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第8話

半日はかかったのではないだろうか。 そう思うほど道程は長かった。 腹が減ったが、家に帰るまでの辛抱だ。 足を止めれば秦野に捕まる。その思いだけで、俺は実家まで帰ってきた。 秦野のマンションの立体駐車場よりも小さいであろうこのボロいアパートが酷く懐かしく思えた。 息が、上がる。 きっと、俺は、あの男に殺されるかもしれない。どんな目に合うかもわからない。 それでも、母親に会いたかった。 一目だけでもいい、会って、おかえりと伝えたかった。 そのあとは、秦野の言っていた通りに児童相談所に行こうと考えていた。 何故、そう思ったのかは単純明快だ。 このままでは母親のためにならないとわかったからだ。 俺に虐待するようなあの変態が母親と結婚したところで母親は幸せになれないだろう。 それが一時的に母親を傷つける結果になろうと、長い目で見たら別れた方がいいに決まってる。 ……なんで、こんなこと気付かなかったのだろうか、俺は。 秦野は最初からそう言っていたのに、俺は、恐怖により思考が麻痺していたのか。だからこそ、この地獄のような家から離れてわかった。気付いた。 自分もその地獄の一部へ取り込まれていたことに。 日は暮れていたが、まだこの時間帯なら母親はいるはずだ。 俺は、ぐっと固唾を呑み、アパートの階段を上がる。 怒られるだろうか、泣きつかれるだろうか、もしかしたら、捨てられるかもしれない。 それでもいい、会いたかった。 自宅の扉の前に立つ。 俺は意を決してドアノブを掴んだ。 ゆっくりとひねれば、鍵がかかっていなかった。 少し不審に思ったが、あの男はいい加減だった。扉の鍵を掛けずに出かけることも多々あった。 あの男の顔を思い出し、具合が悪くなる。 それでも、それを堪え、俺は、思い切って扉を開いた。 そして、息を呑む。 まず、厭な匂いがした。吐き気を催すような、生ゴミが腐ったような匂い。 電気すらついていない玄関には乱雑に脱ぎ捨てられたあの男の靴と母親のハイヒールがあった。 (なんだ、なんだこの匂いは……) あの男が居座って、部屋のゴミを放置して散らかすことはあったが、ここまで臭くなることはなかったはずだ。 汗が滲む。得体の知れない恐怖に、鼓動が加速する。 俺は、靴を脱ぎ、部屋を上がった。 音一つもしない部屋の中、生活感はあるのに、肝心なものが抜け落ちていた。 (誰も、いないのか) 遠くから近所の子どもたちが遊ぶ声が聞こえてくる。烏の鳴き声が不安を掻き立てた。 一歩、また一歩と進むにつれ、その異臭は強くなる。 頭の中で警報が鳴り響く。 それでも、立ち止まることはできなかった。 立ち止まれば、今度こそ俺は、逃れられなくなる。そんな気がしたからだ。 異臭は、リビングからだった。 微かに 水の音が聞こえてくる。 母親が使ったあと、よく水を出しっぱなしになっていたことを思い出す。 額から流れ落ちた汗がぽたりと足元に落ちた。 呼吸を整える。 俺は、なるべく匂いを意識しないように口で呼吸をしていた。 何も考えるな、そう己に声をかけながら俺はリビングの扉を開いた。 そして、目を瞑る。 テーブルの傍、床の上にうつ伏せになった母親がいた。 ……それは、母親だったもの、というべきなのかもしれない。 一瞬、目に入った絨毯の上の紅い染みを見て、瞬時に理解する。 全身から、力が抜け落ちるようだった。 目の前で広がるのは俺が、最も危惧していた光景だった。 酒に溺れ、理性を無くすあの男がいつか何かしらをしでかす気はしていた。 けれど、それが、自分ではなく、母親に向けられた。 急激に体温が引いていく。 不思議と、頭の中は落ち着いていた。まだ、夢を見ているようだった。混乱していたのかもしれない。 俺は、その場から動けなかった。 だから、あいつが背後にいたことにも気付けなかったのだ。

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