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第5話

有雪が上流階級の家の出身だというのは、幼い春国の勘違いであったらしい。  花屋さん、生花店、花卉店は総じてお金持ちが多い。祝い事には必ず花が用いられるし、上流の家と接点が多くなる。幼い有雪が上等な服を着ていたのも、実家の事業が儲かっているからだろう。貴族とは言え、下級でそこまで生活が裕福ではなかった春国とは大きく違った。  助けてもらってから三日が経った。最初はどうしたら良いのかわからず、日がな部屋にいて、簡単な家事を行っていたが、それだけだとすぐに手持ち無沙汰になってしまう。それにここにいさせてもらっている立場であるから、ほとんど何もしていないというのも心苦しい。  安藤花卉店は有雪の母方の実家なのだという。後継者がおらず、閉店しようとしていたところを有雪が継承。それ以来、一人で店を切り盛りしていると教えてもらった。 「私も何か手伝いますよ」 「良いよ、ゆっくりしてなよ、まだ足とか痛いでしょ」  そう言われ、無理やり店舗兼住居の住居の方に押し込められてしまう。それでも店に出てこようとすると、怒られてしまうから、居候のような春国は逆らえない。その後、店が終わってから、ごめんね、でもすごく心配だから、と謝られる。そうなると春国は何も言えなくなってしまう。  このままではいけない。流されるまま、実家の情報もわからず、ここに居座るだけになってしまう。  なので強行手段に出ることにした。  普段、春国は居間で布団を敷いて寝ている。常であれば有雪が寝室から起きてくる音で目覚めるが、今朝はそれよりも早く目を覚ました。  さっと着替えをし、洗顔を済ませると、店舗の奥、作業場の方へ向かう。服は有雪のものを貸してもらっているが、袖と裾が余るので、二重三重に折って使っていた。  まだ朝が早いので人影は少ない。手拭いで耳を隠し、尻尾は服の中に縮こめ、春国は共用の水場へと金桶を三つ持って向かった。  まだまだ朝は寒い。ふう、と息を吐くと、白く凍る。  花屋には大量の水が必要だ。それを毎朝、有雪が汲んでいるのを春国は知っている。  水場へ行き、金属製の注水管を金桶の縁に合わせ、取手の部分を手で押した。  取手の部分は金属製で、この部分も良く冷えている。長い袖を手に巻き込みながら、腰を入れ、身体全体を使って押した。  しかし、水は少ししか桶の中に入っていかない。もう一度、先ほどよりも力を込めて手で押す。結果はあまり変わらなかった。  金桶は三つある。これを全て一杯にしようと思うと、途方もない時間がかかるだろう。  春国は何度も何度も動作を繰り返す。力仕事は得意ではない。けれど、有雪の役に立ちたくて必死で水を汲む。だんだん身体が汗ばんできていた。  半分ほど水が入ったときだった。  小さい男の子が側に立っていた。おそらく母親のお使いで、水を汲みに来たのだろう。  春国の分はもう少し時間がかかる。子供に先に水を汲ませるため、譲ろうとした。 「お狐さま」  真っ直ぐに春国を指差し、子供ははっきりと口に出した。 「あ、えっ」  春国は慌てて両手で頭を確認する。巻いていたはずの手拭いは頭の上にはない。地面に落ちているのが確認できた。  どうやら水を汲むのに一生懸命になってしまって、手拭いが落ちてしまったらしい。  どうしましょう、バレてしまったっ。  こんな子供に春国が狐獣人であることを知られたところで何もないのかもしれない。けれど、子供が家族に春国のことを言って、それを聞いた家族が他の人に広め、最終的には神官たちの耳に『このあたりには狐獣人がいる』という情報が入るかもしれない。   狐獣人は希少種だ。全くいないわけではないが、街を歩けばすぐに会えるというものでもないし、大抵は狐獣人だけで集落を作って暮らしている。人間の街中で育って、神官たちに見染められた春国の方が珍しいのだ。 「違いますっ、き、狐じゃないですっ」  春国はとっさに手で耳を隠し、頭を振る。しかし子供は驚き半分嬉しさ半分という顔をして、春国に近づいてきた。 「耳なんてありませんよっ、気のせいです」 「しっぽもあるんだねえ」 「うああ」  何も考えず、下衣の隙間からはみ出てしまった尾をまた押し込めようとすると、頭から両手を離してしまい、ぴょんと白い耳が出てしまう。 「み、見ないでください、もうあっち行って……」  無邪気な子供は恐ろしい。蹲み込んでしまった春国の側に近づき、笑いかけた。 「綺麗なお狐さま、もしかして神社さんのお嫁さまですか?」  子供の言葉に緊張が走る。  しかし、慌てる必要はない、と思い直した。相手は年端もいかない子供なのだ。適当に誤魔化してしまえば良い。  春国が嘘を考えながら、口を開いた時であった。 「綺麗なお狐さまのお嫁さま、いつも藤白のために祈りを捧げてくださってありがとうございます」  男の子は目を閉じ、少し頭を下げながら、春国に手を合わせた。 「えっと、おかげさまで、また藤白に実りと輝きの春がやってきます、これでみんな飢えずに、一年を迎えられます」  男の子は目を開け、にこりと春国に笑いかける。  この言葉はだいぶ砕けてはいるが、神社や神子に感謝や祈りを捧げる定型的な言葉の一つだ。おそらくこの子の家庭は熱心に藤白神社や神子、狐の嫁入り神話を信仰しているのだろう。  春国はずきりと心が痛むのを感じた。なぜなら春国はこの子の信仰には値しないからだ。  まず春国は婚姻の儀を行っていないから神子ではない。信じていた神社は淫らな儀式を行おうとし、春国を辱めようとした。今もまだ春国を傷つけるために探しているだろう。  山から必死に降りている時、春国は神様などいないのだと絶望していた。神子になるべく、研鑽を積み、教養を重ね、様々な我慢をして、有雪を諦めたのに、いざ神子になろうとしたら、この有様だ。  しかしこの子は信じている。狐の耳と尾を持つから、という理由で春国に手を合わせ、感謝の言葉を贈った。  吐き気がしてくる。怯えたように子供の顔を見て、すぐに目を伏せた。  春国は美しい狐の花嫁ではない。信仰に破れ、惨めに逃げ出したただの愚か者だ。本当に信仰心のある者なら、本来のやり方を聞いても祈りを捧げ、婚姻の儀に臨むだろう。現実に神として祀られている青炎はそういう狐だった。  何も知らず、眩しいくらいの信心をただの狐である春国に向けてくる者に申し訳ない気持ちになる。  春国は何も言えず、地面にうずくまった。   兄のところへ行って、どうなるのか、本当は神社へ戻った方が良いのではないか。 「狐のお嫁さま、本当に綺麗だねえ、目の色がぺかぺかの金色してる、お星さまみたい、お母さんに言うね、井戸のところにお狐さまがいて、ちゃんと祈ったからもう病気は治るよって」 「あっ、待って」  それは言わないでほしい。私がここにいたことは秘密にしてほしい。  春国が顔をあげた時、後ろから頭にふわりと上着が被せられた。 「おはよう康太、お母さんの体調はどうだ?」 「有雪くんっ」  後ろを振り返ると、有雪が立っている。  有雪の問いかけに康太はしょんぼりとした声を出す。 「お母さん、今朝は体調が良くないみたい……、だからあったかい飲み物を飲ませたくて、綺麗な水を汲みにきたんだよ、そしたら井戸のところに綺麗なお狐さまがいたのっ、お母さんにいつも狐の花嫁さまには感謝しなきゃいけないって教えられてるから、お祈りの言葉を言って、手を合わせたんだよ、これでお母さんの具合は良くなるよね?」  またぐさりと来る。神社から逃げ出した春国にそんな力はない。 「そうだな、こんなに綺麗で可愛い狐のお嫁さんに祈ったんだ、きっと良くなるさ」  有雪まで何を言うのだ。冗談なのか、本気なのかわからないが、気にしていることをズバズバと言い当てられ、また緊張してくる。 「だけどな康太、狐のお嫁さんの話は誰にもしちゃダメだ、もちろんお母さんにも、な?」 「どうして?」 「狐のお嫁さんは下で困っている人を救いたくて、秘密で山から降りてきたんだ、だから連れ戻されてしまうと誰も救えないまま帰ってしまうことになる。それだと康太のお母さんも含めて、困る人が出てきてしまうだろ」 「山の上の神社で祈ってるだけじゃ足りないってこと?」  「そうだ、康太は賢いな、だからこのことは俺と康太とお嫁さんの三人の秘密だ」 「わかったっ、狐の花嫁さまありがとうっ」 「あ、あぁ、お母様、お元気になると良いですね」  春国がぎこちなく笑うと、康太は嬉しそうに飛び跳ねた。  有雪に急かされ、康太は小さい木桶の中に水を入れる。そして、有雪は手に持った花束を康太に渡した。 「これ、お母さんに渡しな、喜ぶから」 「うんっ、有雪くんありがとうっ、じゃあねっ、狐の花嫁さまもっ」  手を振りながら見送る。康太の背が見えなくなった後、有雪は低い声を出した。 「話がある、ここはもうすぐいろんな人が来るから家に戻るぞ」 「……はい」  有雪の声は明らかに怒りを孕んでおり、被せられた上着の中で耳と尾がしおしおと項垂れた。

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