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第百八十七話

 薄い窓ガラスを、ぱん、ぱん、と小さな音が 叩いていた。  朝六時。  まだ冷たい早朝の光が、古びた部屋の中へ淡く滲み込んでいる。  すき間風に混じる外気は、夜の名残を引きずったまま、わずかに冷たい。  玲真は片手に甘いドーナツを持ち、ぼんやりと齧っていた。  砂糖の甘さが舌に残る。  卓袱台の上には、湯気を立てるインスタントの珈琲。  (――来たな♪)  小さく息を吐き、手にしていたドーナツを一度だけ見下ろす。  それを卓袱台の上のマグの縁へ、そっと のせると、まだ温かい珈琲の湯気が立ちのぼり、丸い穴をくぐって白く揺れる。  甘い匂いと、苦い香りが混ざった。  「……今行くよー♪」  誰にともなく呟く。  窓を叩くその音は、もうすっかり日常だ。  玲真はそのまま台所へ向かう。  棚の上に積まれた猫缶のひとつを手に取り、 指先にほんのわずかだけ力を込めた。  ――パキュ。  乾いた軽い音が、静かな部屋に弾ける。  そのまま窓辺へ歩み寄り、木枠の窓を横に 滑らせた。  ひやり、と朝の空気が頬を撫でる。  外では、茶トラの猫が先の曲がった太い尻尾をゆらゆらと揺らしながら、まっすぐ玲真を 見上げていた。  ぴんと立った愛らしい耳。  丸い蜜色の瞳。  まるで最初からここにいるのが当然だと言わんばかりの顔。  「にゃ♪」  小さく弾む声。  玲真はまだ少し眠気の残るまま、口元を ゆるめる。  「……おはよ、マロン♪」  窓枠に腰を下ろすと、マロンは待ちきれない 様子で太ももへ顔を擦り寄せてきた。  柔らかな毛並みが、布越しにくすぐる。  「食いしん坊だな、おまえは」  苦笑しながら缶詰を置くと、ひげがぴくりと 震え、次の瞬間には夢中で顔を埋めていた。  小さな背中が、規則正しく上下する。  玲真はそれを黙って見下ろし、そっと手を 伸ばす。  触れる寸前、ほんのわずかに指先の力を 抜いた。  少しでも力を込めれば、この柔らかな命は簡単に壊れてしまう。  それを、知っている。  本来なら命を裂くために使うはずの手が、今はただ、毛並みを乱さぬよう形を変えている。  指先が、ふわりと頭に触れた。  撫でるというより、確かめるように。  壊さぬよう、崩さぬよう、空気をなぞる みたいに。  「にゃ……にゃ……」  甘える声が、撫でるたびにこぼれる。  その柔らかな震えが掌に伝わり、胸の奥まで あたたかくなる。  「あはは……♪ 慌てずに食べなよ。たくさんあるから」  笑い声は、ノイズを生まず少しだけ軽い。  もっと撫でていたい。  この温かさに、もう少しだけ触れていたい。  そんな静かな朝の幸福が、胸の奥にゆっくりと満ちていき――  「玲真。マロンにご飯あげるのはいいんだ けどさ」  背後からの声に、ふっと現実へ引き戻された。  振り向かなくても分かる。  姿見の前に立つ玻璃の声だ。  白いシャツに黒いベスト。整ったスラックス。  仕上げにストライプのネクタイを締めながら、鏡越しにこちらを見ている。  「早く準備しなよ。遅れちゃうよ?」  少し呆れた声音。  玲真は小さく息を吐いた。  「……あー……今日は体調、あんまり――」  言いかけたところで、玻璃がくすっと笑う。  「ふふ。今朝も面白い冗談だね♪」  鏡の中の自分へ視線を戻しながら、  「お腹が空く以外で、玲真が体調悪いなんて ありえないでしょ?」  きゅ、とネクタイを締める音。  整った結び目に満足したように、軽く頷いた。  「ほら、早く着替えて。葵さんたち来ちゃうよ」  その声を聞くたび、胸の奥が少し重くなる。  玲真は窓辺のマロンをもう一度だけ撫でた。  「……はぁ」  やわらかな体温が指先に残る。  名残惜しさを小さなため息に変え、ゆっくり 立ち上がった。  マロンは気にする様子もなく、尻尾を揺らし ながら夢中で缶詰を食べ続けている。  その無防備な背中を見つめ、ほんの少し目を 細めた。  「いいなー、マロンは……」  呟き、窓枠から離れる。  壁の一角に埋め込まれた造り付けの収納。  濃い茶色の木目――安っぽい化粧シートが朝の光を鈍く弾いている。  観音扉を開けると、細いハンガーポールに 掛けたシャツがかすかに揺れた。  一枚を手に取り、袖を通す。  布が肩に落ちる感触。  順にボタンを留め、襟元を整える。  次にスラックスを取り、片足ずつ通す。  布地が脚に沿い、裾が足首へ落ちる。  腰まで引き上げ、ベルトを締めると、現実が 少しだけ近づいた気がした。  手にしたネクタイを首に掛ける。  最初は愁に締めてもらったそれも、何度か繰り返すうちに、指が自然と形を作るようになった。  結び目を整えながら、また小さく息を吐く。  「……はぁ」  働くことが、好きではない。  けれど――嫌い、というほどでもなかった。  『日向』に立てば、その日のうちに給料が 出る。しかも世間の相場より、ずっと高い額だ。  食べ物に困ることもないし、下の階の結生 婆ちゃんへ、ささやかな菓子を返す余裕さえで きた。  それに――  まかない代わりにもらえる、甘いドーナツ。  舌に残るあの甘さを思い出すと、少しくらいは頑張る気にもなる。  だが。  「……なんで、あそこの客は……」  思考が、そこで止まる。  苦手なのは仕事じゃない。  客だ。  人が嫌いなわけじゃない。  けれど、玲真の整いすぎた顔立ちも、細く均整の取れた体も、放っておかれるはずがなかった。  声をかけられ、距離を詰められ、連絡先を聞かれ、気づけばデートの誘いがいくつも積み上がっている。  ここ数日だけでも、数えるのが面倒なほど。  ――あれの方が、よほどきつい。  (……まぁ、全部すっぽかすけど……)  小さく肩を落とし、姿見の中の自分へぼやく。  「……なんで、あいつらは平気なんだ……」  その隣に、玻璃が静かに並んだ。  「またそれ言ってる。 客室担当が嫌なら、代わってあげるから――」  言い終わるより先に、  「……いや、いいよ」  即座に遮る声は、思ったより強く響いた。  玻璃の眉が、わずかに寄る。  「なんで? 僕だって一通りはできるんだけど」  小さくむくれた横顔。  それを直視できず、玲真は視線を逸らす。  そして――  ぽつりと落とした。  「……玻璃に、他の誰かが近づくの…… なんか、やだ」  言った瞬間、自分でも意味が掴めなかった。  けれど。  その一言だけで、玻璃の頬が、ふわりと赤く 染まる。  「……そ、それって……」  続きが出てこないらしい。  目の前で、玻璃の喉が小さく上下する。  呼吸が浅くなっているのが、わかる。  視線を向けようとして逸らし、逸らしたはず なのに、また戻りかける。  落ち着かない指先が、わずかに震えていた。  ――そんな反応をされるとは、思っていな かった。  部屋の空気が変わる。  さっきまでの朝の軽さが消え、代わりに、甘く重い静けさがゆっくりと沈んでいく。  玲真もまた、何も言えない。  自分で口にしたはずの言葉なのに、その余韻の意味を、まだうまく掴めずにいる。  沈黙だけが、ふたりのあいだに静かに積もっていく。  ――そのとき。  外から、低い排気音が近づいてきた。  乾いた金属の震え。聞き慣れた、独特の響き。  シルビアS15のマフラー音。  その現実的な音が、張りつめかけた空気を 鋭く切り裂いた。 ***  カン、カン――と。  少しだけ重たい足取りで、玲真は玻璃の後を 追って階段を降りた。  古びた金属の踏み板は、冬の冷えをそのまま 抱え込んでいる。  靴底から伝わる硬さが、落ち着かない心を無理やり現実へ引き戻した。  吐いた息が、白くほどける。  夜と朝の境目みたいな、薄い群青の空気の中。  アパートの前に、赤い車体が静かに停まって いた。低く構えたシルエット。冷えた街の色の中で、その赤だけが妙に鮮やかに浮いて見える。  助手席の外には愁が立ち、背もたれを前へ倒していた。後部座席に乗り込みやすいよう、一度 わざわざ降りたのだろう。  二人に気づき、振り向いて笑う。  「おはよう、二人とも」  冬の空気を少しだけ和らげる、明るい声。  「おはようございます、愁。 ……毎朝、すみません」  玻璃は小さく頭を下げた。  「いや、別に――ん?」  その顔を見た愁が、首を傾げる。  「玻璃……体調悪い?」  (――やっぱり、玻璃……なんか変、だよな。)  そう思った瞬間、玻璃の肩がぴくりと揺れた。  「な、なんで? ぼ、僕は別に何もないよ」  声が少し上ずっている。  愁が半歩近づく。  「でも、顔が赤いから熱でも――」  「なっ、なんでもないよッ! ちょっと壁に 顔ぶつけただけ!」  思ったより大きな声だった。  誤魔化すみたいに視線を逸らし、そのまま 運転席へ向ける。  「あ、あ、お、おはようございます、 葵さん!」  不自然なくらいの笑顔。  運転席から、ひらりと手が振られる。  「おはよう、玻璃くん♪」  ハンドル越しに笑う葵。  数日しか経っていないはずなのに、もうずっと前から知り合いだったみたいな距離感だ。  玻璃は逃げるように後部座席へ滑り込み、前のヘッドレストに手をかけて葵と何か話し始める。  その様子を横目で見ながら、玲真は少し遅れて愁の前に立った。  「玲真――」  改めて向けられる声。  「あ、あぁ……おはよ」  落ち着いたつもりだったのに、声はわずかに 上擦っていた。愁の視線が、ふっと細まる。  「なんだよ……人の顔ジッと見て。 なにかついて……」  そう言いながら頬へ触れると、指先にじんわりとした熱があった。  「いや、玲真も赤いから――」  その一言で、心臓が不意に跳ねる。  「なっ……!? お、俺は別に」  変な声が出た。言い訳の続きを探す前に、言葉が霧みたいに消える。  (……落ち着け。なんだよ、これ……)  熱が頬に集まっていくのを、自分でも止められない。  誤魔化すように後部座席へ身体を入れかけ――  ふと、思いついたみたいに声を落とす。  「……そんなことより! あとで、また付き合えよ」  愁の視線が、わずかに柔らぐ。  「……ああ、いいよ。でも少しだけね。 十分くらい」  その一言で。  胸の奥に溜まっていた、形にならないざわつきが――ぱちん、と弾けた。  さっきまで頬にまとわりついていた熱も、 意味の分からない落ち着かなさも、全部まとめて、どこかへ押し流されていく。  「あはは……やった♪ 約束ね」  自然と、声が軽くなる。  愁はそれを見て、小さく笑った。  何も言わない。  ――全部、分かっている顔で。  甘いまかない。  手渡される金。  そして――それ。  接客がどれだけ気疲れしても、結局『日向』へ向かってしまう理由。  助手席のドアが閉まる音。  次の瞬間、エンジンの振動が静かに身体へ伝わる。横では玻璃と葵が、映画の話題で楽しそうに笑っていた。  乾いたマフラー音が、冬の早朝を細く震わせる。 シルビアS15は、まだ眠っている街路を ゆっくりと走り出した。  ――『日向』へ。  背もたれに体重を預けながら、玲真は流れて いく外の色をぼんやりと眺める。  十分。  それだけでいい。それだけあれば、さっきの 妙な熱も、全部どうでもよくなる。  胸の奥に残った灯りだけを抱えたまま、玲真は静かに目を細めた。

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