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第22話 過ち

数日間、稽古を続けた。 明日はリハーサル。 今日は最後の稽古。 嶺緒さんはこの日俺と一緒には帰ってくれなかった。 この数日間で、嶺緒さんは見違えるほど良くなった。でも逆に言い返せば、マゾヒストらしくなったとも言える。 本当に嶺緒さんにとってこうなることが良かったのか、俺にはわからない。 でも嶺緒さん自身に少しミステリアスな雰囲気でなく、儚くて壊れそうな雰囲気が纏ったような気がした。 自身の帰り道で今日の出来事を思い出す。 『一緒に帰ります?』 『...今日はやめておくよ。』 嶺緒さんの不安そうに揺れる目、帰るタイミング、何をとっても俺には不審に思えた。 いつもはああは言わない。いつもならもっと...。 悶々としながら部屋をぐるぐる回っていると飼い猫のタロがキャットタワーから不思議そうに俺を見下げる。 いつの間にか部屋から元カノの荷物がなくなってだいぶスッキリした家は、タロと俺の2人っきりの家になっていた。 「俺はきっとタロと死ぬまで2人で生きてくんだろなぁ〜」 手を伸ばすと俺の気持ちもしれないタロが遊んでというように手をペチペチとパンチする。 すると、マナーモードになった携帯が突然震え出し、タロも音に驚くようにキャットタワーのさらに上へと登っていった。 画面には“北尾さん”の文字。 何だか嫌な予感がする。 「はい、石黒です。」 電話に出ると吐息混じりの北尾さんの声が携帯から鳴る。少し妙だ。 「石黒くん?よかったら僕の家に嶺緒を迎えにきてくれない?」 「え?」 一瞬理解できず間が開く。 嶺緒さんなんで北尾さんちにいるんすか? 聞きたい気持ちをめいいっぱい抑える。 「言いたいことは色々あるだろうけど、結構緊急でね。君にしか頼めないから...、よかったら抑制剤も買ってきてくれないかな、市販でいい。」 俺の気持ちを察した様に言葉を返す。 嫌な予感が的中してしまった。 抑制剤、何のために買うのか、想像すればすぐにわかる。 今回のショーはヒート状態で開催する予定のショーだ。ちょうど嶺緒さんの発情期が来てしまったんだろう。 でもそれが何だってαの、しかも北尾さんちで起こるんだ。 絶対にそういう関係にならないと信じていた嶺緒さんと北尾さんが一緒に居るなんて、何がどうなってんだか....思考はぐるぐると絡まって行くだけだ。 無駄な事を考えるのはやめて財布と携帯をポケットに突っ込むと乱雑に家の鍵を閉めては飛び出した。 北尾さんから送られてきた家の住所を頼りに向かう。勿論道中で薬も買った。 歩いていける距離だけどタクシーを呼んだ。 到着するまでの車内で、俺はまた2人がどんなふうに過ごしたのかなんて嫌な想像して首を横に振った。 北尾さんちのマンションについて、インターホンで数秒手が止まったまま部屋の番号をおせずに、また頭に嫌な想像がよぎる。 2人の間に何か間違いが起きていないでくれと願いながらインターホンを押すと、無言のまま自動ドアだけが開いた。 部屋は17階。 エレベーターが嫌に長く感じる。 その間も勿論頭は雑念だらけだ。 エレベーターが開くと、数m歩くと北尾さんの部屋だ。 インターホンを押すと、暫くしてゆっくりと部屋の鍵が開く音がした。 恐る恐るドアを開くと玄関口でしゃがみ込んでる嶺緒さんが顔を上げる。 「ごめん、石黒、迷惑かけて。」 潤んだ瞳は子供のようで、赤く熱った頬と少し不規則な息が嶺緒さんの体調を示している。 俺は慌てながらも廊下の誰かに見られてないか確認してはドアをしっかり鍵まで閉めた。 「石黒くーん、奥まで入って。水取りに来てくれないかな。」 部屋の奥から聞こえる北尾さんの声に、嶺緒さんを避けて靴を脱いで部屋に入るとキッチンで頭を抱えた北尾さんが俺にグラスを押し付けるように渡した。 北尾さんもずいぶん嶺緒さんの発情に当てられているようで、息も上がって苦しそうに見えた。 「抑制剤飲ませたら僕のベットに連れてって。部屋はあっち側だから。」 キッチンの対角にあるドアを指すと、ため息を吐きながら椅子へと座り込む。 「はい。」 聞きたいことは色々あるが、あの状態の嶺緒さんも放置できるわけもなく、薬を飲ませると体を重そうに持ち上げる嶺緒さんに付き添って薬が効くまで北尾さんのベットで寝かせる事にした。 嶺緒さんは寝室で1人、俺と北尾さんがリビングで2人っきりになった。 「北尾さん。」 「分かってるよ、説明するよ。」 北尾さんは仕方がなさそうに状況を話し始めた。 ── いつも通り、すぐに店を出た。 僕は無駄な時間は嫌いだからだ。 嶺緒もだいぶマゾヒストっぽくなってきた。 明後日の本番を迎えるには上々だろう。 貞操帯が、嶺緒の棘を無くしたんだと確信した。 僕の段取りが良かった。 だが僕は棘のある薔薇が好きだった。 今の嶺緒は雨雲の下で露に濡れて美しい紫陽花のように憂の中でも美しさがある。そんなしおらしさがある。でも棘も激しい色彩も無くなってしまった。 触れないからこそ、側に飾っていたかった。 それに気づいたのは今日のこの出来事があってからだ。 家についてすぐに風呂に入る。 外から持ってきた汚れを落とすのが僕の日課だ。 風呂の鏡を見て、自分の肉体が美しいままでいるか、衰えはないか、チェックしながら汚れを落とす。 薔薇を引き立てる美しい花瓶でなければいけない。僕はあくまで嶺緒という主役の引き立て役として最大限に発揮するつもりでいる。 嶺緒との稽古で刺激的な毎日になった以外、変わらないルーティンは僕を安定させていた。 『〜♪』 マンションのチャイムの音。 僕は宅配業者を呼ぶような買い物はしていないはずだ。 疑念を抱いたままインターホンを覗くと、見覚えのある黒い服の男が立っていた。 落ち着きなさそうに下を見つめていた男とインターホン越しに目が合う。 間違いなく嶺緒だ。 満足に水滴も拭き上げていない髪の毛に熱くて来ていない上着、首にかけたままのバスタオル。 僕は完全に風呂上がりで、何の用かと嶺緒を迎えいにく格好ではなかった。 「珍しいお客さんだね、とりあえず入りなよ。待ってるから。」 オートロックの扉を開くと返事もなしに嶺緒はカメラから消えていった。 今日厳しくやりすぎただろうか? 怒っているのか、少し様子の変な嶺緒にこの時僕は気づくべきだったかもしれない。 『ピンポーン』 部屋の前のチャイムの音。 何の用事か分からないままドアを開けた。 ドアの隙間からその空気が嶺緒と共に舞い込む。 冷ややかな空気を思わせない甘い香りに、僕の心臓は脈打った。 嶺緒はヒートしていた。 嶺緒にだけ集中して研ぎ澄まされた目が、赤い頬と不規則な吐息を敏感に捉える。 「嶺緒...!」 「ごめん、ダメだって分かってんだけど、これ外して。早く触りたくて、もう我慢できそうにないんだ。」 αの家にヒート状態で来るなんて、何を考えているんだと叱責したかった。 すべきだっただろう。 ドミナントとしては貞操帯を外すつもりは毛頭ないし、今後のショーのためには、今ここにいるヒートして性を吐き出せずにいる淫らなΩをそのまま出した方が客は湧くだろうとも思う。 せっかくの色っぽさを失わせるなんてするわけがない。 だが、北尾一として、αとして、本能として、今ここで貞操帯を外してやる事も、目の前で自慰をさせる事も、自分のものにする事もできる。 同時に易々と高嶺の花が手に入ってしまいそうな状況にがっかりもした。 僕のやりたかった事はこういう事じゃなかった。 あまりに安易に手に入りそうな状況に興が冷めてしまった。故に冷静にもなれた。 冷えた頭で、嶺緒を玄関に置いたままリビングへと戻った。 少しでも距離を置いて、ヒート特有の香りから逃げた。 息は上がってモノは今すぐにでもセックスできるように立ち上がっていた。 Ωのヒートは本当に恐ろしい。 自分の自我が本能に負けそうになる。 額に汗が滲んで、息は上がって、視界は一方的に狭くなり、頭は嶺緒のことでいっぱいになる様支配された。支配者(ドミナント)の僕が、だ。 一呼吸おいて、石黒くんの電話番号にコールした。 僕じゃこの状況をどうにもできないと思った。 嶺緒も随分追い詰められていたのか、ヒートで正常に判断出来なかったのか、そんな状態の僕と嶺緒2人では絶対にいい方向には行かないと思った。 石黒くんが居てよかった。 今の僕はそう思える。 ── 「なるほど....、北尾さんも半分巻き込まれたって感じなんすね。」 「まさか嶺緒がそんな大胆な事するとも思ってなかったからね。ヒートのせいとは言え、αの家に来るなんて...。」 最近の嶺緒さんは少し変だった。 嫌に素直というか、本当に棘が無くなったっていうのがしっくり来る表現だ。 ただ、マゾとして役が板に付いただけかと思っていたが、今回の件で少し精神的に弱っているんじゃないかと俺は心配になった。 「最近の嶺緒さん、なんか無理してるんじゃないかって。」 言いかけた俺に被せるように北尾さんが話した。 「僕もね、今日の嶺緒を見て少し思ったよ。多分僕達とは関係のない何か別の事に悩みがあるのかもしれないな。」 思えば嶺緒さんの私生活なんてまるっきり謎だ。 キャストとは私的な関わりは殆ど持たないし、自分の話を自らする人でもないし。 俺らキャストから見ても、あの人はいい意味でも悪い意味でもデルタのNo.1キャストの白川嶺緒以外の何者でもない。 嶺緒さんの事を良く知っているとすれば、思い当たるのは泉さんかタツさんくらいだ。 「泉さんかタツさんにこの事....。」 「いや、辞めておこう。僕らはただ明後日のショーを上手くやって、イプシロンにいつも通り戻る。それだけだよ。」 被せる様に言葉をきる。 北尾さんがやけに消極的だ。 「嶺緒さんの事好きじゃないんすか?」 「好きだよ。でも愛とは違う。僕はこの通り支配的だ、人を愛するなんてできる人間じゃない。その上で嶺緒を鑑賞するのが好きなだけだよ。彼の傷は見たいとは思わない。」 「案外臆病なんすね。北尾さんって。」 好きって、痛みも全部愛して好きなんじゃないんだろうか。と思っているのに、この人といると自分の好きの概念を逆に疑いたくなってくる。 叶わないってわかってるし、多少諦めもしてるけど、それでも嶺緒さんには俺の横でなくても幸せに笑ってて欲しいな...なんて思う。 今嶺緒さんが笑えてないんなら、助けてあげたい。でもあの人を救うのはきっと俺じゃない。 思い当たるとしてもタツさんか泉さんで...タツさんはもう結婚してるし、泉さんはフラれたって噂流れたばっかだし...。 「もぉ〜どうすりゃいいんだ〜!!」 「うわっ、急に大きな声出さないで。びっくりするだろ?」 「だってーー!!」 子供の様に行き場のない感情を北尾さんにぶつける。 北尾さんの両肩を掴んで振り回していると、ガチャリとリビングのドアが開く音が聞こえる。 「ごめん、だいぶ落ち着いた。」 すまなそうな顔で目線を落とした嶺緒さんが入ってきた。 先程まで笑顔だった北尾さんの表情が消えスッと立ち上がると、何をするのかつかつかと嶺緒さんに寄っては腕を掴み乱暴に引き寄せた。 「αの家にヒート状態で来るなんて何考えてんだ。」 いつもニコニコ笑ってる北尾さんが本気で怒ってる。あまりに珍しい事に空気もピリピリとして俺もただ静かに聞いていた。 「ごめん...。」 「嶺緒は自分の強さに自信があるかもしれないけど、あくまで君はΩだ。僕があのまま君を襲う事だって出来た。もっと行動を弁えるべきだ。」 「...北尾のいう通りだ。自分のことでいっぱいだった。ごめん。」 一瞬の静寂が部屋をかける。 はぁ、と北尾さんのため息が静寂を破ると、後ろの俺に目を向ける。 「分かったならいいよ。石黒くん今日は助かったよ。よかったら嶺緒を家まで送ってあげてくれないかな。」 いつもの柔らかい話し方に戻ると、ゆるりとした笑顔も取り戻した。 「うぃっすー。嶺緒さん帰れそうっすか?」 「うん。ほとんど何も持ってきてないからね。」 嶺緒さんも申し訳ないんだろう。北尾さんの表情を叱られた猫の様に上目遣いに伺うとしゅんと肩を小さくして北尾さんに背を向けた。 ぶが悪そうにすると、お邪魔しました。と小さな声で呟くと北尾さんのが玄関のドアを開けて廊下まで見送る。 俺はぺこと頭をさげると、見送る北尾さんを背に嶺緒さんと一緒に帰った。

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