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第6話 こぼれた水(10/13)
バタン!! と乱暴に閉められた玄関の音に、俺は顔を上げた。
……何だろ。ルス、なんか買い物にでも行ったのかな……?
涙でふやけた頭は、まだぼんやりしていた。
それにしては何だか乱暴な音だった気がする。
あいつは普段から、何に対しても丁寧なのに。
それに、外に行くなら、俺に一言声をかけてもおかしくないだろう。
そこまで考えて、ようやく気付く。
ルスは、出て行ったのだと。
背筋が凍り付く。
青ざめる顔で風呂場を飛び出して、部屋を覗く。
さっきとほとんど変わらない部屋。
そこから、ルスと、ルスの荷物だけが無くなっていた。
……どうして……。
空っぽの部屋を前に、呆然と立ち尽くす。
ルスだけがいない部屋をただ眺める俺の、視界の端に、見慣れない赤色が掠めた。
風呂場の手前の通路、その壁に。
血痕……?
まだ色を変えず、赤いままのそれは、ルスの腰のあたり付いていた。
まさか、強盗……?
いや、物取りならこんな、ルスとルスの荷物だけが無くなるわけがない。
……じゃあ……、何だ……?
真新しい血痕。
片足が動かないルス。
杖だって無い。
俺に愛想尽かして出てったんならそれでいい。
でも、もし、そうじゃなかったら……。
そう思うと、俺は体中の血が凍ってしまいそうだった。
手早く服を着て、俺は外に飛び出した。
日はもう暮れかけて、あちこちの街灯に火が入り始めている。
辺りを駆け回って、ルスの姿を、何かの痕跡を探る。
走って走って、何の手がかりも見つからない事に、焦りが隠しきれなくなった頃。
角を曲がったところで、金色の青年に、小柄な男が長い黒髪を揺らして付き従う姿が見えた。
「あっ、お前ら! いいとこにっ!!」
呼び止めれば、二人は振り返った。
「レインズさん。どうしたんですか? そんなに慌てて」
柔らかく問いかけてきた青年に、俺は上がった息を整えながら答える。
「お前ら、ルストック見なかったか?」
「隊長なら、少し前まで、ロッソに何か尋ねていましたよ」
「ロッソに……?」
俺が、首を傾げて小柄な従者を見れば、ロッソはいつもと変わらぬ半眼で答える。
「貴方が酔い潰れた日の話を、させていただきました」
「………………何でだよ……」
げんなりと吐き出した俺の言葉に、ロッソはそこまでは分からないという身振りをする。
って事は、ルスの方からその話を聞かせてくれって言ったって事か??
一体、何のために……。
「隊長に、何かあったんですか?」
心配そうにするリンデルに、俺は手を振る。
「いや、何でもねーんだ。ありがとなっ」
「……迷子でしょうか」
リンデルにそっと囁くロッソに「誰が迷子だ!」と叫んで、俺はまた駆け出した。
良かった……。ルスは自分で出てったみたいだ。
……自分で……。
俺は、二人から俺の姿が見えなくなったあたりで、足を止める。
ぽたり。と足元に雫が落ちた。
そっか、俺、捨てられたんだ……。
ああ、でも。
ルスが事件に巻き込まれたりしてなくて、良かった……。
悲しみよりも、安堵の方が大きくて、俺は苦笑する。
やっぱり俺は、ルスが元気なら、それで良いんだな。
ルスが笑ってくれてれば、それで……。
けれど、胸に浮かんだルスの笑顔は、どこか遠かった。
今日も昨日も隣にいたはずの、ルスの笑顔が思い出せない。
蘇るのは、記憶を失う前のルスの姿ばかりだった。
俺は焦った。
だっておかしいだろ?
今日も一緒に、出かけたのに。
隣で一緒に、歩いて、話して……。
ルスは何て言っていた?
……思い出せない。
確か俺は……、昔……、学生の頃にルスと一緒にこの川辺を歩いたな、なんて事を思い出していて……。
まさか……。
俺は、今日……、ルスを、見ていなかった……?
じゃあ、……ルスは?
あいつは、隣にいる奴を無視するなんて、そんな失礼な事するような奴じゃない。
ルスはきっと、俺を見てた。
ルスは、見てたんだ。
ルスを見ない、俺のことを、今日一日、ずっと……。
ぞくり、背筋を伝ったのは、恐怖だった。
どんな気持ちだったかなんて、そんなの、彼女に笑いかけるルスをずっと見てた、俺が、分からないはずがなかった。
……なんて、事を……。
俺はなんて残酷な事を、ルスにしていたんだろう。
こんな俺を、ルスが好きになってくれるはずなんて、無い。
……振られて、当然だよな……。
悔しさと不甲斐なさに強く強く握り込んでいた手が、ズキンと痛む。
じわりと手を開けば、そこには赤い色が滲んでいた。
……あの、風呂場の手前についていた、赤色。
あれは、まさか、ルスの悔しさだったんじゃないか……?
俺はようやく、ルスの気持ちにほんの少し気が付いた。
……ど。どうしよう……、どうしたらいい……?
俺が、ルスを傷付けた。
俺が後ろばかり見てたから……。
と、とりあえず、ルスの家に行こう。
そんで、謝って、ルスの手を……――。
その時、川を挟んだ向こうで、細い路地裏に消えてゆく、茶色がかった黒髪が見えた。
見知らぬ男とともに。
ほんの一瞬の光景、後ろ姿だけだったが、俺がルスを見間違うはずなんてない。
俺は全力で駆け出していた。
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