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ep.6 ふたつでひとつ

 夜。街全体が寝静まった頃。  いつも決まった時間にそれは始まる。 『ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!』  一階から聞こえてくる罵声と悲鳴。  またやってるのか。こうして、無駄にしている時間を勉強に回せばいいのに、と思いながら俺は手元に置いてあったヘッドフォンを手に取り、頭に被る。  音量を最大にすれば、耳障りな声も破壊音も全部聞こえなくなる。  嫌なことがあれば全てを遮断してきた。見てみぬふりをしてきた。自分は無関係だと言い聞かせてきた。  ずっと、ずっと、これからも、そのつもりだった。  だけど、それはある日を堺に変わった。  泣き声の代わりに、笑い声が響くようになった。楽しそうな、腹からの笑い声。  それでも、罵声と皿が割れる音は無くならない。それどころか日々悪化するばかりで。  しかし、それも長くは続かなかった。  そのうち笑い声は聞こえなくなり、罵声も悲鳴も破壊音も聞こえなくなった。ヘッドフォンはいらなくなった。  その代わりに、夢の中、あの笑い声が響くようになる。  耳障りで癪に障る、あの、笑い声が。  何度も何度も、俺を呼ぶ。 『お前も死ねばいいのに』と。  ◇ ◇ ◇  青い顔をした仲吉を見送って数日。  いつもと同じように昼間がやってきて、電気の通っていない薄暗い屋敷内に太陽の日が射し込む。  今はもう世間は九月辺りだろうか。  カレンダーもないこの屋敷では時間の感覚が麻痺してしまう。  応接室。  屋敷内で一番大きな窓があるそこは昼間、電気がなくても十分な明るさがあり、本を読んで時間を潰すときなど、よくここへ足を運んでいた。  ここに来るのは陽のあたる場所を嫌う他の亡霊たちとの接触を避けるためでもあったが、今日は珍しく俺以外の姿があった。 「仲吉、最近来ねえし」 「……」 「ねえ、なんで?なんで仲吉来ねえの?」 「……」 「あ、こら!準一無視すんなってばー!」  ソファーに座り、足を組んで本を読む俺の背後。  不機嫌顔の幸喜は駄々っ子のように耳元で声を張り上げた。  無視を決め込もうと思ったのだが、あまりの騒がしさに鼓膜がぶち破れそうになり、俺の我慢も限界に達する。 「……知らねえよ、そんなの」  舌打ち混じりにそう肩を掴んでくる幸喜を振り払えば、「あ」と驚いたように幸喜は目を丸くする。 「なにいまの、反抗期?」 「幸喜がうざいからだろ」 「は?俺うざくないから!ははっ!つうか藤也に言われたくねーし!」  いつの間に現れたのだろうか。気付いたら幸喜の隣には藤也がいて、なにが可笑しいのかゲラゲラと爆笑する幸喜とは対照的に不快感を露わにする藤也は「そういうとことか本当うざい」と吐き捨てる。 「あ?なに、藤也お前も反抗期かよ。いいよ?久し振りに仲良く遊ぼうか!」 「仲良い事は結構ですが、やるのでしたら外でお願いします。後片付けが面倒なので」 「……」  藤也の次は、花鶏か。誰もいないかと思えば、次々と現れるやつらになんだかもう寛げる気にもならなくなった。  わいわいと騒ぐやつらを横目に、本を閉じ、立ち上がった俺はそっと応接室を後にした。  奈都がいなくなった。というより、姿が見えない。  ――揉めたあの日を最後に。  花鶏のいう成仏が本当にあるのなら、もしかして。と思ったが、あの調子で奈都が成仏するとは思わなかったし、それよりも、寧ろ。  結界の中、消える奈都の指先が脳裏を過ぎり、背筋が薄ら寒くなる。  残暑の絶えない初秋の空の下。それどころではなくなった俺は気分転換に屋敷を後にした。  結界がある限り、奈都の行動範囲は決まってくる。  ここにいるのは間違いないんだ。  あんな別れ方をしただけに、あのとき奈都を一人にしてしまったことを悔やまずにはいられなかった。そのせいだろう。気が付いたら俺は裏庭にある焼却炉の前にやってきていた。  そういや先日、奈都がなにかを燃やしていたな。思いながら鉄の扉を開き、中を覗く。  薄暗い底には黒い燃えカスが溜まっていて、その中に手を伸ばし、燃えカスを摘む。  薄いそれは少し触っただけでさらさらと灰になり、あっという間に崩れ、形を無くす。固形物ではない、その薄さは紙のような感じだった。  もしかして、と、先日仲吉が持ってきた新聞の記事のことを思い出す。幸喜に奪われたあれは、確か奈都の手に渡っていたはずだ。  だとすれば。 「準一さん?」  そこまで考えた時だった。  不意に、背後から聞こえてきた懐かしいその声に俺は飛び上がりそうになる。 「っ!……奈都?」 「こんにちは。……というより、もう、夕方ですが」  先ほどまで青かった空には、確かに赤が射している。  どこか照れ臭そうにはにかむ奈都知己に、今の俺の顔はは安堵やら困惑やらできっと情けないことになっているに違いない。 「お前、今までどこに」  なんとか振り絞った声はわかりやすいほど動揺していて。  目を見張る俺に、こそばゆそうに奈都は苦笑した。 「あ、あの、そんな怖い顔しないで下さい。……少しだけ、頭冷やそうかと思ってぶらぶらしてただけですよ」 「……そう、なのか?」  まだ、夢を見ているようだった。  まさかまた幸喜が化けて遊んでるのではないか。そう疑いたくなるほど、予期していない再会に動揺を隠せなくて。  そんな俺の気持ちを汲み取ったのか、念を押すように奈都は「はい」と頷いた。 「先日はご迷惑お掛けしてすみませんでした。僕も、少し頭が可笑しくなってたみたいです」  そういう奈都は確かに本人で間違いないようだ。  以前、いや、以前よりもどこか清々しい奈都になんとなく引っかかる。 「別に……可笑しくなんてないだろ。お前は悪くないよ。そこまで好かれてて、その、彼女さんも嬉しかったと思うぞ。……うん」  正直、彼女の安否を気にする奈都の性格は嫌いではないし、寧ろ尊敬するところもある。  だから、自虐的な奈都の言葉は聞きたくない。  しどろもどろとフォローする俺に、奈都は僅かに目を細めた。 「……ありがとうございます」  浮かべていた笑みが、一瞬だがぎこちなく強張るのを俺は見逃さなかった。  そんな様子が気になって、「奈都?」と声をかけたとき。 「準一さんは、優しいですね」  ぽつりと、奈都は呟く。寂しそうな目をした奈都の纏う空気が僅かに冷えたのを感じた。 「準一さんと話していると、なんだか真綾さんのことを思い出します」  不意に、伸びてきた手が俺の腕を掴む。  ゆっくりと辿るように触れる奈都にそのまま掌を握られた。  握手、なのだろう。奈都なりの。一瞬、ぎょっとして後退りそうになるのを堪え、俺はそれを受け入れた。  真綾って、確か、志垣真綾か。  彼女のことを言っているのだろうとわかり、俺は素で困惑した。 「あ、ありがとう……?」  異性の恋人と重ねられて喜べばいいのかわからなかったが、それほど気を許してもらってると思ったら進歩だろう。  その返答に満足したのか、してないのか、ゆっくりと微笑んだ奈都に俺は動けなくて。  あれ、こいつ、こんなやつだっけ。なんて、目の前の奈都知己に違和感をいだきかけたときだった。  屋敷の裏口が開く。 「おや、奈都君。こんなところにいましたか」  聞こえてきたのは、柔らかくも艶のある男の声だった。  驚いて、声のする方を振り返ればそこにはにこにこと微笑む花鶏が立っていた。奈都は俺から手を離す。 「花鶏さん。……お久しぶりです」 「ふふ、お元気そうで。見ない内に、随分と血色がよくなりましたね。まるで、生きている人間のようではないですか」 「言い過ぎですよ」  先程までの笑みは消え、口角を上げただけの愛想笑いで返す奈都に花鶏は「そうですね。言い過ぎました」とにっこりと笑い返した。 「しかし、奈都君とこうしてまた会えることができて安心しました。貴方にまで成仏されたら寂しくなりますしね」  そう言うわりには取り立てて安堵した様子もなく、いつもの調子で奈都と接する花鶏。  リアクションの薄さは元からなのだろうか。それとも、奈都との再会にいちいち狼狽える俺のほうが異常なのか。 「……成仏、ですか」  そう呟く奈都の表情は陰り、以前の奈都の名残を垣間見たような気がした。  奈都は、花鶏たちを信用していない。成仏のことだって、今でも納得したということはないだろう。  なんとなく居心地の悪さを覚えたとき、扉から外へと降りる花鶏はようやくこちらを見た。 「ああ、準一さんもいらしていたのですね。そんなところで話さず中に入ったらどうですか」  どうやら俺の存在に気付かなかったようだ。  それがジョークかまじかは分からないが、一々突っ掛かる気にもなれなかった。  動かない俺に、青々と茂った木で覆われた空を見上げた花鶏はいつの間にかに灰色に淀んでいた空に目を細め、こちらを見る。 「今夜は、荒れるそうですよ」

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