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人質の婚約者

 バルコニーに向けて開け放された両開きのガラス戸からは、大海原を遙かに臨む。セヴィーラ王国第六王子、ルネ・セヴィーラ・フェルディナは、広い廊下の途中でふと足を止め、この世にこれ以上美しい青があろうかというその青を、目を細めて眺めた。  碧瑠璃の海と陸とを隔てる海岸線よりこちら側には、芸術の都と名高いセヴィーラ首都の、美しい街並みが広がっている。伝統的な様式のみならず、建築家たちの奔放な創造力に任せた様々な趣向の建物が、街の中心にある高台を取り囲むように立ち並ぶ。 そしてその高台に燦然とそびえ立つのが、このセヴィーラ王城だ。築城から数世紀を経た壮麗な外観は、この国の人々の、美を愛する心の結晶と言える。  だが、いざそこに住まう身となれば、朝な夕なにその荘厳な姿を眺めて感嘆のため息をつくばかりではいられない。ルネ王子は装束の長い裾を翻し、再び歩みを進めた。  分厚い緋色の絨毯を敷きつめた廊下を進み、突き当たりまで行くと、彫刻の施された重厚な扉の前で居住まいを正す。そして一呼吸置いてから、声を張り上げた。 「ルネ・セヴィーラ・フェルディナ、お召しにより参上いたしました、父上」 アーチ型の高い天井の下、僅かに緊張した声音が響く。   「来たか、ルネよ」  深紅のビロードを背景に、黄金の玉座に壮年の身を納めるセヴィーラ現国王、フェルディナ八世は、ルネ王子にじろりと一瞥をくれた。  謁見室に足を踏み入れたルネ王子は、天井画の愛らしい天使たちに見守られながら、前へと進み出た。そして膝を着いて礼を執り、お声がかかるのを待つ。 「礼はよい。顔を上げよ」  フェルディナ八世は、品定めをする目つきで末の息子を見下ろした。  きりりと上げたその顔には、美しく澄んだ双眸。父王への畏怖と思慕との狭間に、情の薄さに対する仄かな恨みと憎しみが、宵の明星のごとくちらちらと瞬く。  その瞳と同じ亜麻色の髪が、窓からの海風にそよと揺れた。人目を引く艶やかな美少年、というのではないが、広く形のよい額に知性、柔らかく結ばれた唇に意志の強さ、少女と見まごうばかりの桃色の頬に、その素直な気質を宿している。瞳の色に合わせてあつらえた、伝統的セヴィーラ装束に身を包むルネ王子は、彫刻のように愛らしかった。  フェルディナ八世は、唇の端に満悦の笑みを浮かべた。 「ルネよ。火急の用件とは他でもない。お前に縁談の申し入れがあった」  注文の品が届いた、とでも言うような口調で、フェルディナ八世は言った。 「縁談……!?」  ルネ王子は、大きな瞳をさらに大きく見開いた。  王族の結婚はあくまでも政治の駆け引きであり、個人の感情など入り込む余地はない。そうと分かっていても、まだ十八歳の王子の胸は、甘い驚きに弾んだ。  どの国からの縁談だろう。お相手はどんな姫君だろうか。政略結婚であっても、互いに尊敬し合い、睦まじい家庭を築けるような人であればよいのだが。容姿はさほど気にしない。十人並みでよいけれど、それより心根が優しく穏やかで、かつ芯の強さを持つ人だといい。年齢は、趣味は……。  いまだ恋を知らないルネ王子にとって、それは物語の中にしか存在しない、未知の世界だった。多くの詩人が言葉を尽くして語るその世界に、自分もとうとう足を踏み入れるのかと、ルネ王子の心は浮き足立つ。だが父王フェルディナ八世の前でそのような感情の機微を表に出せるはずもなく、ルネ王子は努めて平静を装った。 「そうでしたか。して、どの国から……」 「ネヴィスランドだ」 「……はっ?」  予想だにしなかったその国の名に、ルネ王子は思わず聞き返した。 「ネヴィス、ランド……?」  ルネ王子は頭の中で世界地図を開いたが、その小さな国の正確な位置を描くのに、少しばかり時間を要した。ネヴィスランド。それは王子の祖国セヴィーラから遠く離れた、北海に浮かぶ島国だ。  ネヴィスランドの民は、「魔に連なる者」と言われている。つまり、魔族だ。この人間世界と魔の世界とは、紙の表裏のような関係にあり、ネヴィスランドは、魔の世界の住人たちが人間の世界に築いた国なのだ。かつては人と敵対することもあったが、現在では平和的に共存している。「大魔王」と呼ばれる君主によって治められ、農業を主産業とする小国家だ。  地理的に離れているせいもあり、セヴィーラとネヴィスランドにはこれまで一切国交がない。なのでネヴィスランドについてルネ王子が知ることといえば、それくらいだった。 「なぜネヴィスランドが、我が国に縁談などを?」  ルネ王子は戸惑いつつ尋ねた。  通常、王族の政略結婚には、近隣諸国との友好関係を強化する、または敵対していた国家間で和平を結ぶなどの意味がある。しかし全く国交のないセヴィーラとネヴィスランドが縁戚関係を結んでも、互いになんの益もない。 「もっともだ。この縁談には、裏がある」  フェルディナ八世は重々しい口調で答えた。 「ネヴィスランドは、マファルダ王国の外相を通じてこの話を持ってきたのだ」 「な……っ! マファルダ王国の!?」  マファルダ王国。その名なら、耳にしない日はない。セヴィーラ王国と隣国のマファルダ王国とは、不倶戴天の敵同士。国境のとある土地の領有権を巡り、長い間、争い続けているのだ。さして重要でもない土地なのだが、面子の問題で互いに譲歩ができず、両国の長い歴史において幾度も戦争を繰り返してきた。ここ数年は休戦状態にあるものの、一触即発の緊張感が常に両国の間に漂っている。  その敵国マファルダが持ってきた話となれば当然、この縁談には政治的思惑が絡んでいるに違いない。 「近年、ネヴィスランド大魔王とマファルダ国王が親交を深めている事は、かねてより危惧しておったが、」  フェルディナ八世は言った。 「これはつまり、我が国に対してマファルダとネヴィスランドの同盟関係を誇示し、圧力をかけようというのだろう。そして表向きは縁談の形で、人質を差し出せと言っているのだ。我が国が承諾せねば、二国で連合して攻め入るぞ、という脅しだ」 「…………」  ルネ王子がほんの一時胸に描いた、甘い夢。それは瞬く間に黒い絵の具で塗りつぶされた。 「ルネ。婚約をしてネヴィスランドへ行け」  人質。そう言った舌の根も乾かぬうちに、フェルディナ八世は同じ口でルネ王子にそう告げた。  表情を見られぬよう、ルネ王子は殊更深く頭を下げる。父は我が子を人質として敵の同盟国、しかも汚らわしい魔物などに差し出そうというのだ。しかしルネ王子には是非もない。暴君フェルディナ八世の子としてこの世に生まれた日から、その身は所詮、彼の持ち駒の一つに過ぎないのだ。そのことをルネ王子はよく理解していた。 「……畏まりました、父上」 ところがフェルディナ八世はルネ王子の心などお見通しで、口髭の端に老獪な笑みを浮かべた。 「安心するがよい、ルネよ。我が国とて大人しく、二国同盟の傀儡になるつもりはない。ルネ、ここへ来い」  フェルディナ八世はルネ王子を側近くへ呼び、小声で耳打ちした。始めは訝しんでいた王子の表情が、次第に引き締まる。  しばしのち、ルネ王子は王座から離れて再び膝を着いた。 「承知しました。お任せください、父上」 「よく言った。それでこそ我が王子だ」  フェルディナ八世は満足げに頷いた。 「ネヴィスランドではせいぜい愛嬌を振りまいて、奴らに取り入っておけ。事を成すまでは、くれぐれも怪しまれぬようにな」 「はい。――それで、魔族の婚約相手というのは、どのような人物なのですか?」 「うむ」  フェルディナ八世は眉間に皺を寄せた。 「ネヴィスランド大魔王の、長男だそうだ」 「え……っ、『長男』!?」 「魔族の習慣では、同性同士の結婚というのも珍しくないらしい」 「そ、そうでしたか」 「取り急ぎ調べさせたが、どんな男なのか詳しい事は分からなかった。ただ――、次代の大魔王を意味する『魔王』の称号を冠しているが、国民の間ではもっぱら『氷の皇子(アイス・プリンス)』と呼ばれているそうだ」 「氷の皇子(アイス・プリンス)……?」  その名で人柄は知れようというものだ。きっと氷のように冷たく、残虐な暴君なのだろう。ちょうどこの、フェルディナ八世のように。 (そんな男と……!)  ルネ王子は思わず唇を噛みそうになったが、慌てて口元を引き締めた。 「くれぐれも油断するな、ルネよ。相手は魔物だからな」  嫌悪感を露わにするフェルディナ八世の口調に、ルネ王子も頷いた。 「畏まりました、父上」 「ルネ王子! ルネさま!」  退出して自室に戻るルネ王子に、子犬のように駆け寄ってきたのは、従僕のティノだ。 「ティノか。話を聞いたか?」 「はい、先ほど……」 「そうか」 「陛下もあんまりです! こんな不穏な縁談話をルネさまに――!」  ティノは頬を紅潮させ、声高に喚き始めた。 「よせ、ティノ」  ルネ王子は慌ててティノの口を塞ぐ。 「誰かに聞かれたらどうするんだ」  フェルディナ八世の悪口を密告されようものなら、厳罰に処されるのは確実だ。 「で、ですが……!」  ティノはもぐもぐと口を動かした。  従僕のティノはルネ王子の三歳年下の乳兄弟で、幼い頃から王子に仕えてきた、忠誠心の塊だ。 「どうしてルネさまが、魔物などと!」  心を表に出せぬ主君の代わりに、とばかりにティノは憤った。 「いくらルネさまが――!」  あっと小声で呟き、ティノは口をつぐんだ。 「……し、失礼しました」  うつむいたティノの頭を、ルネ王子は優しく撫でる。 「気にするな」 ――いくら、身分の低い妾妃の子とはいえ。ルネ王子はティノの言葉を引き取り、自らの心中で呟いた。  母親を異にするフェルディナ八世の王子六人の中で、ルネ王子は唯一、母が庶民の出自だ。 (母の身分が高い王子なら、こんなに簡単に魔族の元へやられたりしないだろう)  人目がないので、ルネ王子は今度こそ遠慮なく唇を噛みしめた。こんな思いをするのは初めてではない。低い身分のために、自分の存在はこのセヴィーラ王室で軽んじられている。身分さえあれば。十八年間の人生で、そう思うことは幾度もあった。  そこへ、小走りにこちらへ近づく、軽やかな足音が聞こえてきた。 「ルネ!」  美しい壁紙に彩られた廊下の向こうから現れたのは、光り輝く金髪を揺らす、白皙の美青年。ルネ王子が今一番、その端正な顔と優美な物腰を見たくない相手だった。 「これは、クラウディオ兄上」  ルネ王子は恭しく礼を執った。 「久しくご機嫌伺いにも参上せず、失礼を」 「そんな礼など、どうでもいい!」  クラウディオ・セヴィーラ・フェルディナは、ルネ王子の七つ年上の兄で、フェルディナ八世の長男、王の正妃の子だ。 「たった今、話を聞いた。なんということだ。魔族の国へやるなどと!」  クラウディオは力強くも繊細な両手で、異母弟の肩をがしりと掴んだ。 「ルネ。私から父上に意見する。お前を魔族の元へなど行かせないから――」 「お気づかい痛み入ります、兄上」  ルネ王子は兄の言葉をみなまで聞かず、静かに手を払いのけて身体を引いた。 「ですがご心配は無用です。僕は王子として、セヴィーラのためにこの身を捧げます」 「ルネ!」 「あまりお心を痛めませんよう。……では」  ルネ王子はくるりと身を返した。 「ルネ! 私はお前の兄なんだ。もっと頼ってくれてもいいだろう。昔は――」 「兄上」  ルネ王子は肩越しに振り向いて兄の目を見つめ、静かに言った。 「僕はもう、子供ではないのです」  そしてルネ王子は、今度は振り返らず歩き去った。一人残されたクラウディオは、宙に浮いたままの手を握りしめ、寂しげに呟く。 「ルネ……」     あの頃、王宮の庭園では毎日のように、幼い兄弟の笑い声が響いていた。  「こら、ルネ! あまり引っ張るな」  十三歳のクラウディオが笑いながら言うと、六歳の弟、ルネは小さな手を慌てて引っ込めた。そして胡桃のように丸い大きな瞳を輝かせ、クラウディオの手元をのぞき込む。 「お兄ちゃま、それなあに」 「ふふっ。なんだろうな。……そらできた!」  クラウディオは編み上がった花輪を、弟の頭に乗せた。 「わあ!」 「ほら。ルネはお花の王子さまだよ」 「ありがとう、お兄ちゃま!」  花冠の下で笑うルネは、天使そのものだ。クラウディオが膝に乗せて歌をうたってやると、きゃっきゃとはしゃぐ。 「ねえ。ぼく、お兄ちゃまがセヴィーラの王さまになればいいと思うな。それで、ルネとほかのお兄ちゃまたちは、お花のくにの王さまになるの。そしたらみんな、ケンカしなくていいよね?」  無邪気な弟の言葉に、クラウディオは胸を突かれた。王宮の醜い権力争いの声が、これほど幼い弟の耳にまで届いている。  セヴィーラでは、王の長子が次代の王になるとは限らない。王は息子たちの中から、母親の身分に関わらず、実力ある者を後継者として指名する。より優秀な者が国の舵取りをするための仕組みだが、それは同時に熾烈な派閥争いを生んでいた。王宮ではクラウディオの兄弟それぞれを推す派閥があり、互いに牽制し合っている。  クラウディオはいたいけな弟を抱きしめた。 「ルネは、そんなこと心配しなくていいんだよ。みんながケンカしても、お兄ちゃまとルネはずっと仲よしだからね」 「うん。ルネ、お兄ちゃまだーいすき!」 「お兄ちゃまも、ルネが大好きだよ」 (ルネ。この兄がお前を守ってやる。そして、いつか――)  手ずから編んだルネの花冠を、クラウディオは目を細めて眺めた。

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