63 / 107

32

 連れてきたのはいいのだが、肝心のこれからの事について何も考えてなかった。  奈都の心を少しでも埋めてやることが出来れば、少しは奈都も楽にはなるかもしれない。  そう思って誘い出した俺は、一見いつもと変わらない奈都に戸惑わずにはいられなかった。  ――樹海のどこか。  あちらこちらから聞こえてくるセミの声を聞きながら俺たちは比較的日差しの射さない緑の多い場所を歩いていた。 「準一さんって、こうなる前に付き合っていた人とかいなかったんですか」  あたりを見渡し話題を探していたとき。不意に奈都が問いかけてくる。  少しだけ、自分が動揺するのがわかった。 「恋人とか、そういうのは……あんま、そういう余裕なかったしな」  まあ、嘘ではない。  例え気になった子がいたとしても踏み込むようなこともしなかってし、大抵敬遠されて終わった。何か怖い、らしい。目付きかそれともこの声か態度かはたまた全部かはわからなかったが、学生の時に影で女子が話しているのを聞いて以来そういう物事に対して自ら避けるようになっていた。  奈都は意外そうにするわけでもなく「そうなんですか」と頷く。 「でも、大切な人はつくるものじゃないですね。ほんと。家族も、友達も、恋人も、どうせ、皆、いなくなるんですから」  いきなり何を言い出すのか。どこかうわ言のように呟く奈都に俺は思わず立ち止まり、振り返る。 「僕だって、きっと、居なくなっちゃうんでしょうね。こんな山中で、みんなに最後のお礼も出来ないまま」 「……なんで、そんな事言うんだよ」 「わかるんですよ。自分のことは。自分がどうなるかも」  笑みは消え、無表情の奈都は俺の横を通り過ぎとある木に歩み寄っていく。  どこか落ち着いて、それでいてひどく不安定なその言葉にどういう意味だと奈津を目で追ったとき。   ばちりと、電流が走ったような音が響いた。 「っ、」  注連縄を施された大きな木の前。その樹木に触れた奈都の手が赤く滲む。顔は苦痛で歪み、歪な笑みが浮かんでいた。  いつの日か、幸喜に教えてもらった結界のことを思い出す。  舘を囲むよう樹海と外界をぐるりと隔てる謎の結界。それに触れると、痛覚のない俺たちにも痛みを感じることができる。 「おい、奈都、やめろっ!」  そこまで思い出せば、体は勝手に動いた。  指先の第一関節が奈都の手から消える。削れているのか、どうなっているのかわからなかったがこの自傷行為をやめさせるため俺は奈都を羽交い締めにし、慌ててその結界から離れさせようとした。  しかし、乱暴に振り払われる。 「っ奈都」 「準一さん、準一さんは知ってますか?ここを通り抜けてあちらへ行こうとすると体がなくなるんですよ、きえて」  ほら、見てください、とぼたぼたと血を滴らせる不揃いな指先を向けてくる奈都に顔が強張る。  赤く濡れた断面に吐き気が込み上げてきて、それでももう一度俺は「やめろ」と  奈都に懇願する。奈都は泣きそうな顔をして、笑う。 「これ、我慢して向こうに行ったらどうなると思いますか」 「やめろ」 「指、腕、足、お腹、頭、顔、髪の毛の一本残らず消えてしまうんですよ。この中に」  ハハ、と乾いた笑い声を上げる奈都。その顔はやはりどこか焦っているようで、やっぱりこいつにはまだ未練があるんだと楽観的観測を展開してみる。  みるが、この情況を回避するためにはどうすればいいのかなんて即座に思いつくことはできなくて。 「……消える?」  なんとか奈都の気を紛らわせてやりたくて、俺は聞き返す。 「そうです」と奈都は小さく頷いた。 「呑み込まれるんですよ。跡形も無く。ここから出て行こうとすれば。そうやっていなくなった人を僕は何人か見てきました」  奈都の言葉はあまり考えたくないことだった。  結界に阻まれ、消えた幽霊。その後に残るものは何も無くて。  ……まるで何かに似ていると思った。 「成仏」  俺の表情からなにか悟ったようだ。表情から笑みを消した奈都は呟いた。 「これって、花鶏さんたちのいう成仏のイメージと似ていると思いませんか」  その一言にはっとする。  奈都も、俺と同じ考えだったようだ。全身の筋肉が緊張し、自分が怖気付きそうになっているのがわかった。 「……だったら、なんだよ。お前はそんな方法で成仏したいのかよ」 「僕は、もう何も考えたくないだけです。なにも、それを紛らわしてくれるのなら苦痛でも」  いい掛けて、奈都は注連縄を掴んだ。瞬間、肉を焼くような音とともに奈都の手がどろりと溶けたアイスのように形を崩した。  奈都の顔が悲痛に歪み、俺は息を呑む。痛がる知人に自分の事のように胸が痛んだ。 「苦痛でも、構いません」 「違うだろ、そうじゃないだろ、なあ。それなら何で俺を連れてきたんだよ。何か、言いたい事があったんじゃないのかよ」 「……」  俺の言葉に対し無言になる奈都は指の付け根まで飲み込んだ結界に更に手を押し付ける。 「っおい!」 「僕は、準一さんに恨みはありません」  だらだらと脂汗を滲ませる奈都は俺に目を向け、そのまま木に凭れ掛かる。  一瞬奈都の体が大きく跳ね上がり、奈都が遠くなったような気がした。  しかし、それはもしかしなくても奈都の背中が飲まれたせいだろう。 「準一さんには、あの人たちに感化されて欲しくない。僕みたいに、放棄することも」  何を言ってんだよ、お前。そう言いたいのに、止めたいのに、口が、足が、動かなかった。  奈都が本当にいなくなるのを実感したからか、自分自身が狼狽していた。焦っていた。どうしたらいいのか、わからなかった。  それ以上に、むかついた。  言葉通り、すべてを投げ出し俺に不安だけを押し付けていく奈都に。 「準一さんは、本当の成仏の仕方を、天国の場所を見つけ下さい」  掠れた、今にも消え入りそうなか細い声。後頭部が消え、右足が消えていく奈都は泣きそうな顔をして微笑みかけてきた。  だから、俺は――。 「断る!」  無意識か、何かにすがるように付き出した奈都の血だらけの腕を掴み、その結界から無理矢理引っ張り上げた。 「っな、」  慌てたような奈都の顔。  そのまま逃げないように奴の肩を強く掴もうとするが、奈都は抵抗した。 「離してください、準一さんっ」  断面が剥き出しになった奈都の手がぬるりと顔に触れ、俺を引き離そうとする。  その手は想像以上に力強くて、こちらが押されてしまいそうになるのを踏ん張って俺は宥めるように奈都の体を抱きしめた。  厚着に覆われたその体は細く、腕の中に収まるサイズで。 「おい、奈都、落ち着……」  そう、いいかけた時だった。  目を見開き、怯えたようにこちらを見上げていた奈都は俺の肩を掴み、そしてそのまま俺は強く突き飛ばされる。  よろめいた身体。背後の樹木に背中がぶつかり、瞬間、焼けるような激痛が全身に走る。目の前の奈都の顔が青くなり、それでも俺は奈都から手を離さなかった。 「っ、くぅ」 「準一さんっ!」  激痛のあまりに力が抜け、そのまま奈都にしがみつきそうな形になった時、血濡れた奈都の手に抱き起こされる。  準一さん、準一さん、と今にも泣きそうな顔をして慌てて俺の方を揺する奈都。  さっきまで消えたがっていた奈都がこんなに真剣に心配してくれるのがなんだかおかしくて、俺は思わず笑いそうになる。 「準一さん、」 「お前、心配する順番が違うだろ」  手を掴んでくる奈都の指先に自ら指を絡ませ、新たに生えてくる綺麗な指に触れた。  本能には逆らえないということか。すでに傷を修復し始めていた自分の体に、奈都も気づいたようだ。 「……僕は、僕は」  震える声。  相当混乱し、切羽詰まっているのだろう。指を絡めてくる奈都の手に、ぎゅ、と小さく力が入った。 「……存在してる価値なんてありません」 「そんなことない」 「あります」 「それは、お前の考えだろ」 「俺には、奈都がいてくれないと困るんだ」普段なら口が裂けても言えない言葉だが、相手が奈都だからだろうか。  全て本音で語ってくれる奈都だからこそ、素直な気持ちを口にすることができたのだろう。 「悪いけど、俺は目の前で死にたがってるやつを簡単に死なせてやれるほど優しい性格はしていない」  死にたいから、俺を殺してでも死ねばいい。その代わり、その度に俺はお前を止めるから。  言葉にしなくても、伝わったのだろう。  痛みか、混乱か、困惑か。顔をぐしゃりと歪めた奈都の目から涙が滲み、赤く充血したその眼は俺を睨む。 「そんなの、意味分かりません。なんで準一さんが、そこまでしなきゃならないんですか。おかしいじゃないですか」 「そうだよ、おかしいんだよ。目の前で誰かが苦しんでると、こっちまで気分悪くなるんだ」 「それって、エゴじゃないですか」 「エゴだよ、エゴ以外に何があるんだよ」  だから俺は、お前に死なれたら困る。  綺麗事を口にするほどの頭も無いし、気の利くセリフなんて以ての外だ。  自分でも失言だとわかっていたが、こんな事しか言えないのだ。この口は。 「……ほんと、もう、なんなんですか」  ぼろぼろと目頭から溢れる滴を袖で拭う奈都はそう、苛ついたように髪を掻き毟った。  奈都、と名前を呼ぼうとした時、奈都にそっと手を押しのけられる。 「奈都」 「すみません……少しの間、一人にさせてくれませんか」 「……ダメだと言ったら?」 「準一さんが心配するような真似はしないので安心してください」  ただ、ちょっとだけ疲れたので休ませてください。  そう、奈都はか細い笑みを浮かべた。

ともだちにシェアしよう!