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第百八十八話

 峠道沿いの小さな駐車場には、二台の赤が 静かに並んでいた。  深く艶を沈めた紅。夜の気配をまだ残すような色の一台。  そして、もう一台――  少しだけ明るく、朝の光を受け止める赤。  到着してから少し時間が経っていて、エンジンはどちらもすでに冷え始めている。  駐車場には落ち葉ひとつない。  テラスへ続く木の階段も、広い板張りの床も、きれいに掃き清められていた。  開店準備は――とうに終わっている。  『日向』の入口から駐車場の端まで、冬の朝の空気を白く染める長い列が、すでにできていた。  その列は女性達だけではなく、若い男性もいれば、落ち着いた年配の姿も混じる。  テラス席には石油ストーブがいくつも焚かれ、席数分のブランケットも整えられていた。  そこでは、水汲みの帰りらしい老人たちが、 穏やかな顔で腰を下ろしている。彼らの姿が見られるのは、この早朝の時間だけだ。  昼や夕方には、ほとんど姿を見せない。  山の上の水場へ向かい、帰りにここへ立ち寄る――それが、長年続いた彼らの日常なのだろう。  誰かを目当てに訪れているというよりも、この場所そのものが、日々の流れの一部になって いる。  そんな人たちへの感謝を込めて、葵が決めた ひとつの決まりがあった。  足腰の弱い年配客は、列に並ばなくてもいい。  朝だけは、最初に店へ案内される。  葵が決めた“朝の優先”という少し珍しい決まりも、ここでは当たり前のように受け入れられていて、並ぶ客たちは自然に順を譲り合っている。  そんな優しい列のあちこちでは、小さな会話が絶えなかった。  「愁くん、さっき通った時やっぱりかっこよかったよね♪」  その声に、隣の女性がすぐに頷く。  「ね。でも、新人の玲真くんも良くない?  あの雰囲気」  「分かる。ちょっとツンとしてるのが逆に 新鮮でさ♪」  自然と、三人で顔を見合わせて笑った。  「……あの二人、並んでると絵になるよね」  少し落ち着いた声がこぼれると、  「分かります。なんか距離感がちょうどいいっていうか」  「あ、私も! 見ててキューってする感じ」  さっきまで別々に並んでいたのに、会話が静かに繋がっていく。  「良い組み合わせだと思いません?」  少し年上の女性の言葉に、  「分かります。ああいう、愁くんが玲真くんを……なんて感じの関係、好きかも♡」  「ふふ、私は受け止めてる愁くんという方が気になりますけど」  「あら……♡ そっちですか」  思わず小さく笑いが漏れた。  少し離れたところでは、  「涼風さん、今日も綺麗だったな……」  その呟きに、隣の客が小さく頷いた。  「ですよね。自分、あの笑顔目当てで並んで ます」  「……マジで?」  思わず顔を見合わせる。  「厨房にいる時間の方が長いのに、たまに出てくると全部持ってかれる」「それそれ。分かる人いて安心した」  自然と、会話が続いた。  「今日は九条様、私たちのテーブルに来てくださるかしら……」  小さく零れたその声に、  「来てほしぃ……近くで、お声を聞きたぃ……」  「ええ……あの“んふふ”って、美を含まれた 笑い方……」  思い出しただけで、思わず背筋が伸びる。  「さっきも通られた時、空気が変わった気が した……」  「うん……あの人、なんか……すごいです よね……」  三人は自然と声を潜め、少しだけ姿勢を 正した。  「ね!ね!さっき凛くん、笑って手振ってくれたよね♡」  少し弾んだ声に、  「玻璃さんもだよ。控えめだったけど」  「あー、でもああいうとこ可愛いよね♪」  「うん。なんか、癒される♪」  頷き合いながら、自然と空気がやわらぐ。  三十分ほど前、列の横を通過していった六人の余韻が、吐く息の白さと混ざり合って、静かに 漂っていた。  今では、ここに並ぶ多くが顔見知りだ。  挨拶を交わし、冗談を言い合い、まるで小さな集まりのように肩を寄せ合っている。  まだ扉は閉じていない。  それでも、この場所だけが、すでに一日の中心のような、かすかな熱を帯びていた。  ――そんな穏やかな空気の中で。  ふと、誰かが声をひそめた。  「ねぇ……また聞こえない?」  列の前の方で落とされたその一言に、数人が 小さく顔を上げる。  「昨日もしたよね。朝早く……ドン、って」  「工事かなぁ。裏の山、木でも切ってる とか?」  「でもさ、機械の音って感じじゃなくない?」  「うん……なんか、もっと鈍いっていうか……」  「木が折れるみたいな音、しなかった?」  くすり、と小さな笑い。  けれどその奥に、説明のつかないざわめきが 残る。視線のいくつかが、無意識に店の裏山へ 向いた。  冬の山は静かだ。  風もなく、鳥の声も遠い。  何も――聞こえないはずなのに。  それでも、ここ数日奥の方から微かに届く音があった。  鈍く、重く。  まるで、木が折れるような。  あるいは――何かがぶつかり合うような。  今もまた、その余韻だけが、空気の底に沈んでいる気がした。  誰も、その正体を知らないまま。  閉じた扉の向こうでは、穏やかな開店前の時間が静かに流れ。  そして、山の奥では――  まだ朝の熱が、消えきらずに残っている。

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