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第6話

「冷たかっただろ」 「あ、いやそこまでは冷たくなかったです……」  手を取られ、両手で温められる。傷はほぼ治っており、包帯はもう取れたので、手で直接触れられた。  作業台に有雪が汲んできた水が入った金桶が置かれ、その中に無造作に花が突っ込まれていた。 「なんで耳も尾も丸出しで、外に出たんだ?  誰かに見られるとは思わなかったのか?」 「さ、最初は隠していたんです、けれど水を汲むのに夢中になっているうちに頭から取れてしまって、尾も……出てしまいました」  指をにぎにぎと揉まれ、落ち着かない。 「鈍臭いな」  非難するように告げられた言葉に何も言えなくなった。実際、自分の不注意で耳と尾を出してしまったわけなので、言い訳はできない。 「このあたりは狐獣人がいない、バレたらすぐに神社から神官たちが飛んでくるぞ」 「わかってます……よ、ん?」  今、有雪は神社と言った。神社の話は一切していないはずだ。 「じ、神社って、あの、私、違いますっ」 「最初の日に着てた服ですぐにわかったよ、あれって神事用の衣装だろ」  なぜ有雪が神社の神事用の衣服を知っているのだろう。見たことがあるのだろうか。 「な、なんで知って、ていうかわかってて、私のことを……っ」 「こんな美しくて、世間知らずそうで、神事用の衣装を着てたら、そりゃあ誰でも神子だと思うぜ。俺でなくともピンと来たはずだ」 「あっ」  ぐい、と腰を取られ、春国は抱き寄せられた。 「養子とかも全部嘘だろ、春ちゃんは何かあって神社から逃げ出してきたんだ」 「あ、その……いや」  核心は突いていないものの、ほぼ真実を言い当てられ、言葉の歯切れがまた悪くなる。  真実を言ってしまおうか。そうすれば有雪は春国の力になってくれるだろうか。  しかし有雪をこれ以上巻き込んでも良いのだろうか、と葛藤する。有雪の神社や神様、神話に対する信仰を揺るがしてしまうことにならないのだろうか。 「俺には言えない? そんなに信用できない?」  有雪は心配そうな、だが懇願するような視線を春国に向けていた。それは幼い頃、春国に好きだ、と言った時の視線と似ていた。  信用できないのではない。本当は全て洗いざらい話してしまい、助けて、と言ってしまいたい。 「その、私は……」  決心はつかないまま、口を開く。しかし目線を下に落とし、また黙り込んだ。  抱き留められているので、身体が必要以上に密着している。春国はそれだけで緊張して、胸がドキドキしてしまった。だが有雪は何とも思っていないからこんなことができるのかもしれない。  おそらくこんな風になるのは春国だけだ。有雪は昔のよしみで怪我をして追われていた春国を可哀想に思い、助けただけなのだ。春国の発情にもそこまで反応していなかったから何とも思っていない。  それを考えると、口は自然に閉じてしまう。  春国が黙り込み、俯いていると、有雪に顎を持たれ、無理やり上を向かされた。  目の前、かなり近い距離に有雪の顔があり、吐息に触れられそうなほどの距離に唇もある。 「あ、あっくん……」 「ねえ、春ちゃん」  顔が近づいてくる。避けようとしたが、顔を固定され、腰も強い力で引きつけられ、抗えない。 「口付け、して良い?」  その質問に心臓がうるさいほど高鳴った。 (どうして、そんなことを聞くのだろう)  有雪は春国に魅力を感じてはいない。なのにどうして春国と口付けしたいのだろうか。  それにもう少し顔を動かせば触れられそうな距離にいて、いちいち許可を取ろうとしてくる有雪に疑問を覚えた。  様々な疑問が頭を巡る。黙り込んでいると、ねえ、と急かされ、春国は慌てた。 「は、はいっ……んっ」  有雪と口付けがしたいか、と聞かれればしたかった。急かされたことも相まり、春国は自分の欲を正直に応えた。  有雪の唇が触れ、春国は目を閉じる。待ちわびていた口付け。触れるだけだが、暖かく、柔らかな有雪の唇が春国の唇に接触している。  春国にとっては初めての口付けだ。緊張しっぱなしで身体がかちこちに固まり、動くことができない。だが、初めて唇を捧げた相手が有雪で良かった、と春国は心の底から感じた。  しばらく唇だけを触れ合わせる口付けをしているが、それだけでは足りなくなってくる。もっと有雪に触れたい、有雪に触れてほしい。情欲を伴うその感情に春国は赤面する。神子は役目を終えるまでは性や情欲に溺れてはならない、と定められている。  だがもう神子ではない、と諦めてしまっている自分もいる。そう思うと淫らな欲が心の中を侵食し始める。  もしかして、好きではない春国に口付けをしてくれた有雪は、春国が強請れば口付けのその先もしてくれるのではないか。  感情の伴わない悲しい行為かもしれないが、有雪に抱かれたいという気持ちがどうにも抑えきれそうになかった。触れるだけの口付けをされて、ここまで自分の欲がダダ漏れになってしまうなんて思いもしなかった。 「余計なこと考えてるでしょ?」 「ん、ぁ、いえ、そんなことはありませ……ひゃっ」  いきなり身体が持ち上げられ、驚きで間抜けな声が出た。そして作業台の上に載せられ、縁に座らされた。尾を尻に敷いてしまうと痛いので、横に垂らしておく。 「余計なこと、考えられないようにしてあげよっか?」 「あ、待って……、くださ、い」  ピンと立っている白い狐耳を指で弄ばれると、身体に震えが走る。更に耳元で吐息と共に言葉を吹き込まれると、腰からぞくぞくとした感覚が這い上がってくるのを感じた。後孔が濡れる感覚もある。身体が性的に興奮しつつあるのがわかった。  有雪にこのまま抱かれたい。  でもどうして好きでもない春国を抱こうとするのだ。  有雪が春国のことを好きでなくても構わない。  惚れた男に抱かれたい。  最後の感情が心の中で辛勝した。 「あの、その、私……」  しかし、口に出すのは恥ずかしい。春国はぐい、と有雪の胸元の服を掴む。  有雪の顔が余裕なさそうに歪んだ。男らしい、雄臭いその表情にまた心臓がばくばくと動き出す。  今度は許可を取らず、有雪は春国に口付け、春国は目を閉じ、全てを委ねようとした時だった。 「まだ午前中ですよ、お盛んなことで」  有雪でも、春国でもない男性の声が室内に響いた。咄嗟に二人は声のした方、作業場と店舗を隔てる扉の方に顔を向ける。  閉じられていたはずの扉は開放されており、そこには白いシャツを着た男性が立ち、腕組みをしながら、こちらを眺めている。 「あ、嶺雪っ」  有雪は春国から身体を離し、その男性の方へつかつかと駆け寄った。 「勝手に入ってくるなっ」 「はあ、呼び出してきたのはそっちでしょうが」  男性は白いシャツに地味な茶色のズボンを履き、それをサスペンダーで吊っている。コートは手にかけていた。  有雪に、嶺雪と呼ばれた男性はちらりと春国の方へ視線を寄越し、眉を顰める。春国は慌てて、両手で耳を隠す。尾もピンと立て、背中に沿わせ、見えないようにしたが、もう遅いだろう。 「白の尾と耳、金色の瞳……」  嶺雪の視線に気がついた有雪はぐいぐいと嶺雪の背を押し、部屋から出て行かせようとする。 「見るな、見るな、話なら向こうでしよう、春ちゃん、奥にいてくれ、もう今日は外に出ちゃダメだ」  それだけ言うと、有雪は嶺雪と共に店舗の方を通って住居の方へと上がって行った。  それを見送り、春国は服を整え、作業台からぴょんと飛び降りる。   地面に足がつくと、しばらく放心したようにぼうっとしていた。俯いていると、みるみる涙が目蓋に溜まっていく。  自分は一体、こんな時に何をしようとしていたのだろう。  口付けたことも後悔し始めた。大好きな有雪と口付けが出来て嬉しかったのに、今はもう大変なことをしてしまった、という感情しかない。  それでも唇を拭うことはできなかった。それすらも自分の弱さだと春国は痛感する。  春国はそっと指で自分の唇に触れ、しばらくその場から動けなかった。

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