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第6話 こぼれた水(9/13)

あれからずっと、レイはどこか寂しげに笑う。 さっきだってそうだ。 俺の言葉に、確かに喜びを浮かべてくれた。なのに。 頷き、顔を上げたレイの瞳は、悲しげな色をしていた。 俺は、怪我の手前半月ほどの記憶を残し、そのほとんどの記憶を取り戻していた。 もう俺は、今までの俺と同じだと、自分ではそう思っている。 現に、今週からは仕事にも復帰して、城で新人指導を始めていたし、周りの者も皆、俺を今まで通りだと思ってくれている。 ただ一人、レイを除いて。 レイは、俺と、記憶を無くす前の俺を、いつも比べていた。 以前の俺と同じ反応を得ると、ホッとするのだろう。 ただ、ちょっと違う事を言えば不安がられるようでは、こちらも何だか、常に探られているようで居心地が悪い。 もっとレイを安心させてやりたいとは思うものの、俺自身がレイに疑われているのでは……。 俺を信頼してくれないことには、これ以上、何をどうしてやれば良いのか分からなかった。 ふと、レイの帰りが遅い気がして、時計に目をやる。 様子を見に風呂場に向かうと、水音に紛れて、小さな嗚咽が聞こえた。 「ルス……。戻ってきてくれよ……」 思わず、息を潜める。風呂場からは水音が続いていた。 俺に聞かれまいとしている声を、立ち聞くのは良くない。と。 ……頭では分かっていたのに、俺はその場に立ち尽くしたまま動けなかった。 「俺んとこに、戻って来るって……お前、言ったじゃないか……っっ」 小さな声は、俺では無い俺に、縋っていた。 「俺……っ。俺だけ……、置いてかないで、くれよ……。俺にも、あの日の事を……忘れさせてくれよ……」 レイは、俺に隠れて泣いていた。 俺に、迷惑をかけないように。 俺を困らせないように。 頭では理解できても、心はそれを許せなかった。 「何でも言ってくれ」と言った俺の言葉は、心は、届かなかったのか? 胸に押し寄せる悔しさと、途方もない無力感に、拳を握り締めた。 何故だ!! と心が叫ぶ。 どうして! 辛いと、苦しいと、俺にぶつけてくれないのか! 俺はこんなに、お前のそばにいるのに!! 目の前の現実に、自分はレイの恋人の『ルストック』だとは認められていない事を痛感する。 一人で抱え込まずに、俺に……。 ……俺に、どうにかしてくれと、言って欲しかった……。 思い出の中じゃない、この、俺に……。 酷く裏切られた気分だった。 ふらりと後退れば、壁に腕が当たり、気付く。 このままの心では、風呂から出たレイに顔を合わせられない。 今の自分からは、レイを傷付ける言葉しか出てきそうになかった。 そうなれば、今度こそレイは、俺を「違う」と思うのだろう。 そうして、悲しみに暮れるのだ。 俺に……隠れて……。 ギリっと力の限り握り込んでいた手が、痛みを返す。 だがそれ以上に胸が痛かった。 俺はこうして、お前の隣にいるのに。 お前は、俺を通して過去の俺を見るばかりで、今の俺を見ようとしない。 何が違うというのか。 何が、今の俺では足りないというのか。 俺は、俺以外の、何者でもないはずなのに……。 気付いた時には、俺は部屋を飛び出していた。

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