ向けられたままだった。
「えっなんでですか」
「ん、勘」
「か、勘なんてあてになんないじゃないですか……」
「そうだな。でさ、なにがあったの?」
「い、いやだからそんなんあてにならな……」
高岡さんがゆっくりと首をまわし、ようやく俺を見た。目が合った瞬間の、取り巻く空気すべてが凍る感覚は言い表せない。
「言え」
高岡さんがきびしい目をするとき、俺はまばたきすること、息をすること、うそをつくこと、すべてを忘れてしまう。くちびるは震えていた。けれどかすかなその隙間から、言葉がもれた。
「あ、の、資料が」
「資料?」
「授業の、今日の、大事な資料が」
「うん?」
「資料配る日だったんですけど、風邪引いたらしくて、39度あるから出てこれないって、だからかわりにもらっといてくれって、資料、次提出のレポートでつかうから、すぐ渡さなきゃいけなくて、薬ほしいだろうと思って、渡しに行って」
「……誰の家行ったって?」
「…………」
「誰ってきいてんの」
「こ、後輩です」
「あぁ……」
名前を口にしなかったのは、最後のささいな抵抗だった。ところが高岡さんの前ではなんの価値もないことだ。ごく自然に、その名前が導き出された。いや、きっと高岡さんは、俺が帰ってきたときからあいつの残り香を感じていたのかもしれない。
高岡さんは、物思いにふけるようにもう一度画面へ目を向けた。
「ふーん……」
たったそれだけだ。責められたわけでも怒鳴られたわけでもなかった。
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