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氷の皇子
「ルネさま。お茶を……」
長椅子に身体を投げ出して、幼かった日々に思い馳せていたルネ王子は、ティノの声にハッとして顔を上げた。
「ああ、ありがとう」
ティノがハーブの茶を注ぐと、甘く柔らかな香りが鼻孔をくすぐる。それがあの日の花の香りを思い出させて、ルネ王子は眉をひそめた。
(兄上にも困ったものだ。いつまでもあのように……。もう、子供の頃とは違うのに)
ルネ王子は杯を口元に運んだが、兄のああいう態度が余裕の表れだと思うと、せっかくの茶がまずくなった。
フェルディナ八世は、いまだ後継者を指名していない。しかしクラウディオは、その最有力候補だ。容姿端麗、文武両道、清廉潔白。やんごとなき家柄の正妃の子として生まれ、身分も人柄も能力も、非の打ちどころがない。王宮でも最大派閥を後ろ盾として持っている。
(兄上は僕のことなど、取るに足りない存在と思っている)
身分が低い妾妃の子で、その母すら早くになくした、可哀想な異母弟に過ぎない。後継者争いの脅威にならないと考えているからこそ、ああも友好的でいられるのだ。
ルネ王子は苛立つ心をなだめようと、甘い茶菓子を一つ口に放り込んだ。ふと見ると、茶菓子を並べるティノは、打ちひしがれたような顔をしている。
「ティノ。ここへおいで」
ルネ王子はティノを隣にかけさせた。
「そう嘆くな、ティノ。僕はただ人質になるために、ネヴィスランドへ行くんじゃない」
「えっ?」
ティノは、まだあどけなさの残る顔でルネ王子を見つめた。
「どういうことですか?」
ルネ王子は万が一にも誰かに聞かれたりしないよう、声をひそめて打ち明けた。
「実は父上に、あることを命じられている――」
ティノも、フェルディナ八世から話を聞いた時のルネ王子と同じように、驚きに目を見開いた。ルネ王子は立ち上がって書棚に向かい、何冊かの本を抜き出して素早く目を通した。やがて探していた情報を見つけ、そのページをティノに指し示す。
「うん。この本に記述があるな。ここだ」
それは世界中様々な国の、歴史や文化が記された書物だった。ティノがのぞき込んで見れば、ネヴィスランドのページが開かれて、ある事柄が記載されている。
「へえ。こんなことが本当に……」
「成功すれば大きな手柄だ。そして――」
クラウディオの余裕の笑みが胸に浮かぶ。だがルネ王子は心の中の兄に向け、きっぱりと宣言した。
「セヴィーラの王座は、僕のものだ」
軽く口に含むだけで、それはしっとりととろけた。滑らかな舌触りを楽しみながら、口いっぱいに広がる極上の蜜を味わうと、法悦が脳天までも貫く。えもいわれぬ芳香に鼻孔をくすぐられ、男は歓喜の呻きを漏らした。
「ああ……っ……」
ここはネヴィスランド宮殿の一室。あらゆる者を虜にして離さないその悦楽に、男は真っ昼間から溺れきっていた。
「これは、素晴らしい……」
男は舌なめずりをした。留まるところを知らぬ欲望に身を任せ、さらなる甘美を求めて指先を伸ばす――、その時だった。
「魔王さま!!」
「!!」
突然背後から声をかけられて、魔王さまはビクッと身体を震わせた。
「また、おやつの前にアイスクリームを食べて!」
魔王さまが恐る恐る振り向くと、そこにいたのは側近のアルシエル。地味な灰色のワンピースに包まれた、あまり豊満とはいえない胸の前で腕を組み、小柄な身体で仁王立ちしている。丸眼鏡の下から、緑色の鋭い瞳が魔王さまを睨んだ。
「あ、アルシエル!」
魔王さまは匙を握ったまま慌てふためいた。
目の前の皿には、色とりどりのアイスクリームがたっぷりと盛りつけられている。いずれも国産の果物をふんだんに使った、ネヴィスランドの名物だ。
「そんなにたくさん。お腹を冷やしますよ!」
「ち、違うのだ。俺はその、アイスクリーム管理省大臣として、品質チェックをだな――」
「品質チェックなら少しずつでよいでしょう。食べ過ぎです。だから皆に、『アイス皇子 』なんてあだ名をつけられるんですよ」
アルシエルは言った。
「それは俺が皇子で、かつアイスクリーム管理大臣の任に就いているからだ。略してアイス皇子 だ。愛称で呼ばれるのは、国民に慕われている証拠だぞ」
胸を張る魔王さまに、アルシエルはやれやれと肩をすくめた。
「ご婚約者のルネ・セヴィーラ・フェルディナ殿下が、あと数日でお着きになるんですよ。太ってしまったらどうするのですか」
「そ、そうだったな」
魔王さまは、いかにも今思い出しました、という風を装って答えた。しかしカレンダーのその日には、ハートマークがくっきりと書かれている。今思い出したどころか、婚約が決まった時から、魔王さまはその日を指折り数えているのだった。
「せっかく婚約までこぎ着けても、ご縁がなかったと言われればそれまでです」
アルシエルはきっぱりと言った。聡明で、黙っていればなかなか美人のアルシエルなのだが、いかんせんその竹を割ったような性格で、ネヴィスランド宮殿ではいろいろな意味で一目置かれる存在だ。
「それは困る! ルネ王子こそ、我が運命の相手なのだ!!」
魔王さまは力強く主張した。
それは数ヶ月前のこと。とある国で、各国の要人を集めて盛大な園遊会が開かれた。多忙な大魔王さまの名代で出席した魔王さまは、会場で見かけたルネ王子に、一目惚れしてしまったのだ。
あまりの可愛らしさに話しかけることもできず、園遊会の間中、ただ遠くから眺めていた。そして後悔した。
ネヴィスランドへ帰国後、大魔王さまのチェス仲間、マファルダ国王が遊びに来たので相談したところ、マファルダ王は仲人役を買って出てくれた。マファルダ王はかねてから、セヴィーラとの無益ないさかいにけりをつけ、友好条約を結びたいと考えていたのだ。これがよいきっかけになるかもしれないと、マファルダ王はセヴィーラに話を通してくれた。
「本当に、幸運でしたね」
アルシエルは、魔王さまのために茶をいれながら言った。
「国交のない国への縁談なんて、本来なら根回しが大変なのですが」
「まったくだ。マファルダ王のおかげで、とんとん拍子に話が進んだ。感謝せねばな」
「ご縁があるのかもしれませんね。でも正式にご結婚が決まるまで、油断は禁物です」
「う、うむ。だが容姿には自信があるぞ!」
魔王さまは姿見の前へ歩いていった。
鏡の中に、神秘的な雰囲気の青年が姿を現す。高貴な色である黒の装束が、よく似合っている。背を流れる豊かで真っ直ぐな髪も、艶やかな漆黒だ。魔族としては少し小柄で細身だが、人間と比べれば大柄の部類に入るかもしれない。顔立ちはむしろ整いすぎて、やや冷たい印象を与えるが、精悍な顔つきであることは間違いない。切れ長の青い瞳など、まさにクールビューティーだ。
魔王さまはふふんと鼻を鳴らし、なかなかの男前だと自画自賛した。
「確かに、なかなかよろしいお顔立ちとは思いますが、」
アルシエルは茶を差し出しながら言った。
「人には好みというものがあります。魔王さまが、ルネ殿下の好みのタイプかは分かりません」
「う……」
「たとえ顔がオッケーでも、童貞の上にデブだったらまずいだろ!」
魔王さまの飼っている黒猫がそう言って、勢いよく椅子に飛び乗った。
「げっ、下世話な言葉を使うな! 純潔と言え、純潔と!」
「はいはい。ニャ~」
「なんだその態度は! 臣下のくせに生意気だぞ!」
「臣下じゃないも~ん。ペットだも~ん」
猫は金色の瞳を細め、腹を見せてひっくり返った。
「くっ」
「魔王さま。やはりご成婚前に、コトを済ませておいてはいかがですか。手配するなら、恥ずかしがらずに仰ってください」
アルシエルが言った。
魔族は性に関しておおらかなので、きたるべき結婚生活のため、あらかじめ経験を積んでおくのが一般的だ。熱心に練習に励む者も少なくない。報酬を取って手ほどきを与える専門家もいる。
だが魔王さまは、結婚するまで純潔を守ると心に決めていた。
「なんでやらねーの? いいじゃん、別に」
猫が前足を舐めながら言った。
「う、うむ……」
魔王さまは少し考えてみたが、やはり首を横に振った。
「必要ない」
「そうですか」
アルシエルもそれ以上は言わなかった。
魔王さまは服の上からそっと脇腹に触れてみた。筋肉はしっかりと固く、逞しく男らしい体つきだ。今のところは。
しかしなんとなく不安になった魔王さまは、食べかけのアイスクリームを片づけた。
(用心に超したことはないな)
カレンダーに目をやると、ハートの印を見るだけで胸が躍る。
(ルネ王子が到着したら、まず何をしよう。ピクニックに連れていこうか。それとも園遊会のような、華やかな催しの方が好きだろうか)
楽しい計画を、あれこれと頭の中に巡らせる。
(とりあえずは、食事会を催さなければ。皆に我が花婿を自慢し――)
胸の中で思わず口走った言葉に、魔王さまは真っ赤になった。
(は、花婿……っ!)
アルシエルは、心ここにあらずの魔王さまを横目で眺めつつ茶を啜る。
(いやいや! まだ正式に決まったわけではないのだ!)
魔王さまは表情を引き締めた。
(かっこいい魔王さまと思ってもらえるよう、頑張らなくては! 魔王のイメージを大切にするのだ)
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