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秦野の話。
雨崎湊は、世の中の全てを諦めたような顔をした生徒だった。
まるで亡霊のように佇み、誰とも関わらないように本を読んでいた。
痩せ細った体に、制服の下から覗く痣。
「虐待でしょうね」と、一年のとき雨崎を受け持っていた教師は口にした。
「何故児童相談所に相談しないのですか」と言えば、「雨崎がそれを望んでいないからです」とその教師は言う。
変な話だと思った。
何もわかってないなとも思った。
あの教師は最もらしく言葉を口にするが、本音は面倒なのだ。気付かないフリをするのが一番楽だと判断しただけだ。
雨崎の家は、シングルマザーというやつだ。
水商売の母親と二人暮しで、いつも夜はいないという。
母親に殴られているのかと思ったが、そうではない。
三者面談のとき、雨崎の母親と会ったときの印象は雨崎に対して申し訳なさを覚えてる様子だった。それから、恥ずかしそうに終始落ち着かない様子で話していたのを思い出す。
雨崎の母親は、自分が雨崎の母親であることをプレッシャーに感じていたのだろう。
それと、己の職業に対する後ろめたさを覚えている。
けれど、対する雨崎は堂々としていた。
雨崎は母親のことを尊敬していた。大好きだった。唯一の肉親であることを誇りに思っていた。その母親に対する雨崎の態度は、とてもじゃないが暴力を振るわれてる子供のそれではない。
それにこの親が家庭内暴力を振るうとは思えなかった。
どうも納得行かずに、何度か雨崎の家に訪れたこともあった。
そのとき、雨崎の家に出入りする男の存在を知ったのだ。
体格がよく、髪を染め、派手なアクセサリーをつけて柄もののスーツを着た男は気質ではないとすぐに分かる。住宅街よりも、歓楽街にいる方が似合ってる水商売男。雨崎の母親の恋人なのだろう。よくある話だ。
母親としてのプレッシャーから逃げるため男に走ったはいいが、その相手が悪かった。
あの男が、雨崎に暴力を振ってるというのはすぐにわかった。
あの雨崎のことだ、母親にもそのことを相談できずにいられなかったのだろう。
それならば雨崎に相談を持ち掛けられるように仕向ければいい。
そう思い、何度も雨崎と仲良くなろうと試みたが、やつの心の壁は並大抵のものではなかった。
拒絶だ。一人でいるのが好きというレベルではない、あいつは、立ち入られることを恐れている。
これ以上踏み込むのはよくない。
えこ贔屓のせいで雨崎がいじめのターゲットになっては本末転倒だ。
だから、俺は表向き雨崎に関わるのを辞めた。
それでも、時間あるときは雨崎の様子を見ていた。
雨崎は日に日に憔悴していく。
誰一人そんなことも気付いていない。
本当は俺にしか見えないのではないか。そう思うくらい、雨崎の影は薄くなっていくのだ。
事件が起きたのは何がいいのかすらわからなくなった頃だった。
雨崎の母親が倒れた。仕事場で倒れたということで、学校に連絡が入ったのだ。
俺は、雨崎を母親が運び込まれたという病院へと運んだ。
そこには、あの男がいたのだ。
「先生、どうもすみません、わざわざ。あとは俺が見とくんで大丈夫ですよ」
人良さそうな笑み。甘い声。
部外者のくせに、と喉元まで出掛かった言葉を飲み込む。
母親のそばから離れない雨崎を見て、俺は折れる。下手にこの男を煽って、余計雨崎の暴力が激しくなるのは避けたかった。
せめて、決定的な現場を抑えることができれば、そう思いながら、一旦俺は、「それじゃあ失礼します」と頭を下げて病室を後にした。
あいつの母親が倒れたとなると、あいつはどうなるのだろうか。
一人で過ごすのだろうか。と思ったが、あの男の表情からして、雨崎をほったらかすつもりはないようだ。
ふと、病室の中へと目を向けたとき、あの男が雨崎の肩を抱いてるのが見えて、心がざわついた。
いや、まさかなと、思ったが、まるで女を口説くように耳元に唇を寄せるあの男に、小さな背中を震わせる雨崎に、良からぬ想像が思考を過る。
そして、俺の最悪の可能性は的中した。
体調不良だという雨崎と、その電話にあの男が出たのが妙に頭に残っていた俺は授業を終え、あいつのアパートに足を運んだ。
プリントを届けるという名目であいつのアパートの前に車を止めようとしたときだ、あいつの部屋の窓のカーテンが開いていた。
そこから、見てしまったのだ。あいつが窓際であの男に抱かれているところを。
瞬間、全身の血液が熱した鉛のように血管を巡る。頭に血が昇る。
あの生白い肌が真っ赤に染まり、濡れたような黒いが乱れ、乱れるあいつから目が離せなかった。
ほんの一瞬のことだったのに、長い時間過ごしたようだった。
気付けば、渡す予定のプリントを握り潰し、俺は車の中で己のものを無心で扱いていた。
あいつが受けていたのは暴力とかいう生易しいものだけではない、まだ未熟で出来上がっていない心身を、あの男にグチャグチャにされていたのだ。
怒りにも似た興奮が込み上げた。
教室の中では澄ましていたあの雨崎が感じてるのが酷く目に焼き付いて、離れない。
子供に、それも、一回りも年下の相手に、三度射精した。
俺は、雨崎の家に行くのをやめた。
行けるはずもなかった。その日からだ、雨崎の夢を見るようになったのは。
扉を叩けば、決定的な現場を抑えることができたはずだ。
それなのに、扉を叩けなかったのは、乱れる雨崎をもっと目に焼き付けたかったからだ。
あの白い体がのたうち回るのを遠目に見て、それを思い出して、また勃起する。
「彰は、教師に向いていない」
雨崎にそんなことを言われる度にドキリとする。
あのときのことは雨崎にバレていないとわかっていたが、それでも、自分の中に芽生えた後ろめたさが被害妄想を掻き立てるのかもしれない。
「けど、色々勉強になったよ」
例えば、そうだ。俺自身のことをよくわかった。俺が教師に向いていないこともだ。
だから、辞めることにも抵抗も名残惜しさもなかった。
雨崎は「勉強教える人間が今更学んでどうするんですか」と手厳しいことを口にする。
本当は、「それにお前にも出会えた」とか言いたかったが、雨崎はもう興味失せたのか本を読み始めていたので言葉を飲んだ。
婚約を取り付けたというのに、雨崎の態度は相変わらずだった。
照れ隠しもあるのかもしれないが、そんな素っ気ない雨崎が夜は乱れまくるというだけで興奮が収まらないのでそれはそれで不満はない。
それに、後少しだ。
スケジュール帳を開く。
雨崎の18歳の誕生日まであと一ヶ月を切っていた。
こいつが卒業したら、国外へと移住する計画も立てていた。
前々から上場企業ではあったが、ここ数年で波に乗り、海外まで展開する話も上がっていた。
そして、そのときは支社長を一任するとも言われていた。
数年前ならば父親は絶対俺に会社を任せようとはしなかったが、雨崎との結婚のため気が狂ったように仕事に打ち込んだお陰だろう。
俺はそう遠くない夢のハネムーン計画を立てながら、今晩はどのように雨崎を抱こうか考えていた。
以前は雨崎が抱いてくれというまで手を出さなかったが、最近は、俺が雨崎に触れてもあれほど嫌悪感を顕にしていた雨崎が借りてきた猫のように大人しくしてくれるのだ。
多分切っ掛けは俺のプロポーズだ。
それからというものの、毎晩雨崎と体を重ねていた。むしろそのために働いているような気すらした。
中学の頃から妙な色気のあるやつだと思ったが、高校になればそれはより顕著になる。
毎日三食ご飯を食べさせていたため、中学の頃よりかは肉付きもよくなった。
身長も伸び、すらりと伸びた手足や透き通った肌、鼻立ちから「モデルみたい」と道行く人に言われることもあれば、実際にその手のスカウトを受けることもあった。
その度に俺がNGを出していた。
勿論そんなことをせずとも雨崎は嫌がるだろうがそれでも、年を重ねるたびに立派な美青年に成長する雨崎を見てると心臓が持たない。
けれど、中身はいつだって厭世家な雨崎だ。
そしてこいつは、俺から逃れられない。
俺がいないと、生きていけないのだ。一ヶ月後には、戸籍すらも手に入る。そう思うと、酷く胸が高鳴った。
俺の事を一度は拒絶した雨崎が、今は俺の言うことを聞くのだ。それも、逃げようともせず。
こんな夢のようなことがあるのだろうか。
本を読んでいた雨崎の肩を抱き寄せる。
雨崎はこちらを睨み、それから、溜息混じりに眼鏡を外す。
雨崎が眼鏡を外した時、それはOKの合図だ。
口では言わないそんなところも堪らなく愛おしかった。
俺は、その薄い唇に自分の唇を重ねた。
『雨崎少年の悪夢とその要因について』
END
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