73 / 73

第73話

 いま、自分たちが離れるのは将来のためだ。ふたりがこれから先も、一緒に生きていこうと決めたからだ。これまでの日下だったらそんなことは絵空事だと、信じることはできなかっただろう。  目を閉じて、口づけを交わす。愛おしむように、互いの身体を抱きしめる。  窓の外からクラクションが聞こえた。引っ越しのトラックが出発する時間だ。  日下は徹の胸に手をつくと、思い切ったように彼から離れた。 「ほら、もういけ」  数歩後ろに下がり、柔らかな光の中に佇む徹を眺める。あの小さな子どもが立派な大人になった。日下にとっては自慢の甥で、かけがえのない大切な恋人。  不安がまったくないと言ったら嘘になる。だけどきっと大丈夫だ。たとえ一時的に離れたとしても、徹とふたり、この先もやっていける。日下はそう信じることができた。  いつの間にか自分が微笑んでいたことに、日下は気づかなかった。徹がはっと見とれたような表情を浮かべた後、照れたように微笑み、数歩で日下に近づいた。その手を握り、そっとキスをした。 「いってきます」  やがてはにかむような笑みを浮かべた後、身を翻すように部屋から出ていった。玄関が閉まる音が聞こえ、徹が乗った引っ越しのトラックが私道から遠ざかるのを、日下は窓辺に佇んだまま見送る。 「さあ仕事だ」  窓を閉め、空っぽになった徹の部屋から出る。玄関の鍵を閉め、金木犀の木の下に止めてあった花園画廊のバンに乗り込み、車のキーを回した。パワーウィンドウを下ろし、バックで私道を出る。遠くの空で、トンビの鳴き声が聞こえた。 了

ともだちにシェアしよう!