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第5話
帰ってこなくて良いと、思っていたはずだった。
だけど僕はどこかで、帰ってくると思っていた。
魔王討伐成功の知らせから、一年、また一年と、時間が過ぎていく。
二十三歳になった僕は、今日も空を見上げている。今日の青には、入道雲が多い。蝉の劈く声を耳にしながら、僕は完成した村の看板を見ていた。クレアシオンとペンキで書いた。
重荷にはなりたくない。それでも――……。
「忘却されるのは、寂しいね、やっぱり」
……――僕だけが、覚えているみたいだ。勇者は今、人間の国々に奪われあっているようだ。魔王がいなくなっても、諍いは終わらないらしい。大陸新聞には、どの国の王族と結婚するのだろうかというゴシップが並んでばかりだ。
指先で唇を撫でてみる。生涯でただ一度きりの口づけの予定である記憶。旅立ち前にジェイスと戯れにしたキスを、僕は今も引きずっている。あのキスは何気ない日常の延長線上にあって、流れ星を捕まえに行く事よりも、僕達にとっては『遊び』の一つで。朧気な記憶であるから、回想も上手くは出来ない。流れ星の事は鮮明に思い出せるのになぁ。
ジャリと、砂を踏む音が聞こえてきたのは、その時の事だった。
何気なく顔を上げた僕は、背の高い人物が歩いてくるのを見つけた。
「字、汚いな」
「うるさいよ」
僕は昔、何度も練習した作り笑いを、必死に顔に張り付けるべく尽力し、唇の両端を持ち上げた。目が合えば、〓帰ってきた《、、、、、》その人物は、呆れたように笑っていた。
「背、伸びたね」
「だろ?」
僕の隣に並んでたったジェイスは、紅い瞳を看板に向けている。頭一つ分くらい、僕より大きいかも知れない。ガイルよりも大きいと思う。
「勇者様のご帰還か。みんなに知らせに行かないと」
「いらない。俺はまずは、ファルカと二人で話がしたい」
「例えばどんな話?」
「ずっと聞こうと思って忘れていたことがある。後悔していたんだ。あの日、覚えてるか? 流れ星を捕まえに行った事。あの時、ファルカは何を祈ったんだ?」
僕の背中にそっと触れ、ジェイスが看板を見たままで言った。僕はあの夜を忘れた事なんて一度も無かったけれど、知らんぷりをする。
「なんだったかなぁ。星なんて、見たっけ?」
「嘘と作り笑いが下手くそなの、全然変わってないな」
「え?」
「約束、守ってくれたんだな。待っていてくれたんだろ?」
待っていないと思っていたのなら、ジェイスは子供のままなのだと思う。当時、既にジェイスを恋愛対象として意識していた僕の方が、今のジェイスよりも大人かもしれない。
「村、無くなっちゃったから。約束は、きちんと守る事は出来ていないよ」
「お前が無事で良かった」
「ガイルも無事だよ」
「そうか。が――大勢が、亡くなったと聞いたぞ。すぐにでも戻りたかった。でも、俺は戻らなかった。魔王討伐の旅を優先した。ごめんな」
「どうして謝るの?」
「お前が一番辛い時にそばにいてやれなかった。そもそもその辛さは、俺という存在が原因でもある」
「けど、ちゃんと魔王を討伐して、ジェイスは成し遂げたじゃないか。夢を叶えた。僕の誇りの幼馴染だよ」
「だから泣きそうな顔で笑うのを止めろ。作り笑いが下手すぎる」
「……」
「ずっと会いたかった。ファルカを忘れた日は、一度も無い」
それは僕の方だ。毎日毎日、僕の方こそ、ジェイスの事ばっかり考えていた。だけどそんなの重いだろうと思ったし、見透かされるのは悔しいからと、唇には頑張って笑みを浮かべる。だけど、僕の眼窩は裏切り者で、温水を垂れ流し始めた。
「っ」
するとジェイスが不意に僕を抱きしめたものだから、体がビクリとしてしまう。最初はぎこちなく、その内に力がこもっていくジェイスの腕は温かくて、後頭部を片手で胸板に押し付けられる頃には、僕の涙腺は壊れていた。
「怪我は? 怪我はない?」
「ああ、無事だ」
「無茶ばっかりして、木から落ちてた印象しかないから心配してたよ」
「きちんとあの時だって着地しただろうが」
「それは、そうだけど」
「相変わらず心配症なんだな、ファルカは」
僕の頭の上に顎を乗せて、苦笑交じりの吐息をジェイスがつく。おずおずとその背に腕を回して見ながら、僕は目をギュッと閉じた。涙が止まらない。どうして自分が泣いているのかも、よく分からない。自身の情動の変化についていけなくて、息が苦しくなってくる。
「ちゃんと俺以外にキスをしないで待っていたか?」
「ごめん、それは破った」
「……へぇ。詳しく聞かせてくれ」
「小さな猫を拾ってさ。毎日チューしてる」
「それは数えないでおく」
ジェイスの腕に力が、より強くこもった。僕も気づけば強く強く抱きついていた。額をジェイスの胸に押し付けてボロボロと泣きながら、僕は目を閉じる。
「会いたかった。待ってた」
「最初からそう言え。これでも俺、不安だったんだぞ?」
「何が?」
「お前が俺の事、待っていてくれなかったらと思って」
「待っていなかったらどうするつもりだった?」
「そんなの、奪いに行くつもりだった」
相変わらずなのはジェイスの方だし、横暴だと思う。僕は苦笑しながら吹き出した。だけど涙が混じってしまったのは間違いない。
「どのお姫様と結婚するの? それとも、どの王子様?」
「お前と結婚するために、同性婚制度を大陸全土に根付かせた俺に、それを聞くのか? 魔王討伐の報奨で、願いを叶えてくれるというから、俺は全力で『同性婚!』と述べてきたぞ」
「それ、新聞によると『勇者は某国の王子殿下と熱愛中!?』って出てたけど?」
「ファルカって王子なのか?」
「ううん。僕はただの村人だよ」
「知ってる。そして俺は、お前以外と熱愛予定は皆無だ」
片腕で僕の腰を抱いたまま、もう一方の手でジェイスが僕の顎に触れた。涙で濡れたままの瞳を向けた僕は、ぐしゃぐしゃになっている顔を見られたくなくて横を向こうとしたのだけれど、思いのほかジェイスの手の力が強くて見上げるしかない。
「キス、しても良いか?」
「子供の頃は、勝手にキスしてから『練習!』って言ったくせに」
「今は本番だ。もう俺達は大人だからな」
「ン」
降ってきたジェイスの唇は、やはり柔らかかった。触れ合うキスをしてから、僕達は目を合わせる。顔を少し傾けて、屈んだジェイスは、何度も啄むように僕に口付ける。その温度が無性に優しく思えて、僕の胸が満ちていく。下唇を舌でなぞられた時、思わずうっすらと口を開くと、そのままジェイスの舌が口腔へと入ってきた。
「っ、ぁ……」
歯列をなぞられ、それから舌を舌で絡め取られ、強く吸われる。こんな濃厚なキスは人生で初めてだ。確かにもう、僕達は子供では無いのかもしれない。舌を引き摺り出されて甘く噛まれた瞬間、ピクンと僕の肩が跳ねた。
「ンは……っ、ぁ……」
腰から力が抜けていく。全身が熱くなり始めて、ふわふわする。
そんな僕を抱き留めると、ジェイスが再び腕に強く力を込めた。
「聞いてくれ。あの日、俺は――二個願ったと話しただろう? 一つはお前が当ててくれた通り、旅立つ事で魔王を討伐するという趣旨の世界平和、それが俺の願いだった。もう一個、今なら分かるか?」
涙が漸く乾き始めた頃、キスを終えた時、僕はそれを聞いて小首を傾げた。
「何? 全然分からない」
「『平和な世界が来たら、ずっと、ファルカと一緒にいられますように』と願ったんだ」
「……それ、僕の捨てたお願いに似てる」
「ん? どういう事だ?」
「僕も最初は、『これからもずっと、ジェイスと一緒にいられますように』とお祈りしようと思ったんだけど、旅に出たがっているのを知ってたから、『ジェイスのお願いが叶いますように』に変えたんだよ」
「最終的には、叶ったな。そうか、俺達の想いは重なっていたんだな」
そう言って笑うと、ジェイスが僕の額にキスをした。僕は短く吹き出した。
「本当に流れ星は、お願いを叶えてくれるんだね」
―― 終 ――
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