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1.snowslide①
この身に刻まれた寂しさと、愛しい彼がくれた苦しみを抱いて生きていくのだと思っていた。それがせめてもの救いだとすら。
朝日が差していた。
布団の中でもぞもぞと動いてふと、隣に別の体温があることを知る。
「…………」
吹雪はそっと布団を持ち上げた。男の顔を確認するや否や、鳩尾に氷の塊を落としこまれたかのように急速に冷えていく。
全然まったく、何ひとつ覚えていない。
吹雪は素早く立ち上がり身支度を整えると、そのまま何も言わずに部屋を出た。何があったかは、痛む頭と、腰と――…… あらぬ部位の違和感が親切にも教えてくれている。
(―― いやいや…… でも、まさか……)
教務室に与えられた自分のデスクで資料をめくるが、少しも頭に入ってこない。ため息を吐きかけたところで、斜め向かいに座る吹雪よりも年上の女性教諭が話しかけてくる。
「白峰先生、昨日頼んだプリント作ってくれました? すみませんけど放課後までに必要になっちゃって……」
「あ――、わかりました。去年のやつってこのファイルで合ってますよね? 探してるんだけど見つからなくて」
「え、本当? 他の先生方が入れ替えてなければあるはずなんだけどな…… 去年担当したのは、ええと……」
少し考えて、ああそうだ、と彼女が口にした名に、吹雪の手が止まった。
「高橋先生に聞いたらわかるかも」
「呼びました?」
タイミング良く教務室に顔を出した男の顔を、吹雪は勢いよく振り返る。
高橋冬真。
ほんの数時間前まで、自身の隣で寝ていた男だ。
女性教諭が説明をすると冬真は「ちょっといいですか」と言って吹雪の手元のファイルを覗き込んでくる。近づいた顔に、吹雪は思わず視線をを逸らした。
「ないですね。―― あ、ていうか去年のデータこっちのパソコンにあるんで使ってください」
「あ、ありがとうございます」
「ネットワークに上げておきます」
自身のデスクに戻ってパソコンを操作する冬真はいつもと変わりない。ひょっとすると、本当は何もなかったのではないか。
「白峰先生」
英語教員室へ行く途中で呼び止められて立ち止まった吹雪の空いた左手に、何やら小さな箱状の物が押しつけられる。
「俺の部屋に忘れていったでしょう」
煙草だ。反射でポケットに触れてようやくそれがないことに気づく。春休み中といえど生徒に認められたらばつが悪いとでも思ったためらしい渡し方をされたそれを吹雪はすみません、と謝りながらポケットに押し込んだ。
「あと、今朝も―― 急いでいたものですから」
「いえ、こちらこそ」
もごもごと言い訳を口にすると、冬真は唇の端をほんの少し持ち上げた。
「白峰先生、かなり酔っていらしたので勝手に俺の部屋に連れ込む形になってしまって」
「連れ……」
連れ込むというのは、つまり――。
「あっ、いたいた、冬真先生ーっ」
廊下の向こうから聞こえた声に、冬真がぱっと振り返る。ジャージ姿の生徒らと話し始めた冬真の邪魔にならないよう、吹雪はそっとその場から離れた。
『白峰先生、今日この後空いてます?』
昨日、この廊下で声をかけられた。
『国語科の先生たちと飲み行くんですけど白峰先生もどうですか? 男が俺しかいなくて寂しいので、白峰先生が付き合ってくれたら嬉しいんですけど』
それから駅の近くの店で飲んで、ビールが苦手なんですという話をしたら女性陣にかわいいねとからかわれたのがその時は妙に癇に障って、いつもは飲まない度数の酒にも手を出して、そのあとの記憶がない。
どうしてよりにもよって参加義務のない飲みに参加して記憶を失くすまで飲んだのか。
誰もいない英語教員室のスチール棚の前で、吹雪は深いため息を吐いた。
(自分で思ってる以上に効いてるな、これ)
一人暮らしというものが、根本的に向いていないのかもしれない。家事は一通りできるが、いざ自分のためにとなると料理もなにもかもどうでもよくなってしまう。
「あー、ふうくんおかえりー」
帰宅して―― といっても居候している叔母の家だが―― リビングに入るなりソファでくつろぐ女性の姿に、吹雪は首を傾げた。
「佳澄ちゃんは?」
「キッチン」
缶チューハイを飲みながら言われてそちらへ視線を向けると、叔母の佳澄がおかえり、と言いながら出てきた。
「カレー少し残ってるよ」
「辛くなかった?」
「美味しかった。冴子さんとさっき食べたけど」
それはよかった、と返しつつ冷めかけたカレーに火を入れるためにガスコンロの取っ手をひねる。量が減っているのですぐにふつふつと沸騰しはじめたカレーを横目に戸棚から皿を取り出そうと手を伸ばしたちょうどその時、リビングのソファに戻った佳澄が口を開いた。
「そういえば吹雪、君いつまでここにいる?」
チューハイを開けながら投げられた問いに、吹雪は手を止める。
「…… 邪魔?」
「邪魔だったら言うよ。そうじゃなくて、引っ越すなら手伝うし、部屋が決まらないなら私も一緒に探すから」
叔母はいいひとだ。十年前に引き取られてから、ずっと吹雪の苦労がないように気にかけてくれている。
「うん…… ありがとう」
カレーと麦茶を持ってテーブルに着くと冴子が横からちょいちょいと吹雪の腕をつついた。
「ねね、これ美味しそうじゃない? 期間限定なの」
「本当だうまそう」
「ふうくんと佳澄ちゃんと三人で飲もうと思って。佳澄ちゃんも飲むでしょ?」
「何味?」
「桃とさくらんぼだって」
お互いの肩をくっつけて話し始めた二人のそばで、吹雪はチャンネルを回した。
冴子は佳澄の大学の時の先輩で、吹雪とももう十年近い付き合いになる。吹雪が中学生の頃に一度、二人がマンションの駐車場に停めた車の中でキスしているのを偶然見かけた。
秋だった。ちょうど日が暮れた暗い駐車場の、壊れた街灯がちかちかと不規則に明滅してふたりを照らしていた。
(付き合ってんのかな。…… いや、でも)
―― 女同士。
不思議と嫌悪感はなかった。ただ、―― ただ。
玄関で鞄を下ろすとちょうど後ろでドアが開いた。
『あ、帰ってたの』
佳澄はすぐに夕食の支度に取り掛かることを告げると、ぱたぱたと急ぎ足で台所へ向かった。
『さっき駐車場に、冴子さんの車がなかった?』
『ああ、冴子さんね、この前私の車に忘れ物して、仕事終わりにそれ取りに来てたんだよ』
夕食の支度を手伝いながら探るようにたずねると、そんな答えが返ってくる。
『寄ってってもらえばよかったのに』
『なんかこのあと予定があったみたいで、帰っちゃった』
佳澄の様子はいつも通りで、変わったところはない。吹雪はなかなか核心を突くことができない焦れったさにうつむき、目をぎゅっと閉じる。そして、聞いた。
『車の中で佳澄ちゃんが冴子さんとキスしてるのが見えたんだけど』
どん、と彼女が持っていたじゃがいもがシンクの上ではねる。なかば見間違いであればなどと思っていた願望はその音によって儚く消えた。
『…… 見えてた?』
『見えてたっていうか、…… うん。街灯でちょっと……』
吹雪の返答に佳澄は深いため息を吐いた。
『付き合ってるの?』
問いかけると佳澄は先ほど取り落としたじゃがいもを拾いながら
『付き合っては、ない』
と苦々しげに言った。吹雪が「本当に?」とたずねると「なんで?」と返ってくる。
『俺に気遣ってない?』
『意味がわからない。なんで君に気を遣うとあの人と付き合ってないことになるの』
吹雪と一回りしか違わない、二十代なかばという年齢にそぐわない淡々とした話し方は怒っていても喜んでいても変化に乏しいが、なぜか安心する。この口調に加え、銀縁の眼鏡が冷たいとも言われそうな見た目に拍車をかけていたが、なぜか先日の三者面談では同級生に好評だった。佳澄の容姿は世間一般では整った部類なのかもしれない。―― いや、そうでなくても。
『…… 佳澄ちゃんに、好きな人とか彼氏ができたら…… 出ていかなきゃいけないなとはずっと思ってた』
『…………』
『彼氏じゃなくても、…… ほら、俺がいたら気軽に友達も呼べないだろうし。今はどうすることもできないけど、高校とか寮のある学校を探したりしてるから』
『―― 本気で言ってるの?』
普段よりさらに低く暗い声のトーンに、吹雪もさすがに顔を上げた。
『…… 君が、私との生活を窮屈に感じていたり、私そのものに対して嫌悪感を抱いているのなら話は変わるけど』
『そ、そんなことはないけど』
『じゃあその話は認めない』
いいね、と告げられ、話はそこで断ち切られた。
深夜、吹雪がリビングに出ると佳澄がキッチンにいた。水でも飲んでいたらしい彼女は吹雪を認めるとどうした、と声をかけてきた。
「眠れない?」
「ん…… いや、もう寝るよ」
ココアを飲んでいたマグカップを洗っているのを、なぜか佳澄がじっと見つめてきたので「何?」と尋ねれば佳澄はいやと言って視線を外した。
「さっきはあんな話したけど、無理に出て行ったりする必要ないからね」
いいひとである以前に、佳澄はすごく真面目だ。一緒に住み始めた当初から変わらない彼女に、吹雪は苦笑した。
「それ、もう何回も聞いてる」
「一応言っとこうと思って」
「もーわかったから」
吹雪は濡れた手をタオルで拭うと、佳澄の肩を押した。
「ほら、早く寝ないと明日起きれないよ。冴子さんとデートなんでしょ」
「別にデートってわけじゃ……」
「はいおやすみ」
もごもごと反論する佳澄を冴子のいる寝室に押し込んでふと、吹雪は窓の外を見た。曇っていて、星はきっと見えない。
―― どうして離れられるなんて思ったんだろう。
一度寝室に戻ったはいいものの寝る気にはなれず、吹雪はそっとマンションを出た。
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