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第9話

 覚えている限り最初の記憶は、雲一つない晴天の中で風に揺られ美しい紫の花びらを舞わせている藤の下で目を覚ましたところだった。さわさわと風が藤を揺らす音だけが聞こえる静かな空間に、一人の青年がポツンと目の前に立っていた。自分よりも頭一つ分背が高いだろうか。誰だかわからなくて、否、何もかもがわからなくて目を丸くしながらコテンと首を傾げる。その見た目にそぐわぬ幼い仕草に目の前の青年が僅か、口元に笑みを浮かべたような気がした。 「おいで、こちらへ」  青年に優しく手を引かれて、気づけばすっぽりと包み込まれるようにしてその腕の中に抱きしめられていた。この行為にどのような意味があるのか、何もわからずただジッとしている。抗う気は起らず、どこか優しい温もりを感じて頬をすり寄せた。 「これからここで、この天上で生きてゆくのだ」 「ここ、で……?」  コテンと首を傾げれば、抱きしめていた手で両頬を包まれて、そして優しく上向かされる。美しい碧玉の瞳がそこにあった。 「そうだ。そなたの名は籐刹。天神・籐刹としてこの天上で生きるのだ。わかったな?」  籐刹。それが己の名で、これからこの世界で生きる。何もわからない中でそれだけは理解した彼は両頬を包まれたまま小さく頷いた。  おいで、と言われるがまま青年について行って、そこで籐刹は沢山のものを与えられた。一室を埋め尽くさんばかりの美しく輝く衣装や装飾品の数々、扉が無く壁と薄布だけで仕切られた幾つかの部屋がある広々とした自室、空色の天蓋がついている大人三人が横たわってなお十分な余裕があるであろうフカフカの寝台、瑞々しい果実がたっぷりと盛り付けられた美しく豪華な食事、そして世話係として数人の人型をした精霊の侍女たち。  あまりに簡単に与えられたそれらを、しかし己の名前とこれからこの天上で生きていくのだということ以外は何も知らない真っ白な籐刹は何も疑問に思うことなく受け取った。簡単に部屋を案内した青年が人払いをして二人きりになった時、ジッと瞳を見つめて言う。 「よいか。籐刹という名は、決して誰にも教えてはならぬ。教えろと言われても、決して名乗るな。籐刹という名を知るのはそなたと余――私だけ。他に教えてはならぬ」  何もわからなかった籐刹は、素直に青年の言葉に頷く。せっかく名前を貰ったのに名乗れないのは寂しいが、それでも目の前の青年が名を知ってくれているのならそう寂しがる必要もないだろう。何より、籐刹には青年の言葉に逆らうという思考は存在していなかった。  今日はもうお休み、と言われ籐刹は大きな寝台に横たえられ青年に寝かしつけられた。そして目が覚めると、青年はそこにはいなかった……。  青年がいない代わりに、眠る前に紹介された侍女たちがそこにいてベラベラと声を抑えることもなくお喋りに興じている。寝台を覆っている天蓋は薄く透けて見えるので身体を起こした籐刹の事にも気づいているであろうに、彼女たちは一瞥もくれずただただ仲間内でお喋りを続けていた。

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