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番外編 1-5 blood.

情けない俺は吸っていたタバコも投げ捨てて、キスをした。随分と情けない顔を見せたんだろうと項垂れると、キッチンの床に投げ捨てたタバコがじくじくとフローリングの白い木を焦がしていた。 俺はタバコを拾い上げると、気持ちを切り替える暇もなく押し迫る時間を確認しながらスーツに着替えて家を出た。 いつもとは違う、カチッとしたスーツが腿や脹脛を締め付ける。 規範に則るように、髪は全て後ろに流して襟を正す。 とっても嫌な気分だ。 今日は嫌な事が立て続く。 この後も嫌なことが起こることは、予想がついていた。 俺はこの後俺が一番この世で嫌いな、井上家の、俺の実家に帰る事になっていた。 休みをとってまで帰る実家は、伝統と規範、古い風習を残したα同士の結婚でのみ受け継がれて来た今では珍しいαの純血思想の強い家系だ。 俺は井上家では不成者扱い。 親父の跡も継がず、ふらふら遊びまわってる俺は、井上家には居場所がない。はずなのに、こうして毎年呼び出される。 タクシーで1時間、都会から少し外れた住宅街で壁で囲まれた広い敷地の家。 見るからにセキュリティの高そうな壁の内側に俺の家がある。 家の前でタクシーを降りると、門の前で見慣れた人影が俺を待っていた。 「おかえりなさい、兄さん。」 優しく、そよ風のような澄んだ笑顔を見せるのは俺の弟の明臣だった。 「...ただいま。調子は?」 この家には帰って来たくなかったが、明臣は俺の大切な弟で俺が世界で一番大事に思っている唯一の家族だ。 億劫そうに家を見つめる俺を見て、明臣は困ったように眉を下げた笑顔を見せた。 「はは、まぁまぁかな。兄さんは...、なんだか辛そうだ。」 笑みで細めた目を少しだけ広げると、俺とは色の違う薄い瞳が覗く。 俺と明臣は異母兄弟だ。 「色々あってな。」 タバコに火をつけて、ふうと吹き上げると、明臣が困ったような表情で周りをキョロキョロと見渡す。 「兄さん、うちで煙草は.... 「ダメなのは知ってる。わざと吸ってんだよ。俺はこのまま行くからな。」 煙草厳禁な井上家の敷地を、タバコを咥えて気怠げに歩く。 家の者に見つかれば、叱責されるのは間違いない。庭で作業をしている使用人達が驚いた様に俺を見ると、明臣はその視線に居た堪れない気持ちで俺の隣を歩いていた。 俺は自分を曲げる気はねぇ。 明臣には申し訳ないことをしていると俺も分かっている。でも大人しく、この家に染まるのは俺の性分じゃない。 大きな引戸が俺を待ち構える。 毎度毎度この扉を前にすると、少し緊張が走る。 ここから先は敵だらけだ。 俺の事を邪魔だと思っている奴は多い。 権力や血の醜い争いがこの中で行われることを知っている俺には、この綺麗な日本家屋が禍々しく見える。 丁寧に指先が揃えられた綺麗な手で、明臣が引き戸がからからと音を立てて開くと、昔から馴染みのある使用人の恵子さんが俺を迎え入れる。 「辰公お坊っちゃん、おかえりなさい。」 深みが増して来た皺を優しい笑みで頬に集める恵子さんが、嬉しそうに俺の名を呼んだ。 「ただいま恵子さん、変わりはない?」 唯一俺を孫のように大切に育ててくれた人。 タバコを左手に持つと恵子さんに煙がかからないように遠ざけて片手でハグをした。 「ふふふ、元気ですよ。お坊ちゃんもお変わりなく?」 背の低く少し腰の曲がった恵子さんの前で革靴の靴紐を解き式台に足をかけるとすかさず恵子さんが俺の靴を並べた。 「元気だよ。」 そう答え客間に行こうと足を進める俺に、恵子さんは気遣わしげな表情を見せた。 「今回は、無理をなさらないでくださいませ。私は辰公坊ちゃんが心配でなりません。」 憂色の色を込めた声でそう言う恵子さんと、明臣は同じ表情で俺を見ていた。 「大丈夫だよ。」 滅多に使わない頬の筋肉を緩く持ち上げると、恵子さんのような優しい笑顔を返した。 恵子さんは、憂色拭えない表情のまま俺と明臣を連れて客間へ行き、井上家一同が待つ客間の襖を開けた。 タバコを咥えて、すぅっと一呼吸。 もくもくと吐き出した煙を突っ切るように客間に姿を見せると、どよめく奴らは全員俺を見て、まるで穢らわしいものでも見るような目で見ると上座で座る親父と目が合う。 親父は立ち上がり鬼の形相で俺に近づくと、思いっきり振りかぶり、俺の頬を打った。 バチンと、派手な破裂音が部屋を駆けて、その音を被ったもの達はしんと言葉を失った。 俺は体をピクリとも動かさず、頬だけを打たれた反動で横へ流すと冷たい目で親父を見た。 「辰公...貴様....家の中で煙草を吸うとはどういう了見だ!!!」 胸ぐらを掴む親父は激昂し、明臣が親父と俺の間に入る。 「いきなり打つなんて....!皆さんの前です、やめてください!」 祖父母は気にもとめずお茶を啜り、従兄弟とその母親は目を丸くしたまま、俺の母親は立ち上がり親父を俺から引き剥がそうと掴みかかり、叔父が静かに一言、言葉を放った。 「兄さんの育て方が悪かったんでしょう。」 親父は俺の襟から手を離すと怒りに震えた手を押さえて、叔父を睨みつけた。 親父と伯父は血の繋がった兄弟のくせに仲が悪く、頭首の座の取り合いになった過去がある。 現頭首は爺様だ。本当はうちの親父が頭首だったが、αの妻がいながらβの女性と子供を作った時にその権利を剥奪され爺様に戻された。 爺様は親父にその頭首の権利を譲る気はないらしく、順番で言えば本来次の後継者は伯父になるのだが、伯父は親父が頭首になった際に一度分家になってしまったため俺が序列的に1番で明臣が2番、伯父が3番で、従兄弟が4番に当たる。 「辰公さん、どうして貴方はいつもそうなの?」 母さんが心配そうに覗き込む。 母さんは俺の機嫌を取りたがる。だが、母さんの性格のプライドの高さが垣間見えて、俺には母さんの機嫌取りがとても鬱陶しくて仕方がない。 母さんが推薦したい頭首は俺だ。井上家に嫁に来て、立場が苦しい母さんとしては浮気した旦那よりも俺の方がまだ幾分かマシという事だ。 だが俺の事もただの道具としか思っていない。 それもそうだ。α同士の結婚、純血主義者はαの血が濃い。元来αは支配的な性格で純血主義者はその気が色濃く出ている。なのにそんなα同士で愛し合おうというのが無理な話だ。 純血主義者は、血を守るために情を捨てた奴ら。そこから生まれた子供はただその血を守るためにまた同じ事を繰り返していくのが慣例だ。 普通の家庭が食う母親の味ってのを俺は知らないし、母親の温もりってのも知らない。 息子の世話をする。それさえも大人になって親父が当主の座を下されてからの話だ。 そしてこの権力争いの一番の問題は俺だ。 αの俺が継げば、なんの問題もないのに俺がこの素行の悪さと後継の拒否を繰り返している事で俺の後継に反対している派閥が力を増して来ている状態だ。 残った明臣はβの血が混ざったα。 井上家の血が半分流れてるとは言え、どこの誰かも知らない女の血は井上家にとっては大きな足枷になるのだ。 だが父は、愛のない女との間に生まれた息子の俺よりも、愛し合って生まれた明臣を頭首にしたがっている。 だから親父にとって俺は邪魔な存在だ。 そして分家になった伯父は、親父よりはマシではあれど、全く後継ぎとしての教育を受けていない人だ。 親父が幼い頃から後継ぎとして見られていたため、伯父はかなり自由に生きてきたようだった。 凡そ誰を頭首にするかで揉めているのだが、結局決めるのは爺様だ。 こんな騒然とした家族会議の中でも、茶を啜って眉一つ動かさないのがうちの爺様だ。 「明臣、辰公。座りなさい。」 爺様がそういうと一斉に文句やら悪態やらをついていた全員が静まり返り、俺と明臣は上座の方の開いた座椅子に座った。 「今回この場に呼んだのは他でもない。次の当主についてだ。わしもそう長く時間があるわけじゃない。」 親族全員が息を呑む。 俺と明臣は蚊帳の外と感じていた。 俺の母さんはソワソワしている。 万が一俺が選ばれる可能性があったとして、さっきみたいな態度じゃ取り下げられたって仕方ない。 父さんのことは爺様は呆れているようだし、俺も素行が悪い。 明臣は優秀だが血に問題がある。 そうなると1番可能性が高いのは、叔父の稔さんが本家に戻る、若しくは息子の大河になるだろう。 誰もがそう思った。 稔さんも表情に不安の色はなかった。 「辰公、お前が当主になりなさい。」 爺さまの声が途切れるや否や、怒号が飛び交う。 「そんな!!父さん!!大河もいるでしょう!?」 「親父、あいつに任せるくらいなら稔の方が幾分かマシだ!」 親父と叔父が口々に代案を唱える。 大河もあり得ないと言った表情で俺を見る。 明臣は俺のことを不安そうに見つめた。 母さんは表しがたい喜びを奥で噛み締めているようだった。 爺様の考えることはわからん。でも、ここにいる男の中では1番真っ直ぐな人であることに間違いはない。やれと言われたなら仕方がない。 やるつもりはなかったが、選択肢に俺が入ってしまっていたのだからそれなりの覚悟はしていた。 「異論は認めん。明後日家督継承の儀を執り行う。参列者をお呼びするので部をわきまえるように。話は以上。それでは部屋に戻りなさい。」 殆どの奴が、婆様と使用人を連れて部屋へ戻る爺様の後ろ姿を呆気に取られたままぼうっと眺めていた。 俺が表情ひとつ変えずに立ち上がると、今にも掴みかかりそうな叔父を息子の大河が抑えた。 「辰公!!!!俺は認めんぞ!!!」 「父さんやめてください!!!今は堪えてください!」 んなこと知ったこっちゃねーよ。 俺はこんな家どーだっていい。 叔父に一瞥くれると無関心に襖に手をかけた。 後ろから降るように視線が刺さる。 一緒に立った明臣が気遣わしげに俺の後ろに着くと、俺への罵声を背中に浴びながら恵さんが開いた襖を出た。 「兄さんが帰ってくるといつもこうですが、今回は特に荒れそうですね...。」 ははは...と眉を垂らすと、顔は憂慮一色で染まった明臣が困ったなぁと頬を掻いた。 俺が泊まるには広すぎる離れの客間のソファで俺と明臣は向かい合って茶を飲んだ。 「悪いな明臣。俺はある程度掃除したらお前にこの家譲るから。」 えぇっと...と俺の言葉を何度も脳内で反復させ、咀嚼できた頃に目を見開いた。 「ぼ、僕に!!?僕の身には余りますこの家は....!それに僕は...。」 「βの血が混ざってるから?」 「...はい。僕は妾です。其れこそ殆どの井上家の人間は反発するでしょう。」 明臣は優しいやつだ。だから虐げられて、諦めてきた。みんなが良ければそれでいいって思ってる。 クソみたいな偽善思考だ。 明臣親父が勝手に連れて帰ってきたくせに一丁前に俺以外の親族から明臣を守れもしなかった。 だから海外留学に出した。 でもそのおかげで、明臣は1番常識人で1番頭がいい。これからこの家を叩き直すってなれば、明臣以外の人間には頼めない。 「妾とか関係ねーよ。お前が1番優秀だから。」 何にも気にせず発した言葉。 俯いて数秒無言だった明臣が顔を上げると、小さな雫が瞳から落ちた。 「はは...兄さんと話すと何だか狂っちゃうなぁ...。」 着物の袖でゴシゴシと目元を拭くと、恥ずかしそうに笑った。 一度だけ会った明臣の母親の深雪さんを思い出す。 「とりあえず、こんなに全員の前で親父と叔父さんがキレてんの見せてりゃ俺が継承の儀までに刺されたりする事もないだろ。」 俺が死んだら明らかにあの二人が疑われる。 戯けたように眉を上げると明臣は「縁起でもない。」と少し笑った。 翌日、各々継承の儀に向けて着物やらスーツやらの準備をする事になった。 母さんはいつもに増して、俺を溺愛してるかのように機嫌をとりに来る。 鬱陶しい...という表情を見て明臣が気の毒そうな顔をした。 「辰公さん、当主になるんだったらお嫁さんもそろそろ選ばないといけないわね。」 その言葉の後部屋の外に目をやると、縁側を数人の女性が歩いてくるのが見える。 一人ずつ丁寧に俺に頭を下げると、ずらりと母の後ろに並んだ。 「貴方と縁談をしたいという名家のお嬢様をお呼びしたの。貴方が気にいる子がいればお話を進めようと思って。」 はぁとひとつため息を吐く。 望んでないし、どーせ名家の“α”女だろ。 気が強そうだし、全くもって興味が湧かない。 殆どの女が選ばれるのは私。って顔してる。 「お前らどうせ、純血αの家にでも嫁がせて政略結婚させようっていう馬鹿な親に言いくるめられてきたんだろ。中身も何もねぇ親の言いなりになる女なんて、嫁にもらうつもりないから。純血αに虐められる前にさっさと帰りな。夜這いの一つでもできる度胸あれば嫁にしてやるよ。」 しっしと、手で払う仕草を見せると顔真っ赤にして怒った女共は次々と帰って行った。 「なんて失礼なことを言うの!?井上家を、貴方を思ってお呼びした格式のあるお家のお嬢様ばかりだったのよ!!?」 母さんが頭に手を当てると、頭に血が昇りすぎたのか、くらりとテーブルに体を預けた。 「麗子さん...!大きな声はお体に良くないです。」 明臣が俺の母親を気遣うよう手を差し出そうとすると、「触らないで!」と大きく打ち払った。 「....っ。」 大きく音を鳴らして払われた手を、悲しそうに明臣は自分の片手で覆った。 何十年こんな仕打ちを受けてんだよ明臣。 腹立たしい気持ちが込み上げてくるが、ここではここのやり方で明臣を守るしかない。 何でもかんでも感情的に動いたって逆効果だって、親父を見て、母親を見て、ガキの頃から何回も思い知らされている。 「あ...あの...。」 聞き覚えのない声に顔を上げると、母さんの後ろに1人だけ女性が立っているのが見える。 「香子さん...!」 明臣が驚いたように声を絞る。 全員帰ったと思っていたが1番大人しそうな女だけ、その場に立っていた。 明臣の動揺している様子から、あの香子って女を知っている様子だった。 「私...私をこの家に置いてください。」 突然膝をついたかと思えば、頭まで畳に擦り付ける。 こんな家の何がいいんだか。 クソみたいな家に頭下げて、こんな家もこんな風にさせる女の家も何もかも気に入らない。 実家に帰ってくるとイラつくばかりでそのうち血管が切れてしまいそうだ。 「何考えてるか知らんが、俺は機嫌が悪いんだ。帰ってくれ。」 頭を下げたままの女を置いて、俺はその部屋を出た。 「兄さん...!」 慌てて追ってくる明臣に素っ気なく「風呂入って寝る。」と告げると俺はまた離れに戻った。 明臣は母さんと香子とかいう女が2人残った客室を不安そうに見つめた。  離れは本邸と違って洋風の家だ。 いつ誰がきても貸し出せるように管理されている。 シャワールームで固めた髪をときほぐす。 緩いとはいえオールバックなんて柄でもない髪型を舐められない様にセットしていた。 頭から流れ落ちていく泡が、足元の排水溝にぐるぐると飲み込まれていくのを見て置いてきた嶺緒を思い出す。 「ふーっ...。」 シャワーだけついた無機質壁に手をつく。 余計な事だ。忘れろ。 今はうちのことだけ考えるべきだ。 うちの連中は厄介な奴が多い。 俺より何倍も腹黒いこと考えてる連中だ。 気を張ってないと隙をつかれる。 流れっぱなしのシャワーを止めると、雑に拭いてバスローブを羽織った。 離れは井上家の影がなくて少し気が休まる。 いつもはしない、気疲れってやつでいつもより何時間も早く眠気が襲った。 髪もろくに乾かしてないのに...、でもどうせ明日もシャワーを浴びるし....。 いつのまにか布団もかけずにベッドに沈んでいた。 「辰公、俺は他のやつと一緒だったの?」 「俺はお前が初めてだったのに...。」 嶺緒の泣き腫らした顔が俺を責め立てて、冷たい手が胸元を這う様に縋ってくる。 ぐるぐると嶺緒との記憶が反芻して、息が荒くなっていく。 するりと撫でる手のあまりの冷たさにハッと、自分が夢の中にいることに気づいた。 目を開けると、今にも襲われそうな体勢でバスローブを着た女が俺の胸元に手を這わせていた。

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