2 / 19

氷の皇子

「ルネさま。お茶を……」  長椅子に身体を投げ出して、幼かった日々に思い馳せていたルネ王子は、ティノの声にハッとして顔を上げた。 「ああ、ありがとう」  ティノがハーブの茶を注ぐと、甘く柔らかな香りが鼻孔をくすぐる。それがあの日の花の香りを思い出させて、ルネ王子は眉をひそめた。 (兄上にも困ったものだ。いつまでもあのように……。もう、子供の頃とは違うのに) ルネ王子は杯を口元に運んだが、兄のああいう態度が余裕の表れだと思うと、せっかくの茶がまずくなった。  フェルディナ八世は、いまだ後継者を指名していない。しかしクラウディオは、その最有力候補だ。容姿端麗、文武両道、清廉潔白。やんごとなき家柄の正妃の子として生まれ、身分も人柄も能力も、非の打ちどころがない。王宮でも最大派閥を後ろ盾として持っている。 (兄上は僕のことなど、取るに足りない存在と思っている)  身分が低い妾妃の子で、その母すら早くになくした、可哀想な異母弟に過ぎない。後継者争いの脅威にならないと考えているからこそ、ああも友好的でいられるのだ。  ルネ王子は苛立つ心をなだめようと、甘い茶菓子を一つ口に放り込んだ。ふと見ると、茶菓子を並べるティノは、打ちひしがれたような顔をしている。 「ティノ。ここへおいで」  ルネ王子はティノを隣にかけさせた。 「そう嘆くな、ティノ。僕はただ人質になるために、ネヴィスランドへ行くんじゃない」 「えっ?」  ティノは、まだあどけなさの残る顔でルネ王子を見つめた。 「どういうことですか?」  ルネ王子は万が一にも誰かに聞かれたりしないよう、声をひそめて打ち明けた。 「実は父上に、あることを命じられている――」  ティノも、フェルディナ八世から話を聞いた時のルネ王子と同じように、驚きに目を見開いた。ルネ王子は立ち上がって書棚に向かい、何冊かの本を抜き出して素早く目を通した。やがて探していた情報を見つけ、そのページをティノに指し示す。 「うん。この本に記述があるな。ここだ」  それは世界中様々な国の、歴史や文化が記された書物だった。ティノがのぞき込んで見れば、ネヴィスランドのページが開かれて、ある事柄が記載されている。 「へえ。こんなことが本当に……」 「成功すれば大きな手柄だ。そして――」  クラウディオの余裕の笑みが胸に浮かぶ。だがルネ王子は心の中の兄に向け、きっぱりと宣言した。 「セヴィーラの王座は、僕のものだ」  軽く口に含むだけで、それはしっとりととろけた。滑らかな舌触りを楽しみながら、口いっぱいに広がる極上の蜜を味わうと、法悦が脳天までも貫く。えもいわれぬ芳香に鼻孔をくすぐられ、男は歓喜の呻きを漏らした。 「ああ……っ……」  ここはネヴィスランド宮殿の一室。あらゆる者を虜にして離さないその悦楽に、男は真っ昼間から溺れきっていた。 「これは、素晴らしい……」  男は舌なめずりをした。留まるところを知らぬ欲望に身を任せ、さらなる甘美を求めて指先を伸ばす――、その時だった。 「魔王さま!!」 「!!」  突然背後から声をかけられて、魔王さまはビクッと身体を震わせた。 「また、おやつの前にアイスクリームを食べて!」  魔王さまが恐る恐る振り向くと、そこにいたのは側近のアルシエル。地味な灰色のワンピースに包まれた、あまり豊満とはいえない胸の前で腕を組み、小柄な身体で仁王立ちしている。丸眼鏡の下から、緑色の鋭い瞳が魔王さまを睨んだ。 「あ、アルシエル!」  魔王さまは匙を握ったまま慌てふためいた。  目の前の皿には、色とりどりのアイスクリームがたっぷりと盛りつけられている。いずれも国産の果物をふんだんに使った、ネヴィスランドの名物だ。 「そんなにたくさん。お腹を冷やしますよ!」 「ち、違うのだ。俺はその、アイスクリーム管理省大臣として、品質チェックをだな――」 「品質チェックなら少しずつでよいでしょう。食べ過ぎです。だから皆に、『アイス皇子(プリンス)』なんてあだ名をつけられるんですよ」  アルシエルは言った。 「それは俺が皇子で、かつアイスクリーム管理大臣の任に就いているからだ。略してアイス皇子(プリンス)だ。愛称で呼ばれるのは、国民に慕われている証拠だぞ」  胸を張る魔王さまに、アルシエルはやれやれと肩をすくめた。 「ご婚約者のルネ・セヴィーラ・フェルディナ殿下が、あと数日でお着きになるんですよ。太ってしまったらどうするのですか」  「そ、そうだったな」  魔王さまは、いかにも今思い出しました、という風を装って答えた。しかしカレンダーのその日には、ハートマークがくっきりと書かれている。今思い出したどころか、婚約が決まった時から、魔王さまはその日を指折り数えているのだった。 「せっかく婚約までこぎ着けても、ご縁がなかったと言われればそれまでです」  アルシエルはきっぱりと言った。聡明で、黙っていればなかなか美人のアルシエルなのだが、いかんせんその竹を割ったような性格で、ネヴィスランド宮殿ではいろいろな意味で一目置かれる存在だ。 「それは困る! ルネ王子こそ、我が運命の相手なのだ!!」  魔王さまは力強く主張した。  それは数ヶ月前のこと。とある国で、各国の要人を集めて盛大な園遊会が開かれた。多忙な大魔王さまの名代で出席した魔王さまは、会場で見かけたルネ王子に、一目惚れしてしまったのだ。  あまりの可愛らしさに話しかけることもできず、園遊会の間中、ただ遠くから眺めていた。そして後悔した。  ネヴィスランドへ帰国後、大魔王さまのチェス仲間、マファルダ国王が遊びに来たので相談したところ、マファルダ王は仲人役を買って出てくれた。マファルダ王はかねてから、セヴィーラとの無益ないさかいにけりをつけ、友好条約を結びたいと考えていたのだ。これがよいきっかけになるかもしれないと、マファルダ王はセヴィーラに話を通してくれた。 「本当に、幸運でしたね」  アルシエルは、魔王さまのために茶をいれながら言った。 「国交のない国への縁談なんて、本来なら根回しが大変なのですが」 「まったくだ。マファルダ王のおかげで、とんとん拍子に話が進んだ。感謝せねばな」 「ご縁があるのかもしれませんね。でも正式にご結婚が決まるまで、油断は禁物です」 「う、うむ。だが容姿には自信があるぞ!」  魔王さまは姿見の前へ歩いていった。  鏡の中に、神秘的な雰囲気の青年が姿を現す。高貴な色である黒の装束が、よく似合っている。背を流れる豊かで真っ直ぐな髪も、艶やかな漆黒だ。魔族としては少し小柄で細身だが、人間と比べれば大柄の部類に入るかもしれない。顔立ちはむしろ整いすぎて、やや冷たい印象を与えるが、精悍な顔つきであることは間違いない。切れ長の青い瞳など、まさにクールビューティーだ。  魔王さまはふふんと鼻を鳴らし、なかなかの男前だと自画自賛した。 「確かに、なかなかよろしいお顔立ちとは思いますが、」  アルシエルは茶を差し出しながら言った。 「人には好みというものがあります。魔王さまが、ルネ殿下の好みのタイプかは分かりません」 「う……」 「たとえ顔がオッケーでも、童貞の上にデブだったらまずいだろ!」  魔王さまの飼っている黒猫がそう言って、勢いよく椅子に飛び乗った。 「げっ、下世話な言葉を使うな! 純潔と言え、純潔と!」 「はいはい。ニャ~」 「なんだその態度は! 臣下のくせに生意気だぞ!」 「臣下じゃないも~ん。ペットだも~ん」  猫は金色の瞳を細め、腹を見せてひっくり返った。 「くっ」 「魔王さま。やはりご成婚前に、コトを済ませておいてはいかがですか。手配するなら、恥ずかしがらずに仰ってください」  アルシエルが言った。  魔族は性に関しておおらかなので、きたるべき結婚生活のため、あらかじめ経験を積んでおくのが一般的だ。熱心に練習に励む者も少なくない。報酬を取って手ほどきを与える専門家もいる。  だが魔王さまは、結婚するまで純潔を守ると心に決めていた。 「なんでやらねーの? いいじゃん、別に」  猫が前足を舐めながら言った。 「う、うむ……」  魔王さまは少し考えてみたが、やはり首を横に振った。 「必要ない」 「そうですか」  アルシエルもそれ以上は言わなかった。  魔王さまは服の上からそっと脇腹に触れてみた。筋肉はしっかりと固く、逞しく男らしい体つきだ。今のところは。  しかしなんとなく不安になった魔王さまは、食べかけのアイスクリームを片づけた。 (用心に超したことはないな)  カレンダーに目をやると、ハートの印を見るだけで胸が躍る。 (ルネ王子が到着したら、まず何をしよう。ピクニックに連れていこうか。それとも園遊会のような、華やかな催しの方が好きだろうか)  楽しい計画を、あれこれと頭の中に巡らせる。 (とりあえずは、食事会を催さなければ。皆に我が花婿を自慢し――)  胸の中で思わず口走った言葉に、魔王さまは真っ赤になった。 (は、花婿……っ!)  アルシエルは、心ここにあらずの魔王さまを横目で眺めつつ茶を啜る。 (いやいや! まだ正式に決まったわけではないのだ!)  魔王さまは表情を引き締めた。 (かっこいい魔王さまと思ってもらえるよう、頑張らなくては! 魔王のイメージを大切にするのだ)

ともだちにシェアしよう!