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第三十話 逆鱗
もうすぐ夜が来る。兄が、いつもならとっくに帰って来る時刻を過ぎても今日は帰って来ない。それを両親に言ったら、外泊すると連絡があったと聞かされた。凛にとっては由々しき事態。
「ありえないよッ! そんなのッ……」
そう叫ぶみたいに訴えても両親は終始ニコニコと笑いあって、穏やかだった。凛の気持ちなど知らない父の涼介なんかは、
「愁も、ようやくお年頃になってくれたんだねぇ♪ 」
などと、脳天に雷がつきささるようなことを言ってくれて、特に嬉しそうだった。
「場所は、わかるんだッ! だったら……」
頭の電源が落ちて両親に何を言う気も無くなった凛は、一人兄を探そうと弦の切れたような勢いで家をとび出そうとしたが、
「ダメだよ凛ちゃん♪ お兄ちゃんの恋路を邪魔しちゃ……」
母の細腕に首根っこを掴まれ、軽々と持ち上げられ、
「わゎッ!? か、母さん、でも兄さんがッ……」
制止された。首をかしげて凛を見上げる母は、
いつもと変わらないやさしい笑顔、
「ねっ? 」
だが胃がいくつあっても足りない凄味みたいなものを肌にひしひしと感じさせられた凛。
「うッ……は、はぃ……」
「うん♪ じゃあ、良い子の凛ちゃんには、
美味しい晩御飯の後にデザートも付けたげるね♪ 」
この時ばかりは外に出る事を諦めるしかなかった。晩御飯の後、母が凛の為に用意してくれた凛の好きなケーキ屋さんのティラミス、それに
ガトーショコラもチーズケーキも濃厚ミルクプリンも、いつもと変わらず美味しいはずなのに、
凛には何故だかいつもよりも味気ないものだった。
あれから何度かけても兄は電話に出ない、出ないどころか折り返しもない。時間とともに募っていくイライラ。
デザートの後、とりあえず二階に上がって躊躇なく兄の部屋の扉を開け、ベッドに横になった。それから、兄の香りがする枕に顔をこすりつけ心を
落ち着かせる。
「なんで……」
ボソリと呟く凛。寝転がり天井の方に仰向けになって、両手で掲げたスマホの液晶画面を凝視しても着信履歴は無し。
“もぉぉぉッ……なんでかけてもこないんだッ!? いつもならすぐ出るはずなのにッ! ”
落ち着かない。鼻翼をくすぐる兄の残り香も今や絶望を甘く煮つめたシロップのような香りに感じる。
“それもこれも全部ッ! ぜーーんぶっ!!
僕から兄さんを奪った年増の泥棒猫のせいだッ!! ”
理由は一週間ほど前、凛の恐れていた事態が突如として現実になってしまったから。興奮は抑えられず怒りで震える手には液晶画面に、めりめりとヒビが入りそうな力がこもる。
“僕が油断しなきゃ……こんなことッ……僕が、
もっとしっかりしてたら……”
「くぅッ……」
頭の中では記憶が、あぶり出しのように浸み出てくる。
夏休みの前のある日、兄が山奥の鄙 びた
喫茶店 日向で働くことが凛の知らぬ間に決定した。その三日後、凛は兄に異性関係の脅威がないかの確認と、ウエイター姿の兄を堪能したく日向に赴いた。
“あの日、店の奥に篭もってて顔も見えなかったし、兄さんからは年上のマスターだって聞いてたし……”
広い客室は見回しても数えるほどの客、その
客層にも脅威は一切感じられなかった、
“しかもお客さんも、お年寄りばっかりだったし……なによりッッ!! ”
更に客席まで案内してくれた兄の、普段とは違う
黒と白のコントラストのくっきりしたウエイター服を着こなす姿に、
“黒いベストに細いスラックス……黒ネクタイ……
白いワイシャツ……兄さんが、まるで僕の好きなマンガに出てくる執事さんみたいでッッ……あんなの反則だよ……カッコ良過ぎて……”
瞳を細めて恍惚と眺め入ってしまった。そして
兄の姿を昼過ぎまで堪能し、フワッフワな玉子の食感が最高なサンドイッチやバターとシロップ
たっぷりで、フカフカの食感がヤミツキになる
パンケーキを兄の奢りで味わわせてもらった凛は、眼もお腹も満足して帰ってしまった。
“僕を満喫させて帰らせるなんてッ! 卑怯で
姑息なテクニックを使う年増ッ……きっと兄さんも巧みな話術で騙されてるんだッ……僕が油断したせいで……”
ここ数日、何度あの日を思い返したかわからない凛は、今も枕の両側で拳を固く握り締めて指の肉に爪を立てながら悔やんでいる。
カーテンの隙間から光がくさびのように差し込んできた。そんな時間になっても兄は帰って来ない、
「ん……ふゎ……兄……ひゃ……ん……朝がえりなんて……ゆるせな……」
握り締めていた手にも力が入らず、
「ぼくが……いちば……ん……好き……なのに……」
意識が夢とうつつの間をぼんやりとさ迷う凛は
、とうとう眠気に逆らえなくなりまぶたを閉じてしまった。
優しい感触に頭を撫でられている。凛の身体は無防備な安らぎのうちに寝起きの猫のように長々と伸び、
「んー、気持ちぃ……ん……に……にいさ……ん……? 」
意識が戻る。ぱっちりと目覚めたのは、カーテンの隙間から差し込む夕陽の名残がほとんど消え、もうすぐ夜が来そうな頃。はじめに瞳に飛びこんできたのは床に座り、ベッド脇に肘を置いて頬杖をつきながらニコッと甘く微笑む愁がいて、
「ふふっ……おはよ♪ もうすぐ晩御飯だってよ、凛。」
寝起きに相応しい、いつものやさしく柔和な声でそう言って、あやすように頭を撫でてくれている。
「にッ……兄さんッ!! なんでここにッ……」
「なんでって……んー、一応、俺の部屋だからかな? 」
愁が眼の前にいることの嬉しさに顔を見れた
安心感と、
「そうじゃなくてッ! あーーッ!! もぉッッ!! 」
嫉妬、怒り、とにかく凛の心の中で色んな感情が一気に湧き上がり混ざりあって燃料となり身体をベッドから起き上がらせた。
「うわッ!? 」
勢いを殺さず愁に飛びかかった。
驚きの声と共にフローリングの床に勢いよく倒れる二人。
「心配してたんだッ! 僕に連絡もなくどっか
泊まるなんてッッ! 電話も出ないしッッ!! それに凄くッ……すごーーくッ寂しかったんだからッ!! 兄さんのバカッ! バカッ! もぉ……バカッ! 」
床に仰向けに倒れた愁の腰に跨る凛は文句を叫びながら、その胸をぽかぽかとグゥの手で叩き続ける。兄は降参するように両手を軽く上に挙げた。
「いたっ、痛いよ凛ごめんって、謝るから……ねっ? 」
凛の体重程度なら簡単に撥ね除けることも出来るし、どうとでもなるはずなのに愁はされるがまま困り顔で愛想笑いを浮かべている。
「むぅぅぅッ……」
馬乗りされ叩かれても優しい愁を見ていると、
コショウのような少しの後ろめたさが凛の心を
ビリッとさせ、腕から力が抜けていく。
握りしめて硬かった凛の拳はすっかりほぐれ、今まで叩いていた愁の胸を癒すように柔らかな手の平で撫でながら、
「兄さんの……バカ……」
ため息のように呟き、胸の真ん中にぽすっと頬を着地させた。
「心配かけてごめんね、許してくれる? 」
「今度からは絶対連絡……父さん達だけじゃなくて、僕にも……あと、僕の着信にも絶対出ること……」
「うん、気をつけるよ」
「昨日から何回も鳴らしたのに……ホントに寂しくて、兄さんになんかあったんじゃないかって
僕、不安になったんだよ……」
「ごめん、お仕事の時、振動にしてて……昨日はそのままだったから、気付けなくて……」
「もう……そんなの、ポケットに入れてるんだから、震えたら分かるじゃないかっ! 」
凛が強めにそう言って、胸の上から猫が獲物を前に対象をしっかりと見るような視線を向けると、
「えッ!? あ、あぁッ……そ、そうだねッ!
ちょっと兄ちゃん昨日は、その……ボーッとしてたかもだからッ……」
やたらと早口で喋る愁。軽く上げた両手はそのまま、あからさまに赤くなっていく顔を覆い隠し、隙間から見える愁の眼も凛から少しずつ逸れていく。
「兄さ……ンッ!? 」
初めて見た愁の取り乱しよう。何かがおかしいと思った途端、嗅覚が妙な違和感を覚える。
「すん……すん……ッッ!? こッ、これ……うちのボディソープの匂いじゃない……」
愁の匂いにしっとりと混じる嗅ぎ慣れない甘い香り。愁の態度。着信の振動に気付けなかった状況とは……
「ハッッ!!? 」
凛の頭の中で、それらがぐにぐにと絡まりあって想像もしたくない予想が、ぱっと稲妻のように閃いてしまった。
「ひょ……ひょっとして……に、兄さん……
その……よその家で、ズボン脱いだ……の……? 」
コクリ……
弟の質問に、愁は両手で顔を覆ったままゆっくりと頷いた。
「ひッッ!!!? 」
下の階まで響きそうな短な悲鳴。誰かと付き合った経験など皆無な凛にとって、恋愛のお手本は
フィクションの中にしか無かった。その中でも好きな作品の登場人物達の恋愛は決まってのんびりとしたものが多く、交際が始まってもキスするまでのシチュエーションに進展するまで中々に時間がかかる。
「り……凛……声、大きッ……」
現実でもそんなものだと思っていた凛。せいぜいが手を繋いだり、好きな映画を一緒に見たり、
美味しいご飯を食べたり……それだけでも十分に腹立たしいのだが、肉体的なコミュニケーションまではクリスマスくらいまで猶予があると思っていたし、それまでに愁を取り返そうと考えていた。
「まままままままま……まさか泥棒猫……じゃなくて……こ、こ、恋人さんと兄さ……お、お、お、
大人な関係にッッ!? 」
「あぅ……う、うん……」
コクリ……
凛の予測の全てを飛び越えた愁は再び頷く。その両手で覆っても隠れきれていない赤面のはにかみを見せつけられ、凛の心臓は激しく動悸しだす。
「そ、そ……そんな……あ……」
突如として現れ兄を掻っ攫った歳上の泥棒猫。
映画や小説であれば、そんなキャラが出てきても結局のところ真に愛し合う二人は結ばれる。
これは恋愛の試練だと考えるようにしていた凛。愁の眼を醒まさせ、泥棒猫から愁を取り返したら自分と愁の仲は加速し、兄弟の壁なんて一気に超えて結ばれる甘いハッピーエンド。
「あ……ぁぁ……」
甘かった、自分の予測が甘々過ぎて凛の視界は
グラついて、
「兄ちゃん、ちょっぴり大人になりました……
なんて、ふふっ♪ 」
「ぁ……あ……ぐぅッ……」
「こういうこと言うの、結構恥ずかしいね……って凛ッ、どうしたのッ!? 」
顔には悔しさがいっぱいだった。
それと同時に心の中に爆発的に広まるのは炎。
収まりそうだった嫉妬や怒りが一瞬で燃え上がるそれはさっきまでとは比べようもなく、触れれば逆に冷たく凍てつきそうな程に青く鉄すら焼き切らんばかりの炎。
「なんでもない……なんでもないよ、兄さん……」
「そ、そう……だったら」
悪鬼のようにゆがむ心とは裏腹に凛はにっこりと愛嬌こぼれる可愛い笑みを口元に浮かべ、
「あっ、そうだっ♪ 僕ぅ、兄さんにお願いがあるんだけどぉ、聞いてくれる? 」
「え……と、いいけど……ぁ……」
愁の声を遮り、甘えるような口調で言いつつ、
そのしなやかな四肢を糸のようにして押し倒した愁の身体、知らない香りを纏う身体に絡ませ、
“ごめん……兄さんッ……どんな奴か知らないけど、僕が必ず助けてあげるからね……”
「り、凛、ちょッ……あは……くすぐったいったら……ぁ……」
「いいじゃない兄弟でしょ、僕らは……♪ 」
「ん、そ、それでお願いって……」
「えへへ……えっとねぇ……」
自分の匂いで上書きするみたいにこすりつける。
“可哀想な兄さん……僕が油断せずにしっかりと兄さんを見張ってたら……年増のおじさんに騙されることなんか……兄さんの気持ちをもて遊ぶだけじゃなくて……身体まで……絶対に許さない……許さない……許さない……許さない……許さない、許さない、許さない、許さないッ、許さないッ! 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないッッ!!! ”
心を占めているのは寸分の揺るぎもない決意。
決行は明日。最早、凛の炎を消す事は誰にも出来ない。
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