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第2話

 小さな国に住まうほとんどの民衆が詰めかけているのではないかと思うほどに、処刑広場どころか一帯を埋め尽くさんばかりに集まっていた人々の輪から少し離れた暗い路地裏に一人の男が力なく座り込んでいた。男は三十半ばであろうか、端正な顔立ちはしているものの酷く異様な姿をしている。黒く長い髪は結ぶことさえもされず背に流され、上等そうに見える寝衣のようなものを纏っていた。グッタリと力なく粗末な家の壁に背を預け、腕も足も投げ出されている。さらに特筆すべきはそのやつれた顔を覆いつくさんとするかのように広がる黒く禍々しい模様であろう。否、顔だけではない。首も、手足も、その爪の先まで黒く禍々しい模様が刻み付けられていた。 (ひとつの時代が終わり、ひとつの時代が始まる……)  もはや声すら出す力もない男は、どこか疲れたように、しかし悲観ではなく輝くであろう未来を予想して、深く深く息をついた。  神の宿る国――太古の昔よりそう呼ばれてきた玄栄(げんよう)の国。神仙が天より地上に降り立ち人々を助け、導くと。確かに、この国に神仙は降り立つ。そして人の子としての生が終われば魂は天上界に返り、天神として永遠の命を生きるのだ。だが神仙がどれほどの智慧を持とうと、力があろうと、直接的に物事を動かすのは禁忌。神仙は人々を教え導く存在だが、それに耳を傾け信じるか信じないか、動くか動かないかは人の子次第だ。  この玄栄の国は、繁栄しすぎたのかもしれない。時が経つにつれ人々は栄華に溺れ、子供が玩具で遊ぶように権力を振るい、己の繁栄の影で何が起こっているのかさえ気づくことはなかった。そんな中皇子としてこの地に降り立った神仙たる男は、民衆の怒りが革命という形で溢れ出し、そしてそれが凄惨たる光景となった終末を見届けた今、その人としては若いであろう命を終わらせようとしている。  革命以前に飢えと渇きで多くの民衆が儚くなった。そして革命の嵐で多くの血が流された。その恨みや苦しみ、怒り、悲しみ、そして実際に流された血糊のすべてが地に染み込み、水にすら影響を及ぼした。人の子に害はないだろう。だが、その目には見えない穢れが人の魂を持たず水を媒介にして人ならざる力を使う男を蝕み、それが黒く禍々しい模様となって男を覆っている。この穢れが全身に行きわたった時、男の命は終わる。それは人の子としての命だけではない。魂さえも汚れを受けた男は天上に帰ることすらできず、本当の死を迎えるのだ。そしてそれは、もう今にも訪れようとしている。だがそれを男はさほど悲しんではいなかった。どこか満足さえも感じている。  地上の人々が想像するように、天上は非常に美しい場所だ。一年中美しい百花が咲き誇り、天上の中心である天宮は息を呑むほどに美しく荘厳で。多くの天神が住まう美しい天上は、しかし男にとってなんら執着するものではなかった。何百年といた天上よりも、この地上の方が〝生きた〟という感覚があった。  天上に未練はない。どころかこのまま人の子として終わることができるのであれば幸せなのではないかとさえ思う。ただほんの少し、最後にひと目会えたならと思ったけれど、それはもう叶うまい。だがこのまま朽ち果てるのならば、その願いが叶わずとも――。  遠くで誰かが男を呼ぶ声が聞こえたような気がした。脳に直接響くような声であるのに、何を言っているのかわからない。だがきっと、名を呼ばれているのだろう。もう記憶の彼方に捨て去った、朽ち果てたはずの名を。 「……ぃ、ぃぇ……」  違う。違う――。  ぽつ、ぽつ、と空から冷たい雫が降り注いだ。パチパチッ、パチパチッ、と異音が耳にうるさい。黒く禍々しい穢れが唯一残っていた真白な肌を覆いつくさんと魔の手を伸ばす。男は業火に焼き尽くされるかのような熱さと氷塊に埋められたかのような冷たさを感じながら、最後の力を振り絞るように唇を開いた。 「……我が、名、は……、せき、ぇ……ぃ――……」  それ以外には無い。  ただそれだけを強く言って、男――夕栄(せきえい)は静かに瞼を閉ざした。

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